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背中を見ながら歩きだす、マネは学びの第一歩

生きていく中で、学びというもののほとんどは「マネ(真似)」から始まっている。

まずこの世に生まれたとき、空気の中で呼吸をし、口にしたものを飲み込み、感情表現で声を上げる。つまり全て「本能」で生きている。まさに一生懸命生きているわけで、だが既に「マネ」が始まっているのかもしれない。

そして少しずつ成長していく中で、育ての親から危険を回避するように誘導される。異物を口に含まないように注意されたり、高所から落ちることがないように目を見張られたりして、育てる側は気の抜く暇もない。

そんな時期を過ごしながら言葉をしゃべることを教えられる。一方的に話しかけられているうちに、パパとかマンマとかを口にするようになる。匙の使い方も手ほどきを受ける。初めは手づかみでご飯を食べていても、だんだんスプーンの使い方が板に付いてくる。

この辺までは自分も全く記憶がない。

さらに成長すると、「前と後ろはこうなっていて」と洋服の着方を教えてもらい、「青になったら右を見て左を見て」と横断歩道の渡り方を指導される。文字の書き方、箸の握り方など手取り足取り、見本を見せられながら色々なことを覚えていく。歯の磨き方や靴ひもの結び方などなど、成長する過程において次々と新しいことに出会っていく。

言葉にしろ、身の周りのことにしろ、音を聞いてそれを繰り返したり、誘導されて同じような動きを身に付ける過程は、ほとんど「マネ」をすることから始まっているといえるだろう。洋服を着るのに独自の方法を編み出すことはないし、横断歩道では決められたルールに則るように型にはめられる。

自転車の乗り方やピアノの弾き方などは、「マネ」をきちんとできるように、同じ動作を繰り返す「練習」がメインであるともいえる。最初は上手にできない「マネ」が何度も反復することでうまくできるようになり、「上達した」と言われるようになる。でもやはり「マネ」がきっかけとなっている。

社会や世間のルールが見えてきた少年期、自分らしさを意識し始めた青年期を過ぎ、自立と責任の意識が芽生えた成人期を迎え、今の会社に就職した頃のこと。
新しい職場では学生時代になかった社会人という雰囲気に圧倒されたものだ。なんせ自分の父親かそれ以上の年代の人たちと同じ空間をともにするのだから。大人の世界の常識みたいなものは分からないし、アルバイトしか経験のない自分には新しい環境に慣れること自体が難しい。いつでもやめられるという学生時代の感覚とは全く異なる、社会人という立場のプレッシャーがそこにはあった。

初めての職場での業務はそれまで触れたことのない新しいものばかりだった。電話の受け答え方や一日の時間の流れに沿った行動指針など初歩的なことから丁寧に教えてくれるものの、生涯をかけて習得する奥深い知識や技術は到底一朝一夕で身に付けられるものではない。まずは新人にも取り掛かれそうな簡単なレベルのハウツーを与えられたが、自分のペースを掴むにはなかなかハードルの高いものがあった。

生まれながらに培ってきた「本能」を引用するなら、会社員の基本とされる挨拶をきちんとすることや、年配者を立てて言われたことは素直に聞く、といった控えめな立ち位置を心がけたりしたものである。
「お疲れ様です」と周りが言うからそれに倣ってはいたが、実のところどういう意味なのかあまり分かっていない。後にメールで多用することになる「お世話になっております」もいまだに掴みどころがない。

新人の特権ともいえる何でも質問できる、基礎を一から教えてもらえるという立場を生かし、先輩方から諸々のイロハを学ぶのであった。
こういった与えられるがままの学習、受け身の体制で習得する知識は、そのほとんどが「マネ」から始まるといえる。だんだん課せられるレベルは上がっていくが、そのときどきの「マネ」ができるようになることが仕事の成長を可視化する目安のようなものだと感じた。

初めのころは本当にマネの連続だった。
教える側は身の丈から逸脱した行為をされてはかえって負担が増えるから、安全範囲の中で成長を促す。教わる側も何が正しくて何がそうではないのか判断に苦しむので、与えられる案件を単純に受けるのが妥当であると思っていた。
企業ごとの社風やカラーというものは、こういった「マネ」の伝搬の上に出来上がっているのかもしれない。

そうして理解の範囲が広がってくると、それなりに視界も大きくなり要領も得やすくなったりする。覚えたことに創意工夫を加えたり、自分から進んで新しいものに手を出す余裕が出てくるのであった。

だがその一方で、自分のこれまでの成果やこの先の展望が何だかよく分からなくなるという深刻な問題があった。それまで吸収した知識やノウハウがはたして正しい方向に進んでいるのか、自分なりの評価が全く見えないのだ。

成績が数字とかに表れる業種だと成果や成長度合いが把握できたりする。しかし仕上げた原稿に「結局何が言いたいのか」と首を傾げられたり、撮影した素材に「被写体の魅力が引き出せていない」と冷笑されたりすると、どこをどうすれば良いのか、もっと具体的に教えてほしい、などと心の中で行き場をなくしてしまうのだ。

主観とか感性なんかが絡んでくると、その理解は途端に難しくなる。
何も言われなければ自分の出した結果がそれで良いのか判断が付かないし、ダメ出しを受けたときにはどこがどのように宜しくないのか見当もつかない。具体的な言葉を貰いたいし、貰えたとしても意味が理解できないこともしばしばあったりする。

スポーツでいえば、点数を重ねていく球技とか距離や時間などの記録が明確になる種目ならその優劣ははっきりしているが、体操やフィギュアスケートのような審判員の主観から判定される競技だと絶対的評価は人によって異なってしまう。

問題点、改善策が具体化できないと、目標も道筋も見えず霧の中をあてもなくさまようことになるのだ。


どうしたものか。このままの手探り状態では、間違った方向に進んでいるのかもしれない。タスクを実行するとか機器をオペレートするだけならマニュアル通りに倣えば良い。でも美しいとかセンスが良いとか感動するとかは、何を以てそう判断できるのだろうか。

こんなことをいくら一人で考えても、ただいたずらに時間が過ぎていくだけだった。答えなど出てきそうもない。
とりあえず顧客からお金を頂くのに遜色のないレベルを目標にしよう。熟練の先輩から80点を貰うのは至難の業だが、一般の人からクレームの出ない範囲、60点を最低ラインにしよう、と自分なりに決めた。満点を取ることは理想なのだが、それが無理だとしてもせめて玄人仕事の範囲に収まるレベルで。

そして根本的な解決として、自分の中で良し悪しを見分けられる力を養わなければ明るい未来はない、と。これも事実である。

そう成長するには感性を磨くしか術はない、と意を決し結論づけたのである。


とはいっても、ここからが問題だった。
その感性って、どうしたら身に付くのだろうか。

本を読んだり映画を観たり、良い芸術にたくさん触れたりして、考えたり感動したり喜んだりと、心を揺さぶれば良いのか。普段の生活の中に潜む当たり前の風景や建物や人の動きから、新たな発見や改めての認識を言語化して世の中を洞察する神経を養えば良いとでもいうのか。

いずれにしても、こういった主観みたいなものをどうにかするなんてことは、ノウハウ本を読んで知識を詰め込むのとはわけが違って、とてつもなく時間がかかるのは間違いない。これが成果として現れるのを待っていると、仕事のスキルが云々などという問題には到底追いつけないのは火を見るより明らかである。

だから仕事を覚えながら感性を豊かにするには、やはり身近な上司のマネから入るのが得策であろうと考えた。そして同じマネをするのでもスキルアップを意識したもの、職人の世界風でいう「技を盗む」ことが重要なきっかけになる、と結論づけたのだった。


さて、実際にマネをしようとしたとき、誰から何をどのように吸収したらよいのか。いざ具体的に行動しようとするとこれがなかなか難しいのであった。
好きな先輩、憧れの上司というだけでその人の全てをマネして良いのだろうか。どんな人にも一長一短があるのではないか。人間性を無視して仕事ぶりだけに目を向けて良いものだろうか。もちろん一人に絞る必要はないだろう。だけど派閥みたいなものに巻き込まれたりしたら、それはそれで面倒だ。

与えられるに任せるのではなく能動的な意識で動こうとすると、必然的に「マネ」の難易度が格段に上がったのだった。

まず誰から学ぼうか。当然自分には教育係を付けてくれてはいるが、こっちだって選ぶ権利がある。その辺はうまく立ち回ればいい。
だがそのマネるべき「誰か」が、いない。「誰がよい手本なのか」が分からない。
漠然と“誰をマネるか”を考えるうちに、気が付けば自然と周囲をよく観察するようになっている自分がいた。

先輩たちは普段どう行動しているのか、それを行うにはどのような工夫があるのか、何を、なぜ、どのようにしているのか、その背景のやり方を読み取る力が求められる。
併せてバイタリティーに富んでいたり人間性に魅力があったりすると、おのずとそちらの方に意識が向くようになる。
仕事のみならず、そういう人間になりたいというさらなる欲求が生まれるし、そんな人に巡り合えたらそれはそれで大きな収穫ともいえる。

同時に吸収する力も必要なようだ。
ただのコピーは個性にはならない。見たもの、感じたことを咀嚼し、自分の中で意味づけることにより、自分なりの主観なり意見が生まれてくる。だからマネをする段階でそれは自分にとって有効なのか考えなければならない。そしてもっと人間的に成長すると、判断は損得で行うものではない、それは人が喜ぶことなのか、社会のためになっているか、という思慮に結びつくはずだ。

工夫する力も欠かせないだろう。
「マネる」ことは、単なるコピーで終わってはいけない。
マネることだけで満足しては、その先輩の枠を超えることができない。
演芸や勝負の世界で師匠に教わっているようではその師匠を超えることはできない、といわれるのと似ている。
音楽バンドも出だしは好きなアーティストのコピーから始まるが、行く先はオリジナル作品を増やして唯一無二の存在を目指すものだ。

初めて缶コーヒーを開発した企業は、画期的なアイデアを思い付いたという実績がある。
しかしその商品は他の企業もマネをするのは当然想定されるわけで、その先同業他社が出した同じ商品からいかに勝ち抜いていくかが重要となる。
初めて売り出したのはどこの会社なのかなんて覚えていない。その商品が美味しいかに注意が向く。

テレビ番組にしろ、インスタント食品にしろ、電化製品にしろ、
大衆に受け入れられ長く残っていくにはそれなりの理由があるはずだ。

だからある程度のレベルまで型ができたら、更に上のステップに行けるように、工夫しアレンジを加え自分のものにする力が必要なのだ。
得たものをそのまま使うのではなく、自分の個性や性格に合うように自分なりに肉付けして応用していかねばならないのだ。

 
マネることは、決して受け身な行為ではない。
そこには、見ようとする意志があり、吸収しようとする思考があり、自分らしく工夫しようとする姿勢がある。

 
「マネる力」というものがあるのだ。

 
だからこそ、自分はこれからもマネを続けたいと思う。
観察して、考えて、そしてほんの少し自分らしくしてみる。
その繰り返しのなかで、気がつけば「自分のやり方」が形になっていたら、それは本望である。

スキルアップは、派手な才能を持ち合わせていない限り急に実現できるものではない。
いつになったら花開くか、生涯つぼみのままなのか、それは全く分からないが、地道な努力を少しずつ積み重ねていくことに価値があるのだと思う。

マネる力の中にこそ、成長の芽があるはずだと信じていきたい。

#最近の学び

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