新たな便利が増えたとき、そこには名もなき親切がある ~交差点で思うこと~
大きくなくてもいい。ほんの僅かでもうれしい。自分が密かに望んでいたことが形になると、なかなかの満悦が滲み出るものだ。
公園のベンチの修繕しかり、カフェの無料Wi-Fi しかり、置き配サービスしかりである。
コンビニで住民票の発行ができるようになって、利用する機会はそれほどあるわけではないが、いざというときにとても重宝した。わざわざ区役所へ足を運ばなくてもいいし、窓口が閉まる時刻を気にせずに済むのだ。
文字起こしアプリが身近に現れたときも、ある種の束縛からの解放に安堵したものである。会議の録音から議事録を作るのも、再生の繰り返しやキーボード操作の労苦が肉体と精神を蝕んできた。そんな地道な肩の凝る作業から逃れられるのである。
そして中でも最近、ひときわ胸を打ったものがある。いつも通る交通量の多い交差点に、右折を示す矢印の表示器、右折矢印信号が付いたのだ。
ここはいつも、対向車の直進に遮られながらじっと右折のチャンスを伺い、ときには後ろからのプレッシャーを感じ、前のスムーズな動きを念じていた場所である。朝夕などは5度待ちも珍しくない魔の交差点だった。
それまではいつも歯痒い思いをしていた。いったい何分待てばいいのか。なぜここには右折信号がないのか。あるいは時差式にしてくれてもいい。それともこんなありきたりの場所は、誰も気にかけないということなのか。
そんな半ばやさぐれていた頃、ついにこの右折矢印信号が付いたのだ。一度に2・3台しか通れなかった右折車は、確実に迷わず進むことができるようになった。必然と対向車との神経のすり減らしも激減した。
まさに自分の小さな願いが、ようやく聞き届けられた形となったのだ。
新しいサービスや機能というものは、元々はこの世には存在しなかった。そこに誰かが現出に向けて動き出し、それが形となって世の中の役に立つものとなる。
その誰かが動き出すきっかけ、つまり世の中に送り出そうとする気持ちは、どのように生まれるのか。
世間のニーズがあるからこそ行動が生じるのだろうし、それを具現化するにはそれなりのアイデアが元になっているはずだ。社会は今何を求めているのか、といった嗅覚みたいなものがなければ、何事も始まらないような気がする。
右折矢印信号にしても、どこかで設置しようという考えが浮かび上がったわけで、誰かがそれを形にすべく立案し計画に結びつけたはずだ。ゼロから人が動き始めるに至った、そのきっかけがあるはずなのだ。市の交通担当が思いついたのだろうか。どこかの調査機関が調べて必要と判断したのか。誰かが陳情してしかるべき組織が動いたのか。
交通量をカウントする人を見かけた覚えもない。どのようにしてこれの設置にあいなったのかと思うわけである。
交通インフラというものは不備があるとすぐに目につく。しかし整っているときは驚くほど目立たない。どこかであたり前と見過ごしている。
だが「あってほしい」が「あります」に進化した。どこかの誰かが動いてくれたおかげで。
いつも自分の知らないところで、世の中のいろんな人たちが、さまざまな制度や物を作り上げ喜びを提供している。
名もなき親切に、ただの受け身でしかない自分のどこからともなく、感謝の念が湧いてくるのであった。
