【心理】0と1の差は、1ではありません
どうも、まさたかです。
今日は、「0と1の差がどれだけ大きいか」について、個人的には人類の核心の一部なんじゃないか?(大袈裟!)くらいに思ってる話しについて書きます。
でも見ての通り、標題からさっそく叩かれる要素いっぱいなので、逐語的な解釈をしがちだったり、ごりごりの文理解釈主義の方にとっては、ただ意味不明な理論なのでブラウザバックをおすすめします!
一方で、筆者の意図を読み解く系の問題が得意(つまり理不尽な文章にも寄り添える?)な方は多少なりとも暇つぶしくらいにはなるかと。
論理破綻しているようにみえるこの感覚を受け入れることができたのであれば、個々の既存スキルや才能に関わらず、あらゆる挑戦や努力、それらの継続に繋がる可能性を秘めてるんじゃないかなぁ?
って思うくらいの考え方々なんですよ。
しかし、もちろん算数としては0と1の差は1ですよ?
それは紛れもない事実ですし、そこに異論はありません。(理系の方々からはご指摘があるかもですが)
けれど、ざっくりとまとめると、人生や仕事や学びにおいて本当に大きいのは、数字の差ではなく、“まだ動いていない状態”から“実際に動いた状態”へ移るときの差だと私は思っています。
ただし、最初にひとつだけ明確にお伝えしておきたいことがあります。
ここでいう「0」とは、数学的な意味での完全な無というわけではありません。
人は生きている限り、何かしらの可能性や欲求や構想を持っています。
ですから、本当に言いたいのは「0そのもの」ではなく、「まだ何も立ち上がっていない状態」といったイメージが馴染むかと思います。
つまり、未着手、未発生、未接続、未起動。
そうした状態から脱することの難しさこそが、ここでの主題となります。
同じように、ここでいう「1」も、立派な成果を意味しているわけではありません。
完成でも成功でも評価でもなく、ただ「何かが起きた」という事実です。
沈黙が破られた。
着手が生じた。
発信が行われた。
行動が現実に接続した。
その最小単位の出来事を、便宜上「1」と呼んでいます。
つまり、ここでの0→1というのは、状態の転換だと思ってください。
多くの人は、1と10、10と100、100と1000の差に目を奪われます。
売上、実績、フォロワー、継続年数、資格数、勉強時間。
世の中は拡大した量を可視化するのが得意なので、どうしても私たちは「どれだけ大きいか」で物事を見てしまいます。
けれど、実際に人の身体や精神が最も重く感じるのは、その大きな差ではなく、まだ何も起こしていない状態から、最初の現実を発生させる局面ではないでしょうか。
記事を書いていない人が一行目を書く。
勉強していない人が机に向かう。
連絡していない人が一通送る。
運動していない人が身体を動かす。
断れていない人が断る。
決められない人が決める。
外から見ればどれも小さなことです。
場合によっては、「そんなの大したことではない」と片づけられるかもしれません。
けれど、当人の内側ではまったく別のことが起きています。
そこには、未着手から着手へ、可能性から現実へ、観念から行為へ移る転換があります。
私は、1と100の差よりも、「まだやっていない」と「もうやった」の差の方が、ずっと大きいと思っています。
なぜなら、前者は同じ世界の中での拡張ですが、後者は世界との接続そのものが変わるからです。
言い換えるなら、1から100までは増やす話ですが、0的状態からの離脱は発生の話です。
そして、この発生の話は常に“重さ”を伴うように感じ、独特の抵抗が集中します。
人は、すでに回り始めた歯車をさらに回すより、止まっている歯車を最初に動かす方が難しいものです。
物理でいう慣性や静止摩擦に近いものが、人の行動にもあります。
実際、私たちを日々足止めしているのは能力不足だけではありませんよね?
面倒くささ、羞恥、恐れ、完璧主義、失敗回避、先延ばし、比較による萎縮。
そうしたものが複合して、未着手の状態を妙に安定させているのです。
だから、「やればいいだけ」という言葉は正しいようでいて、本質から逸れているように感じるのは、あらゆる問題は、行為の中身より前に、行為が立ち上がるまでの抵抗にあることが多いからです。
ここで、よくある反論にも着目しなければなりませんね。
大事なのは継続ではないか。
一回だけやったところで意味はないのではないか。
結局、社会が評価するのは量や実績ではないか。
どれもその通りです。
単発の行動だけで人生が決まるわけではありませんし、世の中が見るのは、たいてい積み上がった結果です。
だから、「最初の一歩さえ踏み出せばそれで十分です」と言ってしまうと、私の話は途端に価値を失ってしまいます。
ただ、私はここで、0から1と継続を別物として対立させるのもまた少し違うと思っています。
なぜなら、継続とは、一度始めたことがそのまま自動で延長されることではないからです。
ん?どゆこと?ってなりますよね。
ここが本記事でも要所となるのですが、すこし言葉を変えると、継続とは、その都度あらわれる小さな未着手(0)を、その都度着手(1)へ変え続ける反復作業ということです。
例えば、昨日勉強したとしても、今日また始めるまでは、今日の分についてはまだ未着手です。
昨日書いたとしても、次の一文を書き始めるまでは、その新しい文章についてはまだ立ち上がっていません。
昨日筋トレしたことが、今日の一回を免除してくれるわけでもありません。
この意味で、継続とは、0から1の反復です。
より厳密に言えば、0状態からの離脱の反復です。
ここが重要だと思っています。
多くの人は、継続を「一度始めたあとの根性や計画性の問題」と捉えるかたも少なくないでしょう。
けれど私は、その実態が少し異なるように感じ続けてきました。
継続が難しいのは、始めた後の惰性が続かないからではなく、毎回また別の形で立ち現れる未着手を、その都度超えなければならないからです。
だから継続とは、根性論というより、着手を再発生させる技術です。
私は、継続をこう考えています。
継続とは、0的状態からの離脱を反復する力です。
継続とは、未着手を着手へ変えることを、その日その日の現場で成立させ続ける技術です。
継続とは、一度きりの決意を称賛することではなく、着手の発生を生活の中で何度も再生産することです。
では、習慣とは何か。
習慣とは、その反復が、意志だけに依存せず、身体や環境や時間の構造にまで組み込まれた状態だと思っています。
もっと平たく言えば、毎回ゼロから火を起こしていた行為に、火種が残るようになった状態です。
以前は始めるだけで大きな精神力を消耗していたものが、ある程度まで自動化され、昨日の自分が今日の自分を助けるようになります。
最初は「よし、やるぞ」と踏み込まなければ始まらなかったことが、やがて「やらない方が落ち着かない」に近づいていきます。
これが習慣です。
つまり、習慣とは単なる繰り返しではありません。
反復の省エネ化であり、着手コストの低減であり、0からの離脱が毎回フルパワーでなくても成立するようになった状態です。
ここまで来ると、人の伸び方は変わります。
最初のうちは、毎回が重くて仕方ないでしょう。
一回ごとの着手にエネルギーが要るので、昨日できたことが今日もできるとは限りません。
少し進んでは止まり、そのたびに自分の意志の弱さを責めてしまうこともあります。
けれど、それは必ずしも人格の問題ではなく、単に反復がまだ構造化されていないだけかもしれません。
ある程度まで反復が定着すると、立ち上がりの抵抗が下がります。
すると、その人は急に強くなったように見えます。
けれど本当は、能力が突然増えたのではなく、毎回の着手コストが下がっただけです。
この違いはとても大きいんですよね。
成果は能力だけでなく、着手回数と反復可能性にも大きく依存するからです。
そうなると、ようやく積み上げが積み上げを呼び始めます。
以前は単発で終わっていた努力が、次の着手を支える土台になります。
数学的に厳密な意味での指数関数とまでは言いませんが、少なくとも加速度的に伸びやすくなる感覚は、ここで初めて生まれるのだと思います。
つまり、成長を決めるのは、才能の有無だけではありません。
0的状態から離脱できるか。
それを反復できるか。
その反復を習慣化できるか。
この三層構造が、実はかなり大きいのです。
世の中は完成形だけを見ます。
大きくなった事業、長く続いた発信、合格した結果、積み上がった信用。
けれど、その背後で本当に問われていたのは、もっと地味で、もっと見えにくい構造だったはずです。
つまり、その人が何度も未着手を超え、着手を発生させ、その反復を自分の一部にしていったかどうかです。
だから私は、「0と1の差は無限に近い」と言いたいのです。
それは大げさな比喩ではありません。
量の差ではなく、状態の差を見ているからです。
未発生と発生、未着手と着手、未接続と接続。
この差は、通常の引き算では測れません。
さらに言えば、本当に大切なのは、一度だけ華々しく0を脱することではありません。
0的状態からの離脱を、何度も成立させられる人になることです。
継続とはその力であり、習慣とはその力が構造として定着した状態です。
もし今、何かを始めたいのに動けないなら、100を見る必要はありません。
1000を見て萎縮する必要もありません。
まず見るべきなのは、今日の自分が抱えている「まだ起動していない状態」です。
そして必要なのは、そこからほんの少し離脱することです。
一行で十分です。
一分で十分です。
一通で十分です。
一歩で十分です。
その行動が尊いのは、小さいのに勇気が要るからではなく、そこに未発生を発生に変える構造転換があるからです。
そして、明日もう一度それができたならそれは単なる二回目ではありません。
継続の始まりです。
さらに、その反復が少しずつ軽くなってきたなら、それは習慣の芽です。
人が伸びるとは、派手な飛躍というより、この見えにくい構造を自分の内側に作っていくことなのだと思います。
0と1の差は、算数では1です。
けれど人生では、それは数字の差ではなく、状態の差です。
そして継続とは、その状態差を何度も超えることであり、習慣とは、その越え方が自分の中に住みついた状態です。
私は、この構造を理解した人は強いと思っています。
大きな結果が出る前の地味な局面に、きちんと価値を見出せるからです。
まださほど成果がない時期に、自分を見限らずに済むからです。
そして、自分を変えるものが、最初から巨大な数字ではなく、小さな離脱の反復であることを知っているからです。
ですから今日も、問うべきことは案外シンプルです。
どれだけ進めたかではなく、今日の未着手から離脱できたか。
その一点だけでも、十分に価値があります。
以上が、0と1の差が1ではないという、とんだ屁理屈に秘められた本気の思いでございます。
最後までありがとうございました。
まさたかでした。
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