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ようこそ!フォーチュンカフェへ 2nd☕第5話 香りの記憶 ~ブラジル×ブルーマウンテン~

見えない目に届いたのは、珈琲の香りと、孫の声と――まだ消えていない命の炎だった。

十一月下旬の三連休の日曜日。
陽ざしは少しやわらかく、小春日和の午後だった。
普段はたくさんの車がとまっている総合病院の広い駐車場には、色とりどりのテントと屋台が並んでいた。
「〇〇総合病院まつり」と書かれた横断幕が風に揺れている。

こと葉が不思議そうに言う。

「『病院祭り』なんてあるんですね。」

焼きそばのソースの匂い。
ポップコーンの甘い香り。
子どものはしゃぐ声。
その一角に、白い小さなミゼットⅡ、
――〈Fortune Café〉号が停まっている。

こじんまりした白い車体は、巨大な病院の壁に押しつぶされそうである。

カウンターの中では、こと葉が紙コップを並べていた。
その横で、修一が風よけ用に取り付けた小さな受け渡し口の確認をしていた。

「修一さん。これすごくいいです。」

こと葉が受け渡し口を見ながら感心する。

「いや……。この前、こと葉さんがコップを渡そうとしたら風で飛びそうだったので……。」

不器用そうにつぶやくと、修一は、そそくさと道具箱を片付けだした。

こと葉は、店を出す準備を進めた。
ブラジルとブルーマウンテンを合わせたブレンド。
湯を注ぐと、ふわりと香りが立ち上がる。
その香りは、ほんのり温かい晩秋の空気をゆっくり珈琲色にしていく。

その匂いに引かれるようにして、小学生ぐらいの女の子に押された車いすの男が近づいてきた。

「おじいちゃん、なんだかいい匂いがするね。」

車いすを押す少女がうれしそうな声で言った。
小学四年生くらいだろうか。
ピンクのパーカーのフードが、風で揺れている。


「……ああ。これは……珈琲?」

「そうだよ。『フォーチュンカフェ』って書いてる。」


男は、明るく答える孫の声よりも、匂いが気になった。
ブラジルのやわらかさと、ブルーマウンテンのすっと通る香り。
その混ざり合った匂いが、男の中で、暗闇の中で一瞬だけ灯る明かりのようだった。

(この匂い……)

田中清造、六十三歳。
十七年前、現場での事故で、頭上から落ちてきた鉄骨が彼の残りの人生を叩き壊した。

あの瞬間、意識は途切れた。
目が覚めたら、季節は、春から秋になっていた。

半年のあいだ、清造はほとんど動かず、眠りつづける人形のようにベッドに横たわっていたという。
気がついた時には、右半身は思うように動かず、目は光を失っていた。
だが、命は残った。
当初は、動くことすら困難であったが、リハビリを繰り返しなんとか介助があれば、生きていくことはできるところまでに回復した。

だが、今年の春。

すい臓がんと告げられた。
余命は一年。
息子が一緒に聞いてくれた。

「大丈夫……。人生を……仕舞うのに……ちょうどいい。」

つらそうにする息子に向かって、逆に強がって見せた。
十七年も、病院で生きてきた。
その終わりが、近づいているのだろう。

(もう、『生かされる』のはいい……。)

告知から半年がすぎた。
秋が深まりはじめた頃から、食べものがのどを通らなくなった。
点滴とわずかな流動食だけで日々が過ぎていく。

(生きていて……よかったんだろうか。)

自分は息子に、孫に何を残したんだろう。
ベッドに横たわりながら、天井の方に顔を向けてはそんなことばかり考えていた。
そんな清造にとって、目の前から漂ってくる香りは、あまりに懐かしかった。

「おじいちゃん、行ってみる?」

孫の明るい声に、清造は口元をゆるめる。

「ああ……連れて……ってくれ。」

事故の後遺症で、うまく口は回らない。
くぐもった声でそう言うと、孫の優子はうれしそうに車いすをゆっくりと押してカフェの方へ向かった。

こと葉は、優子を見て一瞬目元を緩めたが、車いすに乗る清造に目を移した途端、はっとして、少し寂しげな表情をした。
清造の全身をそっと取り囲む、「終末の香り」。
もうすぐ、新たな旅立ちを迎える者の匂い。

だが、すぐにその寂しげな表情は消えた。
そして、清造と優子に向かって明るい笑顔で迎えた。

「いらっしゃいませ。ようこそ!フォーチュンカフェへ。」

いつもの声音で、こと葉は微笑んだ。

「おじょう……さん。この……ブレンドは……ブラジルと……ブルーマウンテンですか?」

清造は、動かしにくい口で必死に言葉を紡ぐ。

「はい。少し深く煎ったブラジルと、香りのいいブルーマウンテンを合わせたブレンドです。匂いだけでわかるなんてすごいです。」

こと葉は、いつもより少しはっきりとした声だ。
彼の耳にしっかり届くように。

「……そうか。やっぱ……り。」

こと葉に褒められた清造の口元に、わずかな笑みが浮かぶ。

「珈琲がお好きなんですね。」

「ああ……。」

そこまで言って、言葉は自然と途切れた。

あの頃。
まだ、目で世界を見ていた頃。
仕事途中に寄った小さな喫茶店で、いつも頼んでいたブレンドの匂い。

「仕事してなきゃ、あの喫茶店にいる。」

と言われるぐらい、珈琲が好きだった。
匂いが、時間を巻き戻すスイッチのようだ。

「おじいちゃん、飲める?」

優子が目を輝かせて聞いた。

清造は、ためらった。

口からものを入れるのは、もう苦しい。
医者にも、家族にも、あまり無理はするなと言われている。

それでも――。

「少し、淹れて……ください。」

清造は、こと葉に向かってそう頼んだ。

「もちろんですよ。」

こと葉は、すぐに『理解』した。

豆の挽き方をいつもより少しだけ粗くした。
お湯を注ぐスピードも少し変える。
香りがもっと立ち上るように、けれど味は濃くなりすぎないように。
蒸らしながら、こと葉はふっと目を閉じた。

小さな紙コップに、琥珀色の液体が少しだけ注がれる。
こと葉が、風よけ用の小さな取り出し口にそれをそっと置いた。
ただ、優子にはカウンターの位置は少し高かった。

「取れる?」

「うん、大丈夫だよ!」

ちょっと背伸びして、コップをつかもうとする少女の姿を、修一はじっと見つめていた。

(……カウンターが、少し高いのか。)

もう、修一は頭の中で、新しい設計図を描きはじめていた。

優子がコップを大事そうに持って、清造の前まで運んだ。

「おじいちゃん、ここにあるよ。」

「ありが……とう。」

清造は、優子が持たせてくれたコップの縁に触れた。

熱い。

香りもはっきりとそこにある。
ゆっくりとコップを顔に近づける。
鼻先に香りが立ち昇ってきた。

ブラジルのどっしりとした厚みのある香り。
その後ろから、ブルーマウンテンの明るい酸味がふっと顔を出す。
それは、清造の人生のページを、一枚一枚めくるように匂い立ってきた。


――病院の廊下。
ガラス越しに見守った、小さな赤ん坊。
息子が生まれた日の夜も、あの喫茶店で、このブレンドを飲んだ。

――よちよちと歩きはじめた息子の手を引いて、公園へ行った。
帰り道に寄った喫茶店で、マスターが息子にサービスで出してくれたオレンジジュース。

――小学生になった息子と、近くの公園でキャッチボールをした夕方。
「ナイスボール!もう一丁!」と息子を励ます声。

――あの日。
鉄骨が落ちてくる直前、頭に浮かんだのは、成長した息子の顔だった。
もうすぐ中学生になる、少し大人びた表情。

目は見えない。
身体も、昔のようには動かない。
それでも、香りは真っ直ぐに記憶へ届いた。

(……あぁ、俺にも、ちゃんと人生があった。)

珈琲の熱が、胸に伝わったかのようだった。
息子の声。
若い妻の笑い声。
喫茶店のマスターの「いつものですね」という声。
――それらが一気に押し寄せてきた。

そして……。
清造は、優子がいるであろう方をじっと見つめた。

(俺が生きてきた時間は、こうやって引き継がれていくのか。)

清造は、そっとカップを唇に近づけた。
紙コップの縁が、かすかに触れる。
舌先にわずかに触れた苦みが、身体の内側に落ちていく。
飲み込もうとするが、のどがきゅっと締めつけられた。
ほんの少しだけ、むせる。

「おじいちゃん?」

優子が心配そうな声をあげる。

「……だいじょうぶ。」

清造はすぐに咳をおさえ、微笑んだ。

(多分、人生最期の珈琲だ。)

カップを優子に返す。

「おじいちゃん、もういいの?」

無邪気な優子の問いに、清造はそっとうなずいた。

「よろしければ、ことばみくじも、どうですか?」

こと葉が、小さな箱を差し出した。

「え?おみくじ?おもしろそう!!」

優子がうれしそうに、箱を覗いた。

箱の中には、折りたたまれた紙がいくつも入っていた。

「おじいちゃん、ひいていい?」

「ああ。」

優子は、うれしそうに箱に手を入れた。
ごそごそと指先を動かし、ひとつの紙をつまみあげる。
ひらいた瞬間、優子の眉が、少しだけ持ち上がった。

「なん……て?」

清造が、静かにたずねる。
優子は、ゆっくりかみしめるように読み上げた。

「命の炎は聖火のように引き継がれ、最後の一瞬まで燃え続ける。」

言葉が、晩秋の空気の中に、すっと溶けていった。

清造は、しばらく何も言わなかった。
ただ、頭の中で、その一文を何度もなぞる。

命の炎。
聖火のように引き継がれる。
最後の一瞬まで――燃え続ける。

(……そう……か。)

ゆっくりと、喉の奥から言葉がにじみ出てくる。

「……そうか。あと少し……燃やしてもいいんだな。」

「おじいちゃん?」

清造は、見えない目で、その声のする方へ顔を向けた。

「それ……、持って……おくんだよ。」

「え?」

優子は、もう一度紙の言葉を見た。

「それはな……おじいちゃんから、お前への言葉だ。おじいちゃんがいなくなっても……ちゃんと、お前の中で燃え続けるって、そう書いてあるんだ。」

「……じゃあ、ずっと持っとくね。おじいちゃんの言葉だから。」

清造は、小さくうなずいた。
優子の目のふちが、すこし赤くなる。

「でも、おじいちゃん。いなくならないでよ。」

その言葉に、清造は、かすかな笑みを浮かべた。

* 

それを見る、こと葉のターコイズブルーの瞳は悲しげに揺れた。
だが、こと葉は一瞬息を吸い込んでから、いつもの柔らかな笑顔に戻った。

「病院まつりの特別サービスです。お代はいりません。代わりに、優子ちゃん、おじいちゃんとこれからもいっぱいおしゃべりしてね。」

「うん!」

優子は元気よく答えた。

「お姉ちゃんたち、また来る?おじいちゃん、うれしそうだから。」

「そうね。今は旅の途中だから、またどこかで会えるかもしれないわね。」

(そうか……旅の途中か。)

清造の口もとが、また少しだけ笑った。

(そうか。素晴らしい珈琲を淹れてくれる店。また出会いたい。) 

優子が車いすを押し、ふたりは病院の建物の方へ戻っていく。
こと葉は、少し寂しげな笑顔で、彼らの背中が人混みに紛れるまで見送った。

夕方。
病棟の窓ガラスが、オレンジ色に染まりはじめた頃。
清造のベッドのそばで、点滴のポールがかすかに揺れていた。

しばらくして、病室のドアがノックされた。
看護師が、そっと清造の肩に触れた。

「田中さん、ちょっといいですか?」

顔を出したのは、さっきまで病院まつりを手伝っていた看護師だった。
彼女は手に、小さな布の袋を持っていた。

「さっきの病院祭りで珈琲を出してたお店、覚えておられます?」

「ああ……。」

「そのお店の方から、これを田中さんにって預かりました。『よかったら香りだけでもどうぞ』って」

袋をベッドサイドテーブルに置くと清造は、中身が見えなくても分かった。

ふわり、と。
ブラジルとブルーマウンテンのブレンドの香り。

「……ああ」

思わず、声が漏れた。
看護師が袋を確かめると、中には、挽きたての珈琲豆が少し。

「珈琲の匂い袋なんて、おしゃれですね。」

看護師は、清造の枕元の棚にそっとその小さな袋を置いた。

「なにかあったらナースコール押してくださいね。」

「ああ……。」

看護師が出て行き、病室は再び静かになった。

* 

清造は、枕元の方へ顔を向けた。
香りが、そこにあった。
若いころに通った喫茶店の記憶。
今日、孫といっしょに過ごした病院の駐車場の記憶。
それらが、同じ香りの中で静かに重なっていく。

(……そうか)

さっき、ことばみくじを読み上げてくれた優子の声が、耳の奥でよみがえる。

「命の炎は聖火のように引き継がれ、最後の一瞬まで燃え続ける。」

(あと少し……燃やしても、いいんだな。)

清造は、胸の前でゆっくりと手を合わせた。

(……フォーチュンカフェの旅が、無事でありますように。)

ブラジルとブルーマウンテンの香りが、清造の鼻をくすぐる。

それは、清造の胸の奥に灯った、最後の聖火だった。
消えることは恐れていない。
次に渡される瞬間まで、静かに燃えつづける。

彼は、その炎が見えているかのように、じっと病院の天井を見つめ、それからゆっくりと目を閉じた。

十一月の夜が、静かに降りてきた。

(続く)

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一条 詩紋 いつも読んでいただき、本当にありがとうございます。 物語があなたの癒しになれば幸いです。 チップはご無用です。一緒にドキドキしてくれた思いを伝えてくだされば・・・。それがうれしいです。