【学習法】資格試験の「総学習時間」は、一体何を指しているのか。テキストを読んでもわからない理由を、経営者の視点から分解してみる。
どうも、まさたかです。
先程、手術も無事終わり、全身麻酔の夢心地から現実に引き戻されました。
今も病院のベッドに縛られながら記事を書仕上げています。
今年に入ってから、思いがけず行政書士試験の受験を勧められる機会がありました。
まぁ今の工数から見ると私自身が受験するのは現実的ではないと思いつつも、法律分野は馴染みの深いものなので抵抗があるものではありませんでした。
そこで、ひとまずテキストをパラパラとめくってみたのですが、ふと、懐かしいような、それでいて少し苦いような、なんとも言えない感覚に包まれました。
法学部時代の記憶です。
もう17年ほど前になりますが、当時も法律の文章を読んでいて、すっと頭に入るものと、何度読んでも深い霧の中にいるようなものがありました。
文字は追えるし、日本語としても読めるのに、文章の「意味」がちっとも立ち上がってこない。
この感覚は、少しでも法律を学んだことがある方なら、少なからず覚えがあるのではないでしょうか。
もちろん、私はここで「行政書士試験の合格法」を語るつもりはありませんし、受験指導の専門家でもありません。
ただ、かつての法学部時代の記憶やこれまでの学習経験、そして「物事を分解して見る」という経営者としての癖を掛け合わせた、あくまで私なりの一つの見立てをまとめたいと思いました。
この手の試験で本当に問われているのは、単に「法律を知っているか」ということではないのでしょう。
また、よく耳にする「何百時間勉強した」という話も、ただ机に向かった時間の合計を指すべきではないことは紛れもない事実でしょう。
今回はせっかくの機会なので、行政書士試験を題材に、少し物事を分解して考えてみたいと思います。
なぜ「ちょっと読めば受かる試験」ではないのか
行政書士試験は、法令等46問・244点、基礎知識14問・56点、合計60問・300点で構成されています。
合格基準は、法令等122点以上、基礎知識24点以上、全体180点以上のすべてを満たすことです。
つまり、ただ合計で6割を超えればよいだけではなく、法令等と基礎知識のそれぞれに「足切り」が存在します。
令和7年度の公式資料でも、5肢択一式、多肢選択式、記述式の配点構造が明確に示されています。
さらに同年度の実施結果を見ると、受験者50,163人に対して合格者は7,292人。合格率は14.54%でした。
年度による変動はあるものの、少なくとも「少しテキストを読めば受かる試験」ではないことは明らかです。
では、一体何がそんなに難しいのでしょうか。
私は、法律系資格の本当の難しさは「知識の量」そのものよりも、「知識を取り出す形」にあると感じています。
たとえば、試験で問われるのは、おおむね次のようなことです。
ある制度の定義を正確に知っているか。
その制度が動くための「要件」を知っているか。
その要件を満たしたとき、どのような「効果」が発生するか。
原則と例外を混同していないか。
誰が、誰に対して、何をできるのか。
どの手続を、どの順番で踏むのか。
いつまでにやらなければならないのか。
似た制度との違いを明確に説明できるか。
判例が「何を理由に」その結論を出したのか。
具体的な事例にあてはめたとき、誰が何を請求できるのか。
こうして並べてみると、これが単なる暗記試験ではないことがよくわかります。
もちろん、暗記は不可欠です。
条文、判例、期間、手続、用語など、覚えていなければ土俵にすら上がれない部分は確かにあります。
しかし、暗記した言葉をそのまま吐き出すだけでは点数にならず、目の前の問題文の中で、その知識を「今はどの場面の話をしているのか」に変換しなければならないのです。
ここが、多くの人が最初につまずく壁なのだと思います。
「要件」と「効果」という確固たる構造
法律の文章には、常に「要件」と「効果」という構造があります。
ものすごく簡単に言えば、要件とは「こういう条件がそろったら」の部分であり、効果とは「こういう法律上の結果になる」の部分です。
たとえば、
「行政庁が代執行できる」
これが効果ですね。
では、いつでも代執行できるのかといえば、当然違います。
「法律に基づいて命じられた義務なのか」
「他人が代わってできる義務なのか」
「義務者が履行しないのか」
「他の手段では目的達成が困難なのか」
「放置することが著しく公益に反するのか」
こうした条件(要件)を一つずつ満たして、初めてその「効果」が発生します。
つまり、試験問題は常に「この効果を発生させるための条件はそろっていますか?」と問いかけているわけです。
ところが、テキストを普通に字面だけ読んでいると、この構造がなかなか見えてきません。
文章としては読めるのに、何が条件で、何が結論なのかがぼんやりしてしまうんですよね。
これこそが、「読んでもわからない」の正体の一つではないでしょうか。
行政書士試験の「記述式」を見ると、その性質はさらに鮮明になります。
たとえば令和7年度の問題44では、建築確認を拒否された人が審査請求をしたあと、裁決手続に瑕疵があった場面において、「どのような瑕疵を主張し、誰を被告として、どの抗告訴訟を提起すべきか」を40字程度で問うています。
これは単に知識の有無を聞いているのではなく、「場面」「瑕疵の種類」「被告」「訴訟類型」という複数の要素を、短い言葉で正確に組み立てる能力が問われているのです。
「読むこと」と「取り出すこと」は別の能力である
こうなると、ただテキストを何周も読むだけでは足りません。
なぜなら、情報をインプットして「読むこと」と、必要な場面で「取り出すこと」は、まったく別の能力だからです。
学習科学の分野でも、単なる再読よりも、自分で思い出す練習(テスト形式の練習)が長期記憶に高い効果をもたらすことが示されています。
RoedigerとKarpickeの研究では、テストは知識を測るだけでなく、その後の記憶保持自体を高める働きがあるとされています。
また、Dunloskyらのレビューでも、効果的な学習法として「練習テスト」と「分散学習」が高く評価されている一方で、単なる再読やメモ取りや線を引くだけの学習は、それ単体では効率が高いとは言いにくいと整理されています。
これは、資格試験の勉強にも痛いほど当てはまります。
テキストを読んだ直後は、わかった気になります。
解説を読んだ直後も、わかった気になります。
しかし、翌日に同じ論点を聞かれたとき、自分の言葉で要件を挙げられるでしょうか。
似た制度と比較できるでしょうか。
問題文の登場人物を整理し、40字程度で法律上の結論を書けるでしょうか。
そこまで到達して初めて、それは「試験で使える知識」になります。
「総学習時間の罠」と、800時間のポートフォリオ
ここで、よく話題に上る「学習時間」の話に戻ります。
行政書士試験の学習時間については、資格学校や通信講座によって幅があります。
たとえばTACは、法律知識があまりない方が予備校を利用した場合で約800時間、予備知識がある場合で600〜700時間程度と説明しています。
フォーサイトは500〜600時間を挙げています。
いずれも公式な合格保証ではなく、あくまで民間事業者による目安です。
では、この500時間、600時間、800時間とは、一体「何の時間」なのでしょうか。
ここを誤解してしまうと、いわゆる「総学習時間の罠」に陥ります。
800時間ただテキストを眺め続けた人と、800時間を「読む・解く・思い出す・間違える・戻る・書く」という工程に分けて使った人では、同じ時間でも到達する場所はまったく別物です。
経営で例えるなら、同じ広告費100万円でも、どこに投下したかで成果が変わるのと同じです。
認知に使ったのか、獲得に使ったのか、既存顧客の再購入に使ったのか。
金額の総枠だけを見てもあまり意味がありません。
学習時間も同じです。
仮に800時間を一つのプロジェクトとして捉えるなら、私ならざっくりと次のように配分します。
最初の100〜150時間:全体地図を作る時間 ここでは完璧に理解しようとせず、行政法、民法、憲法、商法、基礎知識の全体像を俯瞰し、「何がどこにあるのか」を知ることに注力します。
次の250〜300時間:問題を通じて「穴」を見つける時間 肢別問題や過去問を使いながら、自分がどこで崩れるのかを検査します。定義か、要件か、手続か、期間か、判例か。ここは点数を取る時間というより、弱点をあぶり出す時間です。
次の150〜200時間:間違えた論点を修復する時間 ここで初めてテキストが真価を発揮します。最初から精読するのではなく、問題で穴が見つかった箇所を、基本テキストや条文に戻って確認する。理解できなかった言葉を、自分の言葉で一文にしてみる時間です。
次の100時間前後:記述式・多肢選択式・条文文言の調整 択一でなんとなく正解できる知識と、40字で書ける知識は違います。記述式では法律構成を選び、要件を拾い、効果を書く。多肢選択式では、法律用語の接続感覚を養います。
残りの時間:総復習・模試 基礎知識、文章理解、苦手論点の再点検などに充てます。
こう考えると、800時間という数字は単なる根性論ではなくなります。
本当に必要なのは、机に座っている時間の長さではなく、「知識を得点可能な形に変えるための工程」なのでしょう。
問題数から見る現実的な設計図
肢(選択肢)の数で考えると、さらに現実が見えてきます。
行政書士試験の5肢択一式は、法令等40問、基礎知識14問、合計54問です。
1問につき5肢あるため、本試験1年分だけで270肢あります。
法令等の択一だけでも、40問×5肢で200肢です(公式配点上も、5肢択一式は法令等40問、基礎知識14問とされています)
仮に過去問10年分を見るなら、法令等の択一だけで2,000肢。
全択一なら2,700肢にのぼります。
1肢あたり3分かけて、「なぜ正しいのか」「なぜ誤りなのか」を丁寧に確認すると、法令等の2,000肢だけで6,000分、つまり100時間かかります。
全択一の2,700肢なら135時間です。
もちろん2周目以降はペースが速くなりますが、それでも1周目3分、2周目1.5分、3周目1分で回したとして、法令等の択一10年分だけでも約183時間。
全択一なら約247時間です。
そこに、テキストに戻る時間、条文を確認する時間、判例を整理する時間、記述を書く時間、基礎知識を固める時間が乗ってきます。
だからこそ、数百時間という目安が出てくるのは、ある意味で非常に自然なことなのです。
「わからない」を分類し、処方箋を変える
ただし、ここで最も大切なのは、過去問を「暗記する」ことではありません。
過去問は答えを覚えるためのものではなく、「試験委員が、何を、どう聞いてくるのか」を知るためのものです。
「この肢は定義を聞いている」
「この肢は要件を聞いている」
「この肢は原則と例外を入れ替えている」
「この肢は主体をずらしている」
「この肢は手続の順番を飛ばしている」
「この肢は判例の結論だけでなく理由を聞いている」
このように分類できるようになると、過去問は単なる問題集から「試験の設計図」へと変わります。
逆に言えば、何周回しても「正解は何番だったか」だけを覚えてしまう学習は危険です。
問題文の切り口が少し変わった瞬間に、足元から崩れてしまうからです。
これは、テキストの読み方にも同じことが言えます。
テキストを読むこと自体は絶対に必要ですが、最初からすべてを理解しようとすると非常に苦しくなります。
法律のテキストは、初学者にとっては「小説」ではなく「地図」に近いものです。
地図だけを部屋で眺めていても、道はなかなか覚えられません。
実際に外を歩いて、迷って、曲がる場所を間違えて、そこで初めて地図を開き直す。
そうすることで、ようやく地図の意味が頭に入ってきます。
問題を解く。
わからない。
解説を読む。
まだわからない。
テキストに戻る。
それでもわからない。
そこで初めて、「自分は一体、何がわかっていないのか」を分類するのです。
ここが、学習において最も大切な分岐点だと思います。
言葉の意味がわからないのか。
制度の全体像が見えていないのか。
要件と効果が分かれていないのか。
似た制度と混ざってしまっているのか。
判例の理由が見えていないのか。
単に期間や数字を暗記していないだけなのか。
すべてを「わからない」という一つの箱にまとめてしまうと、具体的な対処ができません。
しかし、原因を細かく分類できれば、処方箋は変わります。
用語が弱いなら、一文定義を作る。
要件が弱いなら、チェックリストにする。
手続が弱いなら、時系列の流れにする。
比較が弱いなら、表にして横に並べる。
判例が弱いなら、争点・結論・理由を一行ずつで持つ。
期間が弱いなら、割り切って暗記カードにする。
こうした地味で泥臭い作業の積み重ねが、最終的に本番での「1点」に繋がるのではないでしょうか。
資格試験は「自己管理」と「設計」の試験である
そして、ここがこの試験の最大の難しさでもあると感じます。
単に難しい問題が出るから難しい、というだけではありません。
出ないところまで深掘りしたくなる。
わからないところを完璧に理解するまで前に進めなくなる。
逆に、問題だけを回してわかった気になってしまう。
総学習時間だけを積み上げて、実際には得点可能な知識になっていない。
不安だから新しい教材を増やす。
教材を増やしたことで消化不良を起こし、さらに不安になる。
私たちは、容易にこの負の循環に陥ってしまいます。
資格試験の難しさは、学習内容そのものだけでなく、この「自己管理の難しさ」にもあるのです。
法律の学習は、どうしても「しっかり理解してから問題を解きたい」と思ってしまいます。
私自身もその感覚は強く持っています。
しかし実際には、「解いてみないと、自分が何を理解していないのかすらわからない」という感覚もセットにするのが現実的です。
だからこそ、学習の順番はおそらくこうあるべきなのだと思います。
まず、全体を浅く見る。
次に、問題で穴を見つける。
その穴を、テキストと条文で埋める。
もう一度、問題を通じて取り出す。
時間を空けて、また取り出す。
最後に、記述で書ける形に整える。
これは、単なる法律の勉強というよりも、知識を「運用可能な資産」に変えるための加工作業に近いです。
経営でもまったく同じことが言えます。
情報を持っているだけでは、現場の意思決定には使えません。
必要な場面で、必要な粒度で、必要な形にして取り出せる情報だけが、本物の「経営資源」になります。
資格試験の知識も、それと共通するところもあるのでしょう。
ただ知っているだけでは足りない。
思い出せること。
見分けられること。
比較できること。
あてはめられること。
短く的確に書けること。
そこまで磨き上げて、ようやく本番の試験で使える知識になるのです。
「読んでもわからない」は、終わりのサインではない
行政書士試験に限らず、法律系資格の勉強で「テキストを読んでもわからない」と壁にぶつかったとき、それは決して学習の終わりのサインや、才能の限界を示すものではないのだと思います。
むしろ、そこからが本当の学習の始まりなのかもしれません。
読めないのではなく、まだ「場面」が頭に立ち上がっていないだけ。
覚えられないのではなく、まだ「取り出す練習」をしていないだけ。
理解できないのではなく、「要件と効果」が整理されていないだけ。
続かないのではなく、「全体の工程」が見えていないだけ。
そう考えると、目の前の壁に対する絶望の質が、少しだけ変わってきませんか。
闇雲に800時間を積み上げるのではなく、その800時間をどう配分し、どう投資するか。
テキストを読む時間、問題を解く時間、間違いを分類する時間、条文に戻る時間、書く時間、忘れた頃にもう一度思い出す時間。
そのすべてのプロセスを含めての「学習時間」なのだと思います。
資格試験とは、才能を測る試験というより、自分のリソースをどう配分し、どう知識を構築するかという「設計の試験」なのかもしれませんね。
少なくとも私は、久しぶりにテキストをめくりながら、そんなことを考えていました。
これはあくまで、資格試験を経営者の観点で考察したものであり、合格者の声というものではありません。
間違っているところや足りないところは、noteにたくさんいる合格者方々が温かく助言くださると信じています。
では、また次の記事でお会いしましょう。
まさたかでした。
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