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トランプを通して現れた母の喜怒哀楽に、息子の僕が涙した話

実家に帰省して数日、用事が済んで夜九時。

テレビも飽きて、なんとなく手持ち無沙汰になった僕に、お母さんが「トランプでもする?」と提案してくれた。その一言が、まさか僕にとって人生観が変わるほどの「大発見」につながるとは、その時の僕は夢にも思っていなかった。

リビングのローテーブルを挟んで向かい合う。いつも、座る場所は決まっていた。お母さんはいつも僕の向かい側で、その定位置は子どもの時から30年以上変わっていない。
やるのは大富豪。ローカルルールが多すぎて、確認するだけで十数分かかる。

「ちょっと、上がりは『8切り』の『3枚出し』でしょ?『革命返し』はアリ?」 「ええ?僕は『6返し』なんて知らないよ!あと『スペードの3』は最強!」 「何それ、そんなの初めて聞いたわ!ずるい!」 もうこの時点から、お互い遠慮ゼロ。僕は息子として、お母さんはお母さんとしてではなく、ただの「対戦相手」としてそこに座っていた。この「気を遣わない」という空気こそが、何にも代えがたい究極の贅沢だったと、後になって気づくことになる。

ゲームが始まると、お母さんは豹変する。
普段、近所の人にも友達にも、僕にさえも一歩引いて「気を回す人」の皮を脱ぎ捨て、むき出しの「負けず嫌い」が顔を出す。

僕が絶好のタイミングでジョーカーを切り、「はい、革命!」とドヤ顔で宣言すると、お母さんはまるで世界が終わったかのような顔をする。

「あんた!ちょっと待ちなさいよ!ジョーカーは最後に切り札でしょ!こんな序盤で出すなんて、戦術をわかってないわ!」 「戦術とかじゃないよ、勝てばいいんだよ!ざまぁみろ、これで僕が大富豪だ!」

「もう!キーッ!」

お母さんは興奮すると、手元のカードをバン!とテーブルに叩きつける。その音の大きさたるや、近所迷惑レベルだ。その一連の動作の滑稽さ、本気で悔しがっている子どものような姿が、僕の目には新鮮で、そしてとてつもなく面白かった。

「見てよ、この手札。何よこれ、4ばっかり!こんなんで勝てるわけないでしょ!運が悪すぎるわ!」 僕が笑い転げていると、お母さんは本当にムッとして、肘でテーブルを小突いてくる。

「ちょっと、あんたねぇ、笑いすぎよ!真面目にやりなさい!」
僕は真面目にやってるのに、お母さんが面白いんだってば!

この瞬間、僕は雷に打たれたような衝撃を受けた。目の前のこの人は、僕の知る「お母さん」ではない。「お母さん」という役割を一時停止している、純粋な「人」なのだ。

そして、その「人」としてのお母さんは、驚くほど感情豊かで、無邪気で、そして…可愛いらしい!

僕にとってお母さんは、人生の導き手であり、支柱だった。
厳しさと優しさのバランスを取り、僕が社会で恥をかかないように育ててくれた「完成された存在」だった。だからこそ、僕はお母さんに対して常に「良い息子」であろうと気を張っていたし、お母さんも僕に対して「完璧な母」であろうとしていたはずだ。

だけど、トランプ中のお母さんは違った。

カードを配り間違えて「あらやだ、ボケてるわねぇ!」と舌を出し、僕がミスしたら「ほらごらんなさい!ざまぁみろ!」と容赦なく嘲笑し、自分の手札が揃ったら、まるで子どものように満面の笑みで得意げにカードを並べる。

その顔には、普段の生活で背負っている責任や、人に気を遣うことでできた微かな影が一切なかった。

僕は、この瞬間、初めてお母さんを「一人の人間」として、あるいは「僕よりも少し年上の、気の置けない友人」のような視点で見ることができたのかもしれない。彼女の内に秘められた、抑圧されていたかもしれない「純粋な喜び」や「悔しさ」が、トランプというシンプルなゲームを通して、一気に解放されていたのだ。

この「遠慮ゼロ」の、怒鳴ったり笑ったりする時間こそが、僕たちが何十年も一緒に暮らしてきた中で、実は最も欠けていたものだった。僕たちは「家族」という枠組みの中で、互いに役割を演じすぎていた。

ゲームは夜中まで続き、結果は五分五分。最後の試合が終わって、疲れて伸びをするお母さんの横顔を見て、僕はふと切実な思いに駆られた。

「あー、楽しかった!もう今日はやめるわ。次は負けないからね!」
「うん、またやろうね」

この何気ないやり取りの中に、計り知れない価値がある。
このかけがえのない、本気で向き合って、本気で感情をぶつけ合った時間は、きっとこの先、僕たちが一緒にいられる時間の中で、最も色濃く記憶に残るものになるだろう。

僕は、あの時トランプに真剣に向き合っている母を見て、二つの思いが同時に胸に込み上げてきた。

一つは、「この時間がもっとあってよかった」という、過去への小さな後悔。なぜもっと早く、お母さんとの間にこの「遠慮ゼロ」の空間を築けなかったのだろう、という自責の念に近いもの。

そしてもう一つは、「これからも、この時間がもっとあればいい」という、未来への切実な願いだ。

人生のフェーズが変わっても、僕たち二人の間に、この「トランプのテーブル」のような、飾らない、純粋な遊びの時間が残り続けることを心から願った。お母さんの可愛らしさを発見したこの時間、この気づきは、僕にとって最高の贈り物だ。

僕たちは大人になると、親の「弱さ」や「無邪気さ」を見るのを恐れるようになる。だけど、その弱さや無邪気さこそが、その人の本質であり、最も愛おしい部分なのだと、トランプのクイーンとジョーカーが教えてくれた。

さて、次はどのゲームで、お母さんの純粋な「キーッ!」を引き出そうか。
その贅沢な次の時間を楽しみに、僕はまた日常に戻っていく。いつもの席に座りながら。

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マッシ|エッセイスト・ライター みなさんからいただいたサポートを、次の出版に向けてより役に立つエッセイを書くために活かしたいと思います。読んでいただくだけで大きな力になるので、いつも感謝しています。