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今夜オフィスでごはんを食べよう 第三話 インスタントラーメンとあの日の弁当

「亜由美さん、今日は僕とミカちゃんが彩子さんの手伝いするから。亜由美さんは7時になったら、みんなとラウンジに来てね」
春巻きときくらげの料理を食べた夜から、ひと月経った金曜日の朝。打ち合わせの後、タケシさんが笑顔で言った。

「え、でもタケシさんも忙しいんじゃ……」
梅農家さんのECサイト制作がいよいよ大詰めで、Webデザイン担当のタケシさん、リーダーのノブさん、そして私の三人は連日残業が続いていた。
「うん、まあ、そうなんだけど。なんだか、彩子さんと料理したらリフレッシュできる気がして」
タケシさんが少し照れたように笑った。
「そうよ。彩子さんといる亜由美ちゃん、とっても楽しそうだし。私も彩子さんと料理しながらおしゃべりしてみたくって」
ミカさんも私の隣に来て、ふわりと笑った。
「じゃあ、今夜はお願いします」
二人にお辞儀して笑顔でそう言ったが、胸の奥が少しざわついた。
仲のよかった友だちが、自分がいないところで他の子と楽しそうにしているのを見たときの——
小学生だった私が感じた、ちくりとした寂しさに、どこか似ている気がした。

+++

「今夜、彩子さん手伝うのは、タケシとミカちゃんやな。5時前には来はると思うから、頼むわ」
そう言いながらシンさんは、ノートパソコンを閉じてバッグに入れた。いつものTシャツにジャケットではなく、今日はめずらしくスーツ姿だ。そういえば昨日、ノブさんが帰りがけにシンさんに言っていた。
「シンさん、明日の午後、銀座の百貨店で食品催事担当さんと打合せですよね? ちゃんとスーツ着て行ってくださいね」
「オレ、スーツ苦手なんやけどなあ」
ぶつぶつ言っていたけど、けっこう似合っている。
「……あれ、雨降ってきたな」
窓の外をみながらシンさんがつぶやいた。
「7時過ぎには戻ってきたいなあ」
そう言って傘を手に、オフィスを出て行った。
そろそろ梅雨入りかな。
パソコンの前に戻りながら、私はそんなことをぼんやり思った。

+++

「彩子さんから連絡、ないですよね」
壁にかかる時計を見ると、5時半を過ぎていた。ちょっと困ったようにタケシさんがノブさんに声をかけた。
「おかしいなあ。彩子さん、日にち間違えてるのかな」
ノブさんはスマホを取り出し、困ったなあという顔で画面を見ていた。
「何度かメッセージ送ってるんだけど、既読にならないんだよね。電話してみるか……」
そう言うと、うーんと唸りながら、ノブさんは画面をタップした。
「オレがおらんときは、ノブに連絡してください」
先月彩子さんが来てくれた夜。シンさんがそう言って、彩子さんが帰る前に、ふたりは連絡先を交換していたのだった。

「だめだ。繋がらないや」
ノブさんのスマホから「電波の届かないところにいるためつながりません」とメッセージが聞こえる。
「シンさんは打合せ中で連絡取れないし。困ったな」
ノブさんの言葉を聞いて、私は胸の奥がざわざわした。
なんだろう、この感じ。
あの日と、似てる。母が救急搬送されたときに、最初に感じたあの、説明のつかない不安と。
——まさか。
彩子さん、元気だったし、持病もないって言ってたし……。

窓の外の雨が強くなり、窓ガラスを激しく叩きつけている。
その音に重なるように、会社の電話が鳴った。いつもより大きくオフィスに響く。私は身体が固くなった。
ノブさんがシンさんのデスクに向かって駆け出し、受話器を取った。

+++

「Creative Partners 結です。あ、はい。いや、こちらこそお世話になっています…え?」
ノブさんは受話器を握ったまま立ちすくんだ。
「はい……、それで彩子さんの容態は?」
オフィスにいたスタッフが、同時に顔をあげた。
何かが起こった。
その空気だけが、部屋を満たしていた。
——やっぱりだ。
このざわざわは、やっぱりそうだったんだ。
どうして私は、こういう嫌な予感ばかり当ててしまうんだろう。

ノブさんが、そっと受話器を置いた。
「彩子さん、どうしたんですか?」
思わず大声が出てしまった。周りのみんなだけでなく、自分でもおどろくほどの大きな声だった。
「……彩子さん、交通事故にあったって」
ノブさんが苦しそうに言った。その言葉の重みに、私は思わず息を詰めた。
電話は、彩子さんの息子さんからだった。

雨が強くなった頃。自転車で結まで行くと言っていた彩子さんが気になって、息子さんは彩子さんにメッセージを送っていたらしい。

今から買い出しに行って、そのまま結さんに行くわ。
レインウェア着てくから大丈夫!

彩子さんからいつものように明るい返事がきた後、連絡が途絶えた。
彩子さんはスーパーで買い物を終えて、自転車の前と後ろのカゴに食材を積んで走っていた。雨脚が強くなってきた頃、自転車を走らせていた彩子さんは、駅前の見通しの悪い交差点で、軽自動車と出会い頭に衝突したという。相手は近くにある信用金庫の営業車だった。

「道路に、トマトやレタス、パックに入ったお肉が散らばっていたって、息子さんが……」
「そんなことより、彩子さんの容態は?」
誰かの声に、ノブさんが首を振った。
「まだ意識は戻っていないそうだ。頭を打って、彩子さんが被ってたヘルメット、割れてたんだって。どちらかの足も骨折したそうだ」
「彩子さん、どこの病院に運ばれたんですか?」
気持ちを落ち着かせる余裕がなく、怒ったような声でノブさんに問いかけた。ノブさんがうつむいて病院名をつぶやくように言った。会社から歩いて15分ほどの場所にある、大きな病院だった。

「私、行ってきます」
バッグを持って立ち上がった私を、止める声が聞こえた。
「亜由美ちゃん、家族や親族でないと面会できないから」
——それでもいい。とにかく、行かないといけない。
母が倒れたあのとき、病院で過ごしたあの夜、そのあとの後悔が胸に蘇ってきた。
あんな思いは、もう二度としたくない。

オフィスを出て階段を降り、誰もいないラウンジをのぞいた。キッチンには彩子さんがいて、タケシさんとミカちゃんと三人で料理をしているはずだったのに。
傘立てにある自分の傘を手に取ると、私は雨の中、急かされるような気持ちで足早に病院へ向かった。

+++

雨は激しく降り続いていた。
スマホに表示された地図を時おり確認しながら、国道沿いの歩道を足早に進んだ。
バシャッという音で足元を見ると、水たまりの中を歩いていたことに気がついた。スニーカーの中にじわりと水が染み込んできたが、気にせずそのまま足を進めた。

——早く着きたい。少しでも早く。
高架下をくぐり抜けて歩道橋を渡ると、マンションの前に出た。その先に、彩子さんが搬送された病院が見えた。靴の中まで水が入り、歩くとクチュクチュと不快な感覚がある。傘をさしていたのに、左腕がびっしょり濡れていた。
——私は彩子さんの家族でもないのに。会えるはずもないのに。
雨の中急いで病院へ来たものの、建物の前に立つと冷静になったのか少し後悔した。でも、その場を離れる気持ちにはなれなかった。
彩子さんの無事を確かめたかった。それまでは帰れない。

玄関の自動ドアの前に立つと、静かにドアが開き、ひやりとした空気が足元に流れた。
中へ入り、ビニール袋スタンドに傘を差し入れた。
雨に濡れた服が肌に張りついて、体がじんわりと冷えていた。
スニーカーの中で靴下が濡れ、歩くたびにクチュっという不快な音を立てていた。

待合スペースの奥に、コンビニの明かりが見えた。タオルと不織布マスク、ホットコーヒーを買って、待合に戻った私はソファに腰を下ろした。
マスクをつけて、濡れた腕をタオルでそっと拭いた。あとでトイレに行って、靴下も脱いでしまおう。そんなことを考えながら、紙カップに口をつけて、コーヒーを飲むとようやく落ち着いてきた。
「はぁー」と大きくため息をついたとき、病院特有の消毒液と薬品の匂いが鼻をかすめた。その匂いに導かれるように、あの日の記憶がかすかに蘇ってきた。

+++

「真木さん! ここにすぐ電話してください! お母さんが倒れられたそうです!」

2年前の夏。ミーティングを終えて会議室を出ようとしたとき、同じ部署の後輩がメモを差し出した。赤字で『至急!』と書かれたメモには、病院名と電話番号が書いてあった。廊下の隅でスマホを取り出し、番号を押した。

「もしもし? 真木優美の家族、娘です」
自分の声が震えているのがわかった。
スマホから、落ち着いた女性の声が返ってきた。
横浜市T区の救命救急センターの看護師だった。
仕事中に突然倒れた母は、同僚の対応で救急搬送され、病院で処置を受けているという。

「今、お母様にできる限りの手は尽くしていますが、危篤状態です。すぐに他のご家族に連絡を取って、できるだけ早くきてください」

電話を切った後、呆然としていた。
「真木さん、大丈夫?」
上司の声でハッとした。しっかりしないと、と自分に言い聞かせて、今聞いた看護師からの説明を伝えた。
「すぐ行ってあげて」
そう言われて、頭を下げ、デスクの上の書類を片づけた。

会社の玄関を出た瞬間、さっき言われた『他のご家族』という言葉が浮かんだ。
スマホのアドレス帳から父の連絡先を探した。
電話するのはいつぶりだろうか。
「おお、亜由美か。どうした?」
のんびりした声に、緊張がふっとゆるんだ。
「お母さんが……」
涙をこらえて説明すると「わかったすぐに行くから。病院で会おう」父はそう言って、電話が切れた。

それから2日間、父とふたり、母のそばにいた。その間のことは、あまりよく覚えていない。
母の意識が戻ることはなく、3日目の朝、亡くなった。


——あれから2年経ったんだ。
そうだ、お母さんの三回忌のこと、お父さんに相談しないと。
ぼんやりとスマホの時計を見ると、30分以上経っていた。彩子さんのことが心配で飛び出してきたはずなのに、あの日のことを思い出していた。
——何やってんだ、私は。
とりあえず、ノブさんに連絡して今日は帰ろう。そう思ったときだった。

+++

「亜由美さん、真木亜由美さんですか?」

ふいに自分の名前を呼ばれて、顔を上げた。私と同じくらいの年齢だろうか。私より少し背の高い男性が立っていた。
「母がお世話になっています。瀬戸彩子の息子、瀬戸卓人といいます」
「こちらこそ、彩子さんにはたくさんお世話になっています」
ソファから立ち上がり、頭を下げた。
――なぜ私のことを? 
戸惑いながら、彼の顔をうかがうように見つめた。
「母が結のみなさんと撮った写真をスマホに入れてまして、先日見せてくれたんですよ。母と亜由美さんがふたりで並んでいる写真もあって、『彼女、亜由美さん言うてね。結さんに料理しに行くと、よう手伝ってくれるんよ』って、嬉しそうに話してました」
自分のいないところで、彩子さんが息子さんにそんなことを言ってたんだ。くすぐったくて、照れくさくて、けれどなにより、うれしかった。

「あの、彩子さんの容態は……?」
私がそう言うと、彼はうつむきながらゆっくり話し始めた。
「僕の職場に連絡があって、すぐに病院に駆けつけました。父が到着するのを待って、ふたりで医師から説明を受けたんです。
頭をかなり強く打っていたようで……。でも、先週、父が買ってあげていたヘルメットを被っていたらしくて。それがなかったら……と言われました。まだ意識は戻ってないんですけど、命に別状はないだろうって」
卓人さんは少しほっとしたような顔をしていた。でも、どこか張りつめた緊張感と不安が残っているようにも見えた。
「父は、さっきまで警察の人や事故の相手と話していたんです。病室に戻ってきてからは、母の隣から離れなくて」
彼は言葉を切ると、遠くを見るようにして続けた。
「相手の車、駅前の信用金庫の営業車だったんです。運転していたのは僕と同じくらいの歳の男性で、上司に付き添われて来ました。病室の前のベンチで、ずっとうつむいて座っていて、僕らが通るたびに立ち上がって、二人で深く頭下げるんですよね」
彼は小さくため息をついた。
「父は母のそばから離れないし、僕もずっと付き添っていたんですけど……少し、外の空気を吸いたくなって。コンビニでも行こうと思って歩いていたら、亜由美さんの姿が見えたんです」
彼の声はかすかに震えていて、胸に詰まっていたものをようやく、そっと押し出せたように聞こえた。

「腹へったなぁ」

ぽつりと卓人さんがつぶやいた。誰に言うでもなく、自分のなかからふっと漏れ出たような、そんな声だった。
「なんだかバタバタしてて、昼も食べそびれてたんですよ。病室で母の手を握ってたら、お腹が鳴っちゃって」
少し照れて笑いながら、彼が言った。
——そうだ、今日は彩子さんが来る金曜日。
みんなで彩子さんのごはんを食べる夜だったはず。春巻きの夜から、まだ1か月しか経っていないのに、まさかこんな夜になるなんて。
スマホの時計を見ると、7時を過ぎていた。

「亜由美さん、駅まで送りますよ。僕、腹減ったんで、駅前でラーメンでも食べてから母の病室に戻りますから」
卓人さんは私に気を使うように笑顔を向けてくれたが、その表情には疲れがにじみ出ていた。私は少し明るい声で言った。
「私、おすすめのお店があるので、案内しますよ」
「よかった。僕、最近このあたり来てなかったから、助かります。病室に戻って、ちょっと父に声かけてくるんで、玄関で待っててください」
卓人さんはそう言って、エレベーターの方へ走っていった。
そうだ、靴下を脱ぎたかったんだ。
私は足元の不快感を思い出した。トイレに行き、靴下を脱いで、コンビニでもらったビニール袋に入れた。
トイレを出て玄関へ行くと、卓人さんがすでに待っていた。
ふたりで病院の玄関を出ると、雨は止んでいた。歩道の水たまりが、車のライトで光って揺れていた。なにか話した方がいいのかな。そう思ったが、無理に言葉を探すのはやめて、静かに駅までの道を歩いた。

駅に着くと、改札口は仕事帰りの人、待ち合わせの人であふれていた。
「もうちょっとですから」
少し後ろを歩く卓人さんにそう言って高架下を歩いた。カウンター席だけのラーメン屋まできたら、外まで人が並んでいた。
「人気なんですね」
人の列を見て卓人さんはちょっと驚いて、そしてがっかりしたように言った。
「すいません、今日、金曜の夜でしたね。週末は混むの忘れてました」
疲れている卓人さんをここまで歩かせてしまった。申し訳なさが込み上げてきた。
「この近くにもう一軒おいしいラーメン屋さんあるんですけど……」
顔を上げながらそう言うと、卓人さんは視線を落としたまま言った。
「いや。そこも混んでいるでしょうから。あたたかいもの食べたかったけど、仕方ないですね。病院のコンビニでおむすびとカップラーメン買って、ラウンジで食べますよ。亜由美さん、ありがとう」
そう言って、少し笑った卓人さんがどこか寂しげで、心にひっかかった。
そうか。
卓人さんは、誰かがつくったあたたかいものが食べたい、それだけじゃなくて――あたたかさに触れたいんだ。
食べている時間、ほんのひとときだけでも、緊張から、不安から、少し解放されたいんだ。
来た道を戻ろうとする卓人さんを「ちょっとまってください」と引き留めた。いや、そんなの私の思い込みかもしれない。それに、こんなこと言って、どう思われるかわからない。そんな頭の声を振り払って、私は卓人さんに言った。

「あの……よかったら、うちの会社で食べませんか? インスタントラーメンがあるから、私、作りますよ。駅の反対側なんで、ここから歩いて15分ほどかかりますけど」
キッチンの棚に、シンさんが買い置きしているインスタントラーメンがあったはず。
「みんなも食べてくれてええで。後から食べた分は補充しといてな」
シンさんがそう言っていたのを思い出した。駅前に夜遅くまで開いているスーパーがあった。そこで、卵やネギを買おう。
突然の誘いに、卓人さんはちょっと驚いていた。でも、すぐに笑顔になって、やわらかい声で言った。
「母が楽しそうに行ってた結さんって場所。僕も一度見てみたかったんです。お言葉に甘えて、ちょっとお邪魔してもいいですか?」
「もちろん!」
「じゃあ、父にちょっとメッセージ送っておきます」
卓人さんはスマホを取り出して、画面を見ながらすばやく親指を動かしていた。その横顔は、少しだけやわらいだように見えた。私はホッとした。

高架下を歩いてふたたび駅前に出ると、狭い歩道に人が溢れていた。信号が変わると同時に一斉に歩き出す人の波にまぎれながら、卓人さんと並んで歩いた。肩が触れると、ちょっとドキッとした。
ビルの間の路地を抜け、スーパーに着いた。店内に入ると、私はもやしと長ねぎ、卵をカゴに入れた。
「僕、持ちますから」
卓人さんはそう言って、私の手からカゴを取った。レジで支払いを済ませ、袋を手に下げて、「お待たせしました」と言って小さく笑った。

「卓人さん、お代金…」そう言うと、「いやいや、作ってもらうんだから僕が払います」とにっこり笑った。さりげないやさしさが、彩子さんに似てると思った。
スーパーの自動ドアを出ると、アスファルトに残った雨の匂いがふわっと立ちのぼった。いつもひとりで歩いていた会社までの道を、さっき初めて会った卓人さんと並んで歩くのが不思議だった。
2ヶ月前の自分だったら、信じられないかもしれない。

会社に着き、玄関のドアを開け、卓人さんと中に入った。廊下にラウンジの明かりがもれていた。
——あれ? 誰かいる?
ラウンジをのぞくと、キッチンでシンさんがコーヒーを淹れていた。
スーツの上着は脱いで、椅子にかけていた。白いシャツの袖を少しだけまくっていた。
「シンさん、戻ってたんですね」
声をかけると、顔を上げた。
「おう、亜由美ちゃん……あれ?」
シンさんが私の後ろにいる卓人さんに気がついた。
「シンちゃん、久しぶり」
卓人さんが小さく笑いながら言った。
その声は、ほんの少しだけ、懐かしそうだった

+++

「タクー!」
キッチンにいたシンさんが、ひと目で卓人さんに気づいて声を上げた。嬉しさがにじむ大きな声だった。
「電話、ありがとうな。彩子さん、ほんま無事でよかった」
シンさんは卓人さんに近づくと、大きな手で彼の両肩をぽんぽんと叩いた。
——電話? そうか。さっき病院を出る前に、卓人さんはシンさんに連絡していたんだ。私は会社に電話することをすっかり忘れていた。
「うちのスタッフも安心してたで」
シンさんがそう言った後、私は連絡していなかったことを詫びた。
「かまへん、かまへん。ノブもみんなも安心して帰ったわ」
シンさんの言葉に、卓人さんはちょっと目を伏せた。
「でも。まだ意識戻ってないんだよね…」
「彩子さんは、大丈夫や」
シンさんの『大丈夫』には根拠なんてない。けれど、どこか安心できる強さがあった。

「そやけど、なんで二人で来たんや?」
シンさんが、不思議そうに私と卓人さんを交互に見た。
「……あの、私、彩子さんが病院に運ばれたって聞いて、思わず会社を飛び出して病院へ行ったんです。それで……病院の待合スペースにいたら、卓人さんが私を見つけて声かけてくれて……」
「え、亜由美ちゃん、会社飛び出したん?」
そう言いながら、シンさんは驚いていた。
「卓人さんが『お腹空いた』って言われて、駅前のラーメン屋さんに一緒に行ったんですけど、金曜の夜ですごく混んでて……うちの会社なら静かに食べられるかなって、思いついて……勝手に社外の方をお連れしてしまって、すみません」
頭を下げると、シンさんは一瞬真面目な顔をしたが、ふっと笑った。
「まあ、卓人は彩子さんの息子で、オレも昔から知ってるし。今日は大変やったからな。特別やで」
そう言うと、ガスコンロの上にある戸棚を開け、インスタントラーメンの袋を2つ取り出した。
「これしかないなあ。しゃーない。三人で分けよ」
そう言うと、片手鍋を出しコンロの上に乗せた。
「シンさん、さっきこれ買ってきました。というか、卓人さんが買ってくださったんですけど」
私はそう言って、スーパーの袋をキッチンのカウンターに置いた。
「おお、ありがとう。ええっと……もやしと長ネギ、卵もあるやん」シンさんは袋の中を見ながら、冷蔵庫を指さした。
「亜由美ちゃん、野菜室に、にんにくとキャベツあったと思うねん。『今日、彩子さん来る日ですよね。なんかつくってもらおう』言うて、誰か入れてたはずやわ」
冷蔵庫の下段を引き出すと、ビニール袋に入ったにんにくと、半分に切られたキャベツが見えた。彩子さんがくる前日になると、スタッフが家から残り野菜を持ち寄るようになったのだ。
「これ、ですか?」
「おお、それそれ。亜由美ちゃん、にんにく1かけと長ネギの白いところをみじん切りにして、上の青いところは斜めに薄く切っておいてくれるかな」
私はまな板と包丁をさっと洗い、にんにくの皮をむき、みじん切りにした。卓人さんが長ネギを洗い、私に手渡してくれる。
「タクは、もやしを袋から出して軽く洗って、ざるに上げておいてくれ」
久しぶりにキッチンに響く包丁の音と水の音が、なんだかやさしく聞こえる。

シンさんがフライパンを火にかけて、ごま油を入れた。
「そろそろええかな」
みじん切りにしたニンニクと長ネギを入れると、ジュ―ッという音と香ばしい匂いが広がった。
「ニンニクと長ネギの香り、お腹空いてきますね」
思わずそう言うと、シンさんは「そやろ」とちょっと得意げだった。
「シンさん、キャベツは?」
私が聞くと、キャベツをさっと洗い、水を切ってばりばりと手でちぎり始めた
「え? 包丁使わないんですか?」
フライパンの長ネギとにんにくが焦げないか気になって、私は混ぜながらシンさんに聞いた。
「柔らかいキャベツは手でちぎれるし、そっちの方が味が染みやすい気がするねん」
シンさんはそう言うと、慣れた手つきでちぎったキャベツをどさっとフライパンに入れた。
「亜由美ちゃん、そんなに混ぜんでもええで。時々上下返すくらいでええから。あとは、もやしとネギの青いとこ入れて、さっと炒めておいて」
シンさんは鍋に湯を沸かしながら、何かを探している。
「お酢、どっかにあったかな」
「あ、カウンターの下にあったと思います」
私が瓶を手渡すと、「お、サンキュ」と受け取り、鍋にお酢を少し入れた。
「タク、ここに卵3つ割って入れといて。白身が少し固まりかけたら、麺入れてな」
「了解!」
卓人さんが卵を1個ずつコンコンと割り、鍋の中に落としていく。
「お酢入れるとね、卵が崩れにくいんだよ」
私が不思議そうに鍋をのぞいているのを見て、卓人さんが笑って教えてくれた。
キャベツがやわらかくなったタイミングで、ネギともやしを入れてさっと炒めて火を止めた。フライパンの中を見ていると、お腹が鳴った。
「シンさん、炒めた野菜はこの後どうすればいいですか?」
私が聞くと、シンさんは「ちょっとだけ味つけようか」と、軽く塩と胡椒を振り入れた。さっと混ぜて、キャベツを一切れ口に入れた。
「甘くて美味しい!」
「うん、ネギの青いところもええ感じや」と味見したシンさんは満足そうな顔になった。
「ラーメンもできたよ」卓人さんはそう言うと、丼にラーメンと卵を盛り付けていた。
フライパンの野菜を丼に入れる。シンさんと卓人さんの丼には、ちょっと多めに入れておいた。

「よし!食べよか!」
シンさんがテーブルに丼と箸をおいてくれた。
「いただきます!」
お腹が空きすぎていた卓人さんと私は、勢いよくラーメンをすすった。 
「懐かしいなあ、この味。うちの母も、シンちゃんの両親も仕事で帰りが遅い夜があってね。そういうとき、シンちゃんがよくこのラーメン作ってくれたんですよ」
インスタントだけど、シンさんのラーメンはほんとうに美味しかった。ニンニクとネギの香りが食欲をさらに加速させて、炒めたキャベツやネギと一緒に麺をすすると、満足感が広がる。もやしもシャキッとしていて、美味しい。
「ほんと。美味しいです」
——誰かとラーメンをすする時間が、こんなにあたたかくて愛おしいなんて。少し前の私には、想像もつかなかった。
「そやろ!」
シンさんは嬉しそうに笑っていた。

+++

「タク、ラーメンだけやったら足りんやろ」
シンさんは立ち上がると、キッチンの冷蔵庫を開けに行った。
「打合せ終わった後、福龍で餃子買うて帰ってきたんや。タクも亜由美ちゃんもラッキーやな」
福龍は銀座の老舗中華料理店。大きな餃子が有名なお店だ。
「え、福龍の餃子? 久しぶりだなあ……」
卓人さんが子どものように目を輝かせた。私も福龍の餃子と聞いて、思わず顔がほころんだ。
「食べて帰ろうかとも思ってんけど、持ち帰りにしてよかったわ」
シンさんは包装紙を外しながら、嬉しそうに笑った。

卓人さんが、ちらりとスマホの画面を見ていた。
「大丈夫ですか?」
楽しそうにしながらも、母親のことが気になるのだろう。当たり前だ。私は楽しい時間を過ごしていたことに、少しだけ罪悪感を感じた。
「はい。父からも病院からも連絡ないんで、もうちょっとだけなら……」
卓人さんはそう小さくつぶやくと、ガスコンロの前にいるシンさんに声をかけた。
「シンちゃん、電子レンジで温めないの?」
「そうや。手間かかるけど、フライパンで焼いて温めた方がうまいねん」
シンさんはそう言って、野菜炒めに使ったフライパンをさっと洗った。そのフライパンを火にかけて、うすく油をひく。シンさんは慣れた手つきで、焼き目が下になるように餃子を並べた。火にかけて水を少し入れて、ふたをした。しばらくすると、水気がなくなりバチバチという音がした。シンさんが蓋を開けると、ふわっと湯気が立ちのぼった。
大きな平皿を出してシンさんに渡すと、フライパンを皿にかぶせた。「よっ!」声を上げながら、器用にフライパンをひっくり返す。皿の上には、香ばしいきつね色の焼き目がついた餃子がきれいに並んだ。
卓人さんがいつの間にか丼を洗ってくれていた。私は小皿としょうゆ、酢、胡椒を出してテーブルに置いた。
「いただきます」
ふたたび、三人でテーブルを囲み、餃子に箸を伸ばした。
私たちそれぞれの心が、少しだけほぐれていくようだった。

+++

「うーん。やっぱり福龍の餃子、美味しいね」
卓人さんが最後のひとつを口に入れ、目を細めていた。
「ビール飲みたいところやけど、タクは病院戻らなあかんしな」
そんな卓人さんを嬉しそうに見ながら、シンさんはペットボトルのお茶をぐいっと飲んだ。

二人のやりとりを聞きながら、ふと気になっていたことをたずねた。
「卓人さんって、あんまり大阪弁出ませんよね。いつ東京に来られたんですか?」
「小学校を卒業して、中学生になるタイミングです」
そう言って、卓人さんは少し照れくさそうに笑った。
「母が再婚して、その相手の転職先が東京だったんです。三人で一緒にこっちへ来て、それからずっと東京です」
「じゃあ、『父』って言われてたのは…」
「僕の実の父じゃないんですよ。でも、大学出るまでちゃんと育ててくれて、感謝しています。実の父は、僕がこっちに来る前に再婚して、今は別の家庭を持っていて。もう10年以上会っていませんが、元気でいると思います」
その言葉を聞きながら、私は小さくうなずいた。

再婚。
胸の奥で、その言葉が波紋のように広がっていった。
母にも、そんなことを考える相手がいたんだろうか。

+++

両親が離婚したのは、私が6歳のときだった。
「お母さん、なんでお父さんと離婚したの?」
中学に入ったばかりの頃、一度だけ聞いたことがある。
母は少し黙っていたが、静かに話し始めた。
「亜由美の父親としては、彼は言うことない人よ。でもね……お互い『夫婦であること』を続ける努力を、いつの間にかサボっていたの。亜由美を育てることや生活のいろんなことを理由にね。気がついたら、私もお父さんも、お互いを思いやれなくなって、戻れないとこまできてたのよ」
母の声に、少しだけ後悔が混じっていたような気がする。
その声を思い出して、今、気づいた。
父は、母のことをずっと好きだったんじゃないか、と。
あの日、病院で。意識の戻らない母の手をずっと握っていた父の姿を、私は思い出していた。

+++

「亜由美さん?」
うつむく私をのぞき込むように、卓人さんが声をかけた。
「私、おふたりのように、楽しい食卓の思い出がほとんどないんですよね」
少しの間、ためらいがあった。けれど、このあたたかい沈黙の中なら、胸の奥をひらいても大丈夫だと思った。
「うちも両親が離婚しているんです。私が6歳の時でした。
うちの母は料理が苦手で。レシピ見ながらきっちり作るんだけど、煮物も炒め物も味がぴりっとしまってなくて」
話しながら、あの頃の食卓がふっと浮かんだ。私が用意しておいたごはんと味噌汁。母が仕事から帰ってきて、疲れた様子で作ったおかず。黙って食べる、母と私。ふたりでいたのに、ひとりぼっちだった。
「そんな母だったんで、晩ごはんは祖母が作ってくれていました。でも、中学生のとき祖母が亡くなり、それからは母と私が簡単なもの作って、二人で黙って食べて……そんな食卓でした」

突然こんな話してしまって。卓人さんもシンさんも困ってないかな。顔を上げると、ふたりは静かに私の話に耳を傾けてくれていた。遮ることも、気を遣った言葉を発することもないその場の空気に、私は救われたような気がした。
「卓人さん、今日突然病院へ押しかけてしまい、すいませんでした」
詫びる私に卓人さんは、いいんだよ、というように首を振っていた。
「母は2年前に職場で倒れて、緊急搬送された病院で亡くなったんです。母とは仲良くなかったし、年に一度会うくらいだったけれど……だからこそ、突然の別れにずっと後悔が残ってて。彩子さんが事故に遭われたって聞いたら、あのときの後悔を思い出して……誰の声も聞かずに病院に向かっていました」
あの頃を思い出して、胸の奥にしまい込んでいた何かが、あふれてきた。
「母と仲良くないから、こまめに連絡とることもしていなかった。もし、私が一緒に住んでいたら、時々でも会いに行っていたら、母の具合が悪いこと、わかっていたかもしれない。あのとき、突然亡くなることもなかったかもしれない。今も、そう思うことがあるんです」
シンさんも卓人さんも、慰めの言葉をかけることなく、ただ静かに、そこにいてくれた。その静けさに包まれて、私はようやく、あのときからずっと胸の奥にしまってきた後悔を、言葉にすることができた。
少しの沈黙の後、卓人さんが口を開いた。

「後悔は、残ります。親が亡くなって、後悔しない子どもはいないって、祖父が亡くなった後、母が言ってました」

卓人さんの言葉なのに、なぜか彩子さんが今そう言ってくれているように感じた。
「母は20代半ばで母、僕の祖母にあたるひとを亡くしたんです。祖父も、僕が高校生の時亡くなりました」
卓人さんは、私とシンさんを交互に見て言葉を続けた。
「『おじいちゃん、これ好きやったから、つい買うてしもたわ』って言いながら、祖父が好きだったきんつばをよく買ってました。祖母が使ってたグラタン皿を今でも大事に使っていて……。そんな母を見ていたら、母のなかで、祖父と祖母は、今も生きているんだなって思います」

彩子さんのなかにご両親が生きているように、母も私のなかで生きているんだろうか。今からでも、もう一度、母と向き合ってみたい。そんな思いが小さく生まれた。
彩子さんが元気になったら、彩子さんのことも聞きたい。
そして、今まで言えなかった私のことも、いつか話してみたい。
そう思った。

+++

しんみりした空気を打ち消すように、卓人さんが言った。

「亜由美さんもシンちゃんも、うちの母、料理は完璧だって思ってるかもしれないけどね。弁当作るのは苦手だったんだ」

「えっ」と驚いて声が出そうになった。あんなに料理が上手な彩子さんに、そんな一面があったなんて。
「小学生の頃、僕、学童に入っててね。夏休みとか長期休みになると、弁当持って行かないといけなかったんだよ。
母は昔から朝が弱くてね。5分でも長く寝ていたいって言って、いつもぎりぎりに起きて、慌ててお弁当作ってた。
だいたい、前の夜食べたおかずとごはん詰めるだけだったけどね。あとは、焼いたソーセージと冷凍食品。キャラ弁とか全く作れなくてさ。まあ、作ってくれって頼んだことはなかったけど。まわりもそんな感じだったから、文句言ったことはなかったけどね」
卓人さんの話を聞いていたら、母が作ってくれたお弁当を思い出した。冷凍食品や買ってきたお惣菜、前の晩のおかずが多かったけど、赤や緑の野菜を入れて、彩りを考えて詰めてくれていた。ふたを開けるたびに、ちょっとうれしかった。

「学童の先生たちは、『食べられるものだったらなんでもいいから。ドーナツ2個でもいいのよ』って言ってたらしいよ。母はそれで、弁当へのハードルが下がったみたいでね」
卓人さんが、ふと思い出したように話を続けた。
「月曜日の朝、寝坊して、ご飯も炊き忘れてたとき、冷凍チャーハンが弁当箱に入ってたことあったんだ。『学童にある電子レンジでチンさせてもろて』って言ってさ。意外にも、みんなにうらやましがられたよ」
「彩子さんでも、そんなことあるんやな」とシンさんが笑っていた。冷凍チャーハンを息子に持たせる彩子さん、それを学童に持っていた卓人さん。そんなゆるやかな親子の空気が、なんだかうらやましかった。私と母の間には、なかったものだった。

「オレの家もあったなあ。そんなこと」
少しの沈黙の後、シンさんが懐かしそうに笑いながら話し始めた。
「オレと弟が学童いってたとき、おかんが風邪拗らせて、肺炎になって入院したことあってな。おとんが弁当用意してくれてんけど、昼ご飯のとき、いつもよりでかい容器の蓋開けたら、コンビニで買うてきた焼きそばパンとコロッケパン入っててん。兄弟ふたりで分けて食べてなってメモと一緒に」
「焼きそばパンとコロッケパンの弁当って、小学生だったら嬉しいだろうな」
卓人さんは、子どものような顔になって、うらやましそうに言った。
「でもな、みんなが珍しそうにオレの弁当箱覗いて、恥ずかしくて泣いてしもてん」
「えっ」と私と卓人さんは声を上げて顔を見合わせた。あのシンさんが泣いたなんて、ちょっと信じられなかった。
「オレもそんな繊細な心があるんよ」
シンさんがちょっと恥ずかしそうに笑って私たちを見つめた。
「その日の夜、学童の先生がおとんに電話してくれてな。
『シン、今日の弁当ごめんな。お父ちゃん料理苦手やからな』っておとんに謝られてん。
翌朝、おとんがでっかい手でおにぎり2個作ってくれてな。前の日の夜、スーパーで買うてくれたから揚げが中に入ってたわ。美味かったなあ、あのおにぎり」

ウイーンという冷蔵庫のモーター音が静かに響いていた。

「親は、完璧じゃないんですよね。それぞれに、苦手なこともある。お弁当作るのが苦手、料理が苦手、子どもを愛することが苦手」
私はそっとつぶやいた。心の奥に閉じ込めていた言葉だった。
「そうなんですよね。親も苦手なことあるんだよなぁって。でも、その時、その時、できることを一生懸命やってくれていた。
大人になって、そんなこと思うようになりましたよ」
卓人さんは私に小さく笑いかけてくれた。
長い間、母に心を閉ざして、母を責める気持ちが強かった。でも、私は母も「ひとりの人」だったと思い始めている。
ふと空気がやわらかく、静かになったとき、卓人さんが言った。


「僕、さっき、ラーメン食べてて思ったんだよね。母親が事故に遭って、意識戻ってなくても、自分は腹がへるんだなって」
さっきまでの笑顔はなく、卓人さんはちょっとつらそうな顔をしていた。

「誰かが作ってくれた、温かいものを食べたいって思ってさ。そしたら亜由美さんがここに連れてきてくれて、シンちゃんのラーメン久しぶりに食べられて。美味しくって、お腹があったかくなって、なんだかホッとしたんだ」
卓人さんは、少しだけ目を潤ませながら話し続けた。
「それで、餃子を食べたら美味いって感じて。
シンちゃんと、亜由美さんと話して、笑ってた。
でも……母さんは意識が戻ってないのに。
俺だけ、あったかい美味いもん食べて、話して笑って。そうしてしまった自分が、すごい冷たい息子に思えてきて……」
シンさんが、静かに、そして強い口調で話し始めた。
「タク、冷たいん違うで。それは、タクが今、生きてるっていうことや。
俺らの人生は、親が元気でも、そうでなくても関係なく、生きている限り続いていく。……オレ、うまいこと言えんけど、そう思うねん」
そうなんだ。
人は食べて生きる。
どんなときでも、それを続けていくことは、罪じゃない。
卓人さんがそっと目を拭ったのを、シンさんも私も、見ないようにしていた。


「そやけど、タク、お前全然大阪弁出てへんなぁ。すっかり標準語になってしもて」
シンさんが明るく卓人さんに言った。
「シンちゃんが標準語喋れなさすぎるんだよ。中目黒にオフィス構えてる社長が、そんなコッテコテの大阪弁話すって、ありえないよ」
「それがええんや。ギャップってやつや」
ふたりが笑っていると、卓人さんのスマホが鳴った。
一瞬ドキッとして緊張が走った。
「はい……」電話にでた卓人さんをじっと見る。
「よかった。すぐ戻ります!」
卓人さんが笑顔で私とシンさんを見た。
彩子さんの意識が戻ったという連絡だった。
彩子さんが、またこのオフィスに、このキッチンに戻ってきてくれる——そんな思いが、胸の奥にじんわり広がった。

<第四話に続く>


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わたなべ ますみ 美味しいはしあわせ「うまうまごはん研究家」わたなべますみです。毎日食べても食べ飽きないおばんざい、おかんのごはん、季節の野菜をつかったごはん、そしてスパイスを使ったカレーやインド料理を日々作りつつ、さらなるうまうまを目指しております。