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「備蓄、キリがないから疲れちゃった……」そう呟いたあなたへ


それは、頑張ってきた人だけが言える言葉である

Xを眺めていると、最近こんな声が増えてきた。

「買い物に出るたびに、ちょこちょこと備蓄品を購入してるけど、キリがないから疲れちゃった」 「うちの備蓄が無駄になって取越苦労だったねと笑って、わんにゃんたちがクーラーのきいた部屋で穏やかに昼寝して、そんな夏であってほしい」

これは、誰かに見せるために作った言葉ではない。深夜にひとりでスマホを握りしめて、ぽつりと漏れた本音である。私はこういう投稿を見るたびに、画面の向こうの誰かの肩に、そっと手を置きたくなる。

なぜなら、そう呟ける人は、間違いなく頑張ってきた人だからだ。何もしてこなかった人は「疲れた」とは言わない。走ってもいない人は息切れしないのと同じである。あなたが「キリがない」と感じているのは、これまでにキリをつけようと真剣に取り組んできた証拠であり、「もうやめたい」と思うのは、それだけ長く続けてきたという勲章なのだ。

お疲れ様

2026年2月末、米イスラエルがイランを攻撃し、3月初旬にはホルムズ海峡が事実上封鎖された。それから2ヶ月以上。日本ではガソリンが史上最高値を更新し、プリンや餃子の容器が逼迫し、卵の供給に懸念が広がり、ポテトチップスが色を失い、ナフサ不足が医療プラスチックや日用品に波及しつつある。

この間、備蓄者たちは走り続けた。ニュースが出るたびにスーパーに走り、ネットで注文し、収納スペースを工夫し、賞味期限を管理し、家族を説得し、SNSで情報を集めた。備蓄を始めたのが2010年代からの古参であれ、コロナ禍からの中堅であれ、能登半島地震や南海トラフ警戒からの新参であれ、この2ヶ月の濃度はそれまでの数年に匹敵する密度だったはずである。

そして今、5月に入って多くの備蓄者が、ふと立ち止まっている。買うものリストはまだ尽きない。新しい不安は次々に湧いてくる。けれど、心のほうが先に音を上げている。「もう、いいんじゃないか」「自分は何のためにこれをやっているんだっけ」「終わりが見えない」――そんな疲労感が、夜の時間にじわりと滲んでくる。

これは、備蓄あるあるであり、しかも非常に正常な反応である。

「キリがない」のは、あなたが悪いわけではない

備えという行為には、構造的に終わりがない。これは備蓄者個人の性格や能力の問題ではなく、リスク対策というものの本性である。

今回のホルムズ海峡封鎖に始まり、地震、台風、戦争、パンデミック、食料危機、エネルギー危機、通貨危機、財政危機、サイバー攻撃、火山噴火、隕石。リスクのリストはいくらでも伸びる。一つ備えれば次が見え、次に備えればまた次が見える。井戸を掘ろうかと考え、トランシーバーを買おうかと迷い、家庭菜園に手を出そうかと悩み、防犯対策を強化すべきかと頭をひねる。やればやるほど「足りない」場所が見えてくる。これは目が良くなった証拠であって、備えが足りない証拠ではない。

経済学に「収穫逓減」という言葉がある。最初の1ヶ月分の備蓄を揃えたときの安心感と、6ヶ月目の追加分の安心感は、同じ1ヶ月分でもまるで違う。前者は「ゼロが1になる」変化だが、後者は「5が6になる」変化に過ぎない。一方で、買い続けるコスト――金銭、時間、収納スペース、精神力、家族関係――は線形に積み上がっていく。ある時点を超えると、追加投資のリターンよりコストのほうが大きくなる。「キリがない」「疲れた」という感覚は、この境目をあなたの心身が察知してくれているサインなのだ。

つまり、疲れたと感じることは、燃料切れの警告ランプではなく、むしろ「もう必要量に達したよ」と教えてくれる成熟のシグナルである。

周りの目という、もう一つの疲労源

備蓄疲れには、物理的な疲労とは別に、社会的な疲労がある。

「心配性ね」と笑われる。「考えすぎじゃない?」と諭される。「煽られてるんじゃないの?」と疑われる。「そんなことより今を楽しもうよ」と諭される。家族にすら理解されないことがある。SNSに本音を書けば「不安を煽るな」と絡まれ、書かなければ孤独が深まる。

ある備蓄者がブログにこう書いていた。「馬鹿なの?って思われても備蓄します」。別の人はこう書いていた。「『備蓄なんて自己満でしょ?』と笑うママ友へ。私がそれでも家族のために備える理由」。これらの言葉の裏には、笑われ、距離を置かれ、それでも黙々と缶詰を積み上げてきた人々の、静かな矜持と、同じくらい静かな孤独がある。

この孤独は、物理的な備蓄量とは別の場所であなたを消耗させる。「自分はおかしいのだろうか」「考えすぎなのだろうか」という自問は、ガソリン代や缶詰代よりずっと重いコストである。

しかし、声を大にして言いたい。あなたはおかしくない。考えすぎでもない。2026年4月の日本で、ガソリンが値上がりし、容器が消え、卵が高騰し、米国やイスラエルがイランへの攻撃を再開する可能性があるこの現実において、備えてきた人は嗤われる側ではなく、ありがとうと言われる側である。たとえ今すぐその「ありがとう」が言葉にならなくても、家族はあなたの缶詰で生き延びるかもしれないし、近所のお年寄りはあなたの常備薬の知識に救われるかもしれない。

「無駄になって取越苦労だったね」と笑える夏を

冒頭で紹介した投稿の中で、私の胸に最も残ったのはこの一文である。

「うちの備蓄が無駄になって取越苦労だったねと笑って、わんにゃんたちがクーラーのきいた部屋で穏やかに昼寝して、そんな夏であってほしい」

この言葉には、備蓄という営みの本質が凝縮されている。私たち備蓄者は、自分の備えが役に立つことを願っているわけではない。むしろ、すべてが杞憂に終わって、缶詰の山を「結局食べきるのに3年かかったね」と笑い話にできる未来こそが、本当の願いなのだ。

備えは、保険である。保険金を受け取るということは、何か悪いことが起きたということだ。私たちは保険金を受け取りたくて保険に入っているのではない。保険金を受け取らずに済む人生のために、保険料を払っているのである。

だから、もし2026年の夏が穏やかに終わって、ホルムズ海峡が再開し、ガソリンが落ち着き、スーパーの棚が元通りになったとしても、それは「備蓄が無駄だった」のではない。それは「備蓄者の願いが叶った」のである。世界が穏やかであれという祈りを、缶詰の形で捧げてきた人々の祈りが、届いたということなのだ。

「人事を尽くして天命を待つ」という選択肢

それでは、疲れたあなたはどうすればいいのか。

提案したいのは、「人事を尽くして天命を待つ」という古い言葉に、あえて立ち返ってみることである。

すでにあなたは、十分にやってきた。1ヶ月分かもしれないし、3ヶ月分かもしれないし、半年分以上かもしれない。量はそれぞれだが、何もしていない人より圧倒的に手厚い備えを、あなたはすでに持っている。ここから先の追加備蓄は、効果は限定的で、コストは高い。何より、あなたの心がそれを拒み始めている。

ならば、ここで一度、降りていい。完全にやめろという話ではない。ローリングストックの補充は続ければいい。月に一度の在庫チェックも続ければいい。本当に大きなニュースが流れたら、そのときはまた動けばいい。けれど、毎日のニュース監視と、毎日の買い足しと、毎日の不安シミュレーションからは、いったん降りていい。

降りるとは、結果を手放すということである。世界がどう動くかは、あなたには決められない。停戦するかしないか、機雷が除去されるかどうか、円がどこまで安くなるか、米国がさらに攻撃を続けるか――どれも、あなたの缶詰の数とは無関係に進行する。あなたが決められるのは、自分の家庭という半径数メートルの範囲のことだけで、そこはもう整えてきた。あとは、結果がどう出るかを、過剰な不安なく受け止める準備をするだけである。

これは諦めではない。仏教でいう「諦める」がもともと「明らかにする」という意味だったように、何が自分の責任で、何が自分の責任ではないかを、明らかにする作業である。

ゲームでもしながら、横目で世界を眺めよう

備蓄から降りた時間で、何をすればいいか。これも提案がある。

ゲームでも始めるといい。長く積んでいた本を読み返してもいい。観たかった映画を観るのもいい。料理に凝るのもいい。家族と何でもない散歩をするのもいい。要するに、不安以外のことに認知資源を振り向ける時間を、意識的に作ることである。

備蓄が完成したあなたには、その権利がある。最悪のシナリオが本当に来たとき、生き延びるために最も必要なのは備蓄量ではなく、判断力と精神的余裕と人とのつながりだ。今のように消耗した状態のまま危機に突入するより、心身が回復した状態で「今ある備蓄+健康な自分」で迎えるほうが、はるかに強い。

ニュースを見るのは1日1回、決まった時間でいい。見たくないなら見なくても良い。重要なことが起きれば、自然に耳に入る。それまでは、ゲームのコントローラーを握っていていい。窓の外で世界がどう動こうと、あなたはもう、自分の家のなかの戦いには勝っているのだ。

エールを送りたい

最後に、これを読んでくれているあなたへ。

長い間、お疲れさまでした。

誰にも褒められないところで、誰にも見えない場所で、家族のために、自分のために、こつこつと積み上げてきた缶詰の山を、私は知っている。何度もスーパーで悩み、何度もECサイトで比較し、何度も収納を組み直し、何度も家族を説得してきたあなたの2ヶ月を、私は知っている。

「キリがないから疲れちゃった」と呟いたあなたへ。それはあなたが頑張ったからだよ。「うちの備蓄が無駄になりますように」と祈ったあなたへ。その祈りは尊いものだよ。「馬鹿なの?って思われても備蓄します」と言い続けたあなたへ。あなたは馬鹿ではないし、家族はあなたを必要としているよ。

備蓄に再び一段落つけて、缶詰の山を背中に置いて、湯呑みを傾けながら、世界を眺めましょう。何もないなら、それが一番。何かあれば、そのときはあなたの備えが、家族とあなた自身を支えてくれる。

人事は尽くした。あとは、天命を待つ。

それで、十分。


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