有無礼儀
パートナー 有 無
性交経験 有 無
結婚願望 有 無
配偶者 有 無
子ども 有 無
これらの有無しに優劣は無いと思う。
それでも昔からの世間体とか見られ方というものは拭えないし、自分の友人や家族を振り返ってみても思うところは出てくる。
今、私はこれをビクビクしながら書いている。
何故なら私がこれを書く自体が、他の誰かへの当て擦りになってしまわないか、そう受け取られてしまわないか、というテーマだからだ。
まず申し上げたいのは、優生思想の話ではない、むしろそれから離れた話をしたい。
ここで本当に取り上げたいテーマは、「有」もしくは「無」側の人間が、自分と異なるもう片方の生活に思いを馳せること、その行為について。
ビクビクしながら宣うが、シンプルに失礼になってしまわないだろうか?
私は結婚して子供もいる状態なのだが、もし気ままに一人暮らししていたならなぁ、と考えなくもない。
しかしそんな事をSNSなどにお気持ち表明しようものなら、「こっちだって好きで一人な訳じゃねーよ!!!!」というバリバリ罵詈雑言のリプライが飛んでくる事が大いに予想される。
では逆はどうだろう。三十二歳気ままなおひとりさまの私が居るとして、「結婚して子どもがいたらどうだったかなぁ」などとお気持ち表明してみる。これに「こっちだって好きで子育てしてる訳じゃねーよ!!!」って飛んでくると思う?思わない。
だって好きでやってんじゃん。好きじゃなくても選んだんじゃん。
というように有→無はシンプル失礼。無→有は一種の妄想として自然にも見える。
しかしこの多様性の時代、三十代の結婚率は半分を割っていて、それでいて三組に一組は離婚する。
最早結婚していないことがマジョリティなのに、なぜマイノリティたる我々がマジョリティに思いを馳せることがシンプル失礼に思えてしまうんだろうか?
この理由は二つ考えられる。
第一にやはり昭和平成の大家族・核家族の家庭を持つモデルケースが根強く世間体として残っていること。思想のマジョリティ的な感覚がまだあるから、失礼感が残っているのかもしれない。
第二に、多様性の時代になってきてその世間体が揺らいで、家庭を持つことがスタンダードでなくなってきた。そんな中で結婚し家庭を持つことは一種の贅沢にも見え、贅沢なマイノリティと消極的なマジョリティ、という構図になってしまうから、「贅沢な奴が何かを言っているぞ」という事になってしまう。
現代と一昔前、どちらの時代にフォーカスしても失礼になってしまう。
そうなると「有」側に立っている人間には何を言わせても墓穴というか、「でも有側じゃん」で片づけられてしまう、弱いポジションが与えられてしまう。
「無」側で無差別全方向攻撃的な人は、文字通り「無」敵の人になってしまうかもしれない。
本テーマの結論としては「有」側の人間が「無」側の生活に思いを馳せるのは頭の中だけに留めておいた方が良い。しかし「無」側が「有」側に思いを馳せるのはその限りでは無く、思うも言うもある程度自由に思える。
もう少し時代が進んで、世間体とか人間全体の思考がアップデートされてきたら、もっとフラットに意見が交わせるのだろうか。
優生思想に立ちたくなかったのにこういった書き方を続けていると、かえって優生思想・主義に見えてしまう。本意ではないのに。怖い。叩かないで。
