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今夜オフィスでごはんを食べよう 第四話 おむすびと再会の夜

8月になって、朝からうだるような暑い日が続いていた。駅から結までの道を歩くだけで、汗が背中を伝って流れる。
「おはよう。今日も朝から暑いなあ」
ラウンジをのぞくと、シンさんがアイスコーヒーを淹れていた。
「おはようございます。シンさん、彩子さんの具合どうなんですか?」
「うーん。連絡はしてるんやけどな」
シンさんはうつむいたまま、静かに答えた。
彩子さんが結に来なくなって、もう3ヶ月になろうとしていた。ジャーっという勢いのいいフライパンの音、ふわっと立つ湯気、みんなの弾むような声。彩子さんが来なくなってから、それが消えた。キッチンは、今朝も静かなままだった。

6月、強い雨が降った日。彩子さんが交通事故に遭った。
幸い命に別状はなく、その夜には意識がもどった。足の骨折のため入院していたが、2週間ほどで退院。その後も経過は順調で、松葉づえをついて歩けるまでになっていた。
ただ――
ひとつだけ、彩子さんの身体に後遺症が残った。
事故で頭を打った影響なのか、なにを食べても飲んでも、「以前のように匂いが感じられなくて。なんかぼんやりしているのよ」と言っているらしい。
「病院で脳の精密検査もしてくれたらしいんやけど、原因はわからんそうや。家でごはんは作ってはるらしいけどな」
卓人さんから連絡を受けたシンさんがそう教えてくれた。
あの彩子さんが、匂いを感じられずに台所に立っている。さみしそうな表情で料理をする彩子さんが浮かんできて、胸がぎゅっとなった。
「彩子さん、足が治ったら、またごはん作りに来てくれませんか?」
シンさんは事情を知りながら、何度も彩子さんに声をかけ続けていた。でも、彩子さんの返事はいつも同じだった。
「ごめんね、シンちゃん。まだ料理しても、食べても、匂いがわからなくってね。自信ないのよ」
シンさんはあきらめきれず、もう一度だけと言って彩子さんに連絡したそうだ。
「彩子さん、ごはん作ってほしいって言うてたことは忘れて。でも、退院祝いだけはしたいんや。みんなも彩子さんに会いたがってるし、来てくれへんやろか」
ちょっと考えてみると彩子さんに言われた数日後、シンさんのもとに卓人さんからメッセージがきた。
「彩子さん、来てくれるって! 『みなさんにもご心配かけたし、結さんにお伺いします』って。タクも付き添って来てくれるらしいわ」
シンさんはスマホの画面を見せながら、嬉しそうに言った。
「彩子さんの退院祝いやるで!」
「わあ!」
スタッフみんなの顔がぱあっと華やいだ。みんな、ずっと待っていたのだ。彩子さんが、結に来てくれる日を。
いつのまにか、彩子さんは私たちの仲間になっていた。
きっと、みんなそう思っていたんだろう。
私はみんなの笑顔を見ながら、そう思った。

+++

8月最後の土曜日に、結で彩子さんの退院祝いをすることが決まった。その2週間前の朝、ミーティングの終わりにシンさんが
「彩子さんの退院祝いのことなんやけど……」と話し始めた。
「亜由美ちゃん、彩子さんの退院祝い、亜由美ちゃんがリーダーでやってくれへんか?」
「えっ、リーダー、ですか……?」
前の会社でも、学生時代でも、リーダーなんてやったことがない。少し戸惑いうつむいたけれど、シンさんの目をまっすぐ見直して、私はうなずいた。
「やります。ただ、私がリーダーやるなら、どうしてもやりたいことがあって……」
「へえ、亜由美ちゃんがそんなん言うんめずらしいな。やりたいことってなに?」
シンさんが興味深そうに、私の次の言葉を待っていた。
「みんなで彩子さんのために、お料理作りませんか? 手の込んだものでなくても、彩子さんのことを思いながら作った料理をテーブルに並べる。そんなお祝いにしたいんです」
私たちにごはんを作ってくれた彩子さんに、みんなでごはんを作ってあげたい。それを食べてもらいたい。彩子さんの退院祝いの話を聞いた時から、ずっとやってみたいと思っていた。
「めっちゃええやん!」
というシンさんの声にみんなの拍手がおきて、ちょっと照れくさかった。
「そしたら、ノブとミカちゃん、タケシ、それと……リョウタが中心メンバーってことで。亜由美ちゃんと一緒に準備してな」
「え、僕もですか?」
リョウタくんは社会人2年目。理系出身、まじめで仕事熱心。だが周囲とのコミュニケーションがあまり得意でない、シンさんとは真逆のタイプだった。なんとなく、以前の自分と似たところを彼に見ていて、私は気になっていた。
「料理ってほとんどやったことなくて、どっちかっていうと、苦手というか……正直、あんまり好きじゃないんですけど」
「そやから、やってみたらええんや」
シンさんが笑って、私のほうをチラリと見た。
「苦手や嫌いって思ってたことも、やってみたら意外と好きになるで」
「そうそう。まずは、やってみようよ」
そう声をかけると、リョウタ君は少し考えて言った。
「……亜由美さんがそう言われるなら、やってみようかな……」
その言葉がうれしくて、私は思わず「ありがとう」と返した。

+++

「亜由美ちゃん、買い出し任せてごめんね。明日はちゃんと朝から来て料理するから」
ノブさんとタケシさんは、来週の銀座の百貨店向けプレゼン準備で手一杯だった。
「大丈夫です。明日しっかり働いてもらいますから」
冗談まじりにそう言うと、ノブさんが笑った。
「なんか、亜由美ちゃん、シンさんに似てきたよ」
「ええーひどい。私、シンさんほど無茶ぶりしませんよ」
と笑いながら言ったが、ほんとはちょっと嬉しかった。

仕事を終えた後、私とミカちゃん、リョウタ君の三人で駅前のスーパーへ向かった。夕方の店内は混みあっていて、レジの前には行列ができていた。
「亜由美さん、ニラともやし、取ってきました」
レジに並んだ後で買い忘れていたのに気づき、リョウタ君がすぐに取りに行ってくれたのだった。
「ありがとう。リョウタ君が作ってくれた材料リストのおかげで、思っていたより買い物早く終わったわ」
スタッフ全員と、彩子さんと卓人さん。みんなで17人だが、「余裕持って20人分作っておいて」とシンさんに言われていた。その20人分の料理を準備するのは、メニュー決めと買い出しから始まるんだと、今回リーダーをやって初めて気がついた。
月曜日の昼休み、ミカちゃんとふたりでメニューを見ながら買い物リストを作っていたら、リョウタ君が声をかけてくれた。
「それ、もっと簡単にできるかもしれません。メニューのデータ、僕に送ってもらえますか?」
その日のうちに、きれいに整理された買い物リストがメールで届いた。几帳面なリョウタ君は、調味料の分量まできっちり計算してくれていた。
「いや、僕にとってはそんなたいしたことないので……」
「リョウタ君にとってはそうかもしれないけど、私と亜由美ちゃんにとっては『たいしたこと』なのよ」
ミカちゃんが笑って言うと、リョウタ君はちょっと照れたように、でもうれしそうに笑った。

「これで、全部買ったかな?」
「はい、大丈夫です」
2台のカートに、かごが4つ。かごの中には、きゅうり、ニラ、もやし、ミンチ肉、春巻きの皮、卵。みんなで食べようとすいか1玉、さらにお米も入っていた。
会計を済ませて、三人それぞれ両手に袋をぶら下げて、会社までの道を歩き始めた。スーパーの袋が、指にだんだん食い込んでくる。でも、不思議とつらいとは思わず、それすらも楽しい。

「メニュー考えるの、楽しかったね」
ミカちゃんに言われて、「そうだね」と答えた。
メニューは、今まで彩子さんが結で作ってくれたもの、そして、私の提案で彩子さんメニューをアレンジしたものを加えた。
「彩子さん、こんなすごい量、買い物してたんですね」
私たちの後ろを歩くリョウタ君が、ぽつりと言った。
「ほんとだよね」
キッチンに立ち料理をするまでに、こんなにいろいろやってくれていたんだ。ひとりだったら、大変だっただろうな。シンさんが、できるだけ買い出しを手伝っていた理由もよくわかった。
シンさんと二人、買い出しから帰ってくると楽しそうに材料をキッチンのカウンターに並べて、「よし、やるか」と料理を始める。そのときの彩子さんの姿が、胸に浮かんでいた。
「だれかのために作る、それを食べてもらうって、すごいことですね」
リョウタ君の言葉に、私はうなずいた。彼のなかに、何かが芽生えた気がした。
「彩子さん、明日喜んでくれるといいね」
ミカちゃんが小さな声で言った。
住宅街の奥まった路地を抜けると、ちょっと斜めった私たちの会社が見えてきた。
明日、彩子さんがここに来る。卓人さんと一緒に。
そう思うと、胸の奥があたたかくなった。

+++

翌日の土曜日、スタッフは全員、朝から結のラウンジに集まった。
「そしたら、オレとノブと……あと二人くらいが春巻きチームやな」
「じゃあ、僕は亜由美ちゃんのチームに入って、中華風サラダとスープだね。野菜切るところからやるよ」
リョウタ君が作ってくれたレシピ一覧は、すでに全員が見られる共有ファイルに入れてあった。おかげでそれぞれが自然に声をかけ合いながら、にぎやかに料理が始まっていた。

「ごはん炊けました!」
リョウタ君が大きな炊飯器を抱えて、ラウンジのテーブルにどんと置いた。炊飯器の蓋を開けると、炊きたてのごはんの香りがふわっと広がった。
「リョウタ君、しゃもじで底から大きく返すように混ぜてね。力いれすぎたら、ごはん粒つぶれるから気をつけて」
リョウタ君は「はい」と返事をすると、ちょっと緊張した面持ちで、私に言われた通り優しく炊き上がったごはんを混ぜた。
「彩子さんがおんなじこと言うてたよな」
そうだった。彩子さんがシンさんにそう言って、シンさんが炊きたてごはんを混ぜていたのを思い出した。
「あゆみちゃん、おむすびに使うお水と塩、これくらい用意すればいいかな」
ミカちゃんが水を入れたマグカップを数個並べ、塩もいくつかの小皿に入れていた。
「それだけあれば、十分です。ありがとうございます」
春巻きも他の料理もひと段落したタイミングで、全員でテーブルを囲んだ。

「おむすびは、かたちも大きさも自由に作ってください。中にいれる具も、みなさんがふだん食べているもの、好きなものを当日持ってきてください」
数日前、私は朝のミーティングでそう伝えた。料理が得意な人も、そうでない人も、みんなでなにか作れたらと思って、おむすびを提案した。具はひとり1種類ずつ、当日持ってきてもらうようにお願いしたら、みんな快く引き受けてくれた。

みんなの前には、それぞれが持ってきた具が並んでいた。塩サケをほぐしたもの、塩昆布、鰹節を醤油で和えたもの、ツナとマヨネーズを和えたもの。

「今年、初めて仕込んだ梅干し、持ってきたよ」
ミカちゃんが、赤い梅干しを小皿にそっとのせた。その梅は、ノブさんと私が小田原の柏本さんから分けてもらったものだった。
「熟しすぎて売り物にはならないんだよ。よかったら持って帰って」
そう言われて渡された梅は、甘い香りを放っていた。結に持ち帰り、ノブさんと、「どうしようか、ジュースにでもしようか」と話していたら、ミカちゃんから「よかったら、その梅、私が梅干しにしてもいいですか?」と言われた。
「母から簡単にできる梅干しの作り方教わったから、やってみたいんです」と言うミカちゃんに、完熟梅を全部預けた。
「できあがったら、会社に持ってきますね」
その言葉通り、真っ赤な梅干しがテーブルの上に置かれていた。
「母に教わった通り、塩と梅だけで漬けました。市販のものよりしょっぱくて酸っぱくて、子どもの頃は苦手だったんですけど……初めてこの梅干しを美味しいって思ったんです。それに、自分でつくると、なんだか愛着わくというか」
ミカちゃんが照れくさそうに笑った。
「この梅干しが入ったおむすび、絶対美味しいよね」
ミカちゃんを囲んで、みんなが口々にそう言っていた。

テーブルのあちこちで、ごはんを茶碗によそい、具材を包む手が動き始めていた。タケシさんの前には、立派な明太子が小鉢に盛られていた。
「会社でおむすび作るって実家の母に話したら、送ってきたんですよ」
少し照れながら、でもどこか誇らしげにタケシさんが言った。
久しぶりに楽しげな空気と料理の匂いが、ラウンジの中にふわっと広がっていく。

シンさんの前には、透明なプラスチック容器に入ったから揚げがあった。
「シンさん、それ、おむすびの具ですか? ビールのつまみなんじゃないですか」
ノブさんが冗談まじりにつっこんだ。
「これは、オレの思い出のおむすびの具や」
そう言って、シンさんが私に目配せをした。
あの夜、卓人さんと3人でラーメンと餃子を食べた夜を思い出した。
「僕、保育所通ってた頃おむすび弁当の日ってのがあったんです。先生から『具はなんでもいい』って言われて、僕が好きだったから揚げの入ったおむすび、母が毎回つくってくれました。懐かしいなあ」
リョウタ君が言うと、
「リョウタもから揚げおむすび食べてたんか! ほな、一緒に作ろうや」
シンさんがそう声をかけた。
おむすびの具、ひとつひとつにも、みんなの思い出や、人柄が表れていた。久しぶりに、ラウンジとキッチンに笑い声とごはんの匂いが満ちていた。ごはんを作って、誰かを待つ時間ってこんなにあたたかいんだ。私は思わず手を止めて、目の前の光景を眺めていた。

にぎやかにおにぎりを作っていたそのとき、ラウンジのドアがすっと開いた。
「お久しぶりです」
ドアの向こうに立っていたのは、卓人さんと、穏やかに微笑む彩子さんだった。

+++

「おかえりなさい!」
「彩子さん、足大丈夫ですか?」
「まずは、座りましょう」
「あ、隣の方は息子さんですか?」
みんなが次々と声をかけ、彩子さんのまわりに集まった。彩子さんは松葉杖をつきながら、ゆっくりとラウンジに入ってきた。
私は、テーブルの前から動けずにいた。まっすぐ立ったまま、彩子さんを見つめていた。
――ほんとうに、来てくれたんだ。よかった。

「彩子さん、来てくれてありがとう。タクも、付き添いありがとうな」
シンさんの声に彩子さんがゆっくり顔を上げ、うなずいた。
「初めまして。瀬戸卓人です。このたびは、母が……ご心配とご迷惑をおかけしました」
彩子さんのとなりに立っていた卓人さんが、深々と頭を下げ、私たちもみな二人に頭を下げた。初めて病院で会って、シンさんと三人でラーメンを食べた夜より、ずっと柔らかい表情だった。目が合うと、卓人さんが小さく微笑みかけてくれた。
「タクも、いっぱい食べていってな」
シンさんが卓人さんの肩にそっと手を置いた。
「シンちゃん、いろいろありがとう」
卓人さんが小さな声でつぶやくのが聞こえた。

+++

「すごいわね。これ、みんなで作ったの?」
テーブルの上に並ぶ料理を見て、彩子さんが声をあげた。
「彩子さんが私たちに作ってくれた料理ですよ。みんなで彩子さんの料理を思い出しながら作りました。少しだけアレンジもしてますけど」
私が答えると、彩子さんは春巻きが山高く積まれた皿をじっと見ていた。
「これは……私の春巻き?」
「そうそう! 彩子さんの春巻きや。亜由美ちゃんが作り方覚えててくれたんや。巻くのはみんなで頑張ったで」
シンさんがそう言いながら、彩子さんのお皿に春巻きを1本置いた。彩子さんが口に入れると、サクッと軽やかな音がした。
「ごめんね。ニラの香りはわからないんだけど、でも美味しい。上手に揚がってるわ」
みんなは緊張しながら見ていたが、彩子さんの笑顔を見て、ほっとした空気が広がった。
「誰かが作ってくれた、自分の春巻き。そんなの食べるの初めてよ」
彩子さんは嬉しそうに、春巻きをほおばっていた。

「この春雨サラダ、夏らしくてきれいね」
彩子さんがそう言ってくれたのは、私が提案してつくった料理だった。涼し気なガラスの器に、茹でた春雨をたっぷり入れて、上には薄焼き卵とキュウリ、そしてきくらげを細切りしたものを乗せた。
「はい。彩子さんが作ってくれた、きくらげときゅうりの中華和え。あのとき私、初めてきくらげ食べられたんです。彩子さんの甘酢が祖母の春雨サラダの味と似ている気がして、思い出しながら作ってみました」
なんだか、祖母の料理を彩子さんに届けられたような気がして、胸があたたかくなった。
「亜由美さん、きくらげ嫌いって言ってたのにね」
「はい。でも、彩子さんのきくらげ料理を食べた後、ノブさんと小田原に行って、生産者さんの話を聞いたんです。そうしたら、自分でも、料理してみたいって、自然に思えたんです」
彩子さんは、やさしく微笑みながら私の話を聞いてくれていた。

+++

「こんなにたくさんおむすびも! なんだか見ているだけで楽しくなるわね」
彩子さんが大きな皿にのせたみんなのおむすびを見て、楽しそうに笑っていた。
「おむすび、みんなで握ったんです。大きさも形もばらばらですけど、でも、それがいいよねって」
並んだおむすびは、まるいもの、三角、俵型と、かたちも大きさもさまざまで、なんともにぎやかだ。

おむすびを見ていると、誰が握ったのかが自然とわかる。
子どもがひとくちで食べられるような小さなおむすびは、ノブさん。ころんと3つ並んでいた。
「最近、息子の朝ごはん、僕が用意することにしたんだ。おむすびだと食べるんだよね。いつものクセで小さくしちゃった」
息子さんのことを話すノブさんは、いつもよりさらにやさしい顔になっていた。

「あら、これ自家製の梅干しよね」
彩子さんが、小皿に残っていたミカちゃんの梅干しを見つけた。
「はい。ノブさんと亜由美さんが小田原の生産者さんからもらった梅を、母から教わった仕込み方で梅干しにしたんです。
密封できる保存袋に梅とお塩入れて、しっかり空気抜いたら、カビずにできました。初めてだったんですけど」
ミカちゃんが少し照れながら話すと、彩子さんが「とってもきれいにできてるわ」とうなずいた。

私はタケシさんがつくった明太子のおむすびを手に取った。
力強くぎゅっと三角に握られたおむすび。ひとくち食べると、ピリッと辛いプチプチの明太子がたっぷり入っていた。
「タケシさん、この明太子おむすび、とってもおいしいです」
そう言うと、タケシさんは嬉しそうに笑って「ありがとう。母にも伝えておくよ」と言った。

「このから揚げが入ったの、シンちゃんだよね」
卓人さんが、大きなから揚げが入ったおむすびを皿に乗せた。
「オレと、あっちにおるリョウタが作ったんや」
シンさんが笑いながら目線を向けると、向こう側にいたリョウタくんがちょこんと頭を下げた。
「シンちゃんのラーメンも美味しいけど、このから揚げおむすびも美味しいね」
「このから揚げ、美味いやろ。最近よう行く、駅前の商店街にある惣菜屋さんで買うたんや。店のひとと仲良うなってな。来年、商店街の祭りに出店させてもらおかな思ってるねん」
「結で、あの駅前の祭りに出店するんですか?」
ノブさんが、ちょっと驚いて言った。
「そうやねん。遠方の生産者さんとの仕事も大事やけど、地元で縁をつないでいくのも大事や思てな」
その言葉に、私は頷いた。料理すること、そして食べることは、遠くの誰かとも、すぐそばにいる人とも、自分をつなげてくれる。そんな気がした。

「全員バラバラのおむすび。なんだか、うちの会社みたいですね」
リョウタくんがぽつりと言った。
「そうだね」私は笑って応えた。
「でも。バラバラだけど、一つの皿にのっていて。なんか、いいですね」
リョウタ君がおむすびを見つめながら、つぶやいた。

「私、亜由美さんのおむすび食べてみたいな」
松葉杖をついた彩子さんが、いつの間にか私の隣に立っていた。
大きな皿のすみに置いた、私が握った丸いおむすびを手に取り、彩子さんにそっと手渡した。
「これです」
「ありがとう」
彩子さんは両手で大事そうにおむすびを持って、口に運んだ。
「……美味しいわあ。ごはんがほろっと口の中でほどける。やさしいおむすびね」
そういって、目を細めて笑った。
「これ、ほんとに美味しいわ。どうやって握ったの?」
「……祖母と母がやってたの、見て覚えてたんです」
私がそう言うと、彩子さんが私をじっと見つめて言った。
「亜由美さん、よかったら教えてくれない?」
彩子さんに私が教えるなんて。ためらいと、恥ずかしさと、でもそれ以上に、うれしさが自分のなかで広がった。こんな機会、もうないかもしれない。
「じゃあ、用意しますね」
私は、そっと立ち上がり、キッチンへ向かった。
まな板を取り、軽く濡らして、そのまな板をテーブルのすみに座っている彩子さんの前に置いた。
軽く水で濡らした茶碗にふんわりとごはんをよそい、ひっくりかえしてぽんっとまな板の上に置く。ごはんのまんなかを軽くへこませて、うめぼしをちぎったものを乗せた。
「へえ。いきなり手にごはんとって握るんじゃないんだね」
いつの間にか、ミカちゃんと女性スタッフたち、そしてリョウタくんも近くに来て、興味津々の顔でのぞき込んでいた。
「こうすると、熱いごはんでも握りやすくなるんです」
「いいね。子どものおむすび、いつもラップにご飯のせてつくってたけど、これなら手で握れるね」
ノブさんも熱心に、私の手元をみてくれていた。
水を手に取り、軽く湿らせる。右手の三本の指先に塩をつけて、左手にこすり合わせ、両手のひらに塩をなじませる。
まな板に置いたごはんをそっとすくい、やさしく包みこむように握る。
「うちは、ぎゅっと強くにぎらないんです。ふんわり、やさしく。空気が入るように、まとめるような感じで」
彩子さんとみんなに説明しながら、私は祖母の声を思い出していた。
――おむすびはね、ごはんを手のひらでやさしく包んであげるのよ。ぎゅっと握ったら、お米が息できなくなっちゃうからね。
「祖母はこの丸いかたちのまま海苔を巻いてくれて、母は『食べやすいから」って言って、三角にしていました」
「これ、食べてもいい?」
ミカちゃんが遠慮がちに聞いてきて、私はにっこりうなづいた。「どうぞ!」
おむすびを渡すと、ミカちゃんがひとくちかじって、ぱっと顔を輝かせた。
「ええー。美味しい。おんなじごはんと水と塩で作ったのに、私のよりずっと美味しい……」
その大きな声に、私と彩子さんは思わず顔を見合わせて、笑ってしまった。

「おむすび、亜由美さんのお母さんもおばあさんも、この作り方だったの?」
後片付けが終わり、みんなでシンさんが切ってくれたスイカを食べていると、彩子さんが話しかけてくれた。
「はい。母も祖母も同じ作り方で……」
そう答えかけたが、私の口からは違う言葉が出てきた。
「……遠足の朝、母はいつもおむすびを作ってくれて。朝ごはん用に多めに握ってくれるのが、すごく嬉しかったんです。中身が何か楽しみだったけど……私は、なにも入っていない塩むすびが、一番好きだったんです」
そう言ったとき、胸の奥がきゅっと熱くなった。
「母は、料理があんまり得意じゃなかったし、上手じゃなかったけど、おむすびだけは、ほんとに美味しかったんです」
彩子さんが、やさしいまなざしで私を見つめていた。何も言わず、静かに。私は自分の気持ちを受けとめてもらえたような、そんな気持ちになった。

「どれだけ手をかけたごはんを食べさせてきたかって、それだけが親として大事なわけじゃないのね」
彩子さんが、ぽつりとつぶやいた。
「誰かが自分に作ってくれている。その後ろ姿を、子どもってちゃんと見てるのよ。覚えているのよね」
台所に立つ、母の背中を思い出した。リズミカルに手を動かして、おむすびを作っていた姿。
そうか。
母は、私のために、たしかに手を動かして、作ってくれていたんだ。
その記憶の風景が、ぽっと火がともるように胸に浮かんだ。
ふと、視線を感じて振り返ると、シンさんがいた。
「彩子さん」
それは、やわらかく、あたたかい声だった。
「またここで、彩子さんのごはん、作ってくれへんかな? 無理のない範囲で、2か月に1回だけでも。彩子さんの体調を優先してくれていいから」
彩子さんからすっと笑顔が消え、うつむいた。ほんとうは、やりたい。けれど、こわい。前のようにはできないかもしれない。
彩子さんの心が少し見えた気がした。そんな彩子さんに、強い声で私は言った。

「……私が、私たちが手伝います」

彩子さん、シンさん、みんなが一斉に私を見ていた。
「私、彩子さんと料理したから、彩子さんのごはんを食べたから変われたんだと思います」
ぎゅっと手を握り、小さく息を吐いて、話続けた。
「彩子さんの料理には、人を安心させる力があります。美味しいだけじゃなくて、食べた人の心がふっとほどけるような……そんな力があるんです」
言葉にしながら、胸の奥に静かに強く灯るものを感じた。そうだ。あの料理が、私の心をやわらかくしてくれたんだ。

「不安なことがあったら、私たちでサポートします。生産者さんとつながっていくうえでも、自分たちで料理して食べることって、やっぱり大切だと思うんです。
だから――彩子さんの料理で、いろいろ教えてください。私たちに」
その言葉に、彩子さんはしばらく考えたあと、うなずいた。
「……前みたいにたくさんは作れないし、匂いも感じられない。それでも、匂いがしない世界でも、感じられるもの、味わえるものが、まだたくさんあるのよね」
彩子さんがそう言うと、少しだけ笑って、みんなの顔を順に見た。
「うん、決めた」という彩子さんの小さな声が聞こえた気がした。「以前の私とは違う、今の私ができるところから、始めてみようかな。みなさんにたくさん助けてもらうけれど。それでもいいですか?」
みんなが静かにうなずいた。誰もが同じ気持ちでいた。
離れたところでそのやりとりを見ていた卓人さんが、深く頭を下げていた。

+++

その日の夜、早めにベッドに入ったが、なかなか寝付けずにいた。部屋の白い天井を見ながら、彩子さんの退院祝いを思い返していた。
「いい日だったなあ」
彩子さんの声、みんなの笑顔、笑い声が戻ってきた結のキッチン。それらを思い浮かべているうちに、いつのまにかすーっと意識が遠のいていた。眠っているのか、起きているのか。その間を静かに漂っていた。

目は閉じていたのに、部屋の中に誰かの気配を感じた。
母だ。母が私の部屋にいた。
夢だとわかりながらも、久しぶりに会うことに少し緊張した。

「ちょっと、亜由美! 母の思い出の料理が『塩むすび』って、ひどくない? 私、他にもいろいろ作ってたでしょ?」
母は、夢の中でも母のままだった。自分が言いたいことを、言いたいと思ったときに言う。
「他にもいろいろって、そんなにレパートリーなかったじゃん。それに、お母さんの塩むすびが美味しかったのは、ほんとだもん」
あのころと違い、私も母に思ったことが言えるようになっていた。
「あんたのおばあちゃん、私の母さんは、料理が上手すぎたのよ。近所の人にも、しょっちゅうおすそわけしてさ。『優美ちゃんのお母さんは、お料理上手でいいわね』ってよく言われたわよ」
母がちょっとすねたような口調で言った。
「私、学生時代は勉強頑張って、社会人になってからは仕事一筋だったのに、『あんたは勉強も仕事もできるみたいだけど、料理は上手くならないわねえ』って最後まで言われたわ」
そうか。お母さん、おばあちゃんに褒めてほしかったんだね。よくできたねって。がんばったねって。
夢の中でそう思った私は、「でもさ」と自分の思いを話し始めた。
「お母さんだって、私の味噌汁とか、おかずとか、ぜんぜん褒めてくれなかったよね……」
そうか。母も、私も、同じだった。
ただ褒めてほしかったんだ。お母さんに。
きっと、どんなに大人になっても、『お母さん』の前では、私も、母も、ずっと『子ども』のままなんだ。
そう思った後、私はずっと母に言いたくて、でも言えなかったことを、思い切って口にした。

「お母さん、私がきくらげ苦手だって知らなかったでしょ? お母さんの春巻き食べられなかったとき、ものすごく怒られて。私、けっこうつらかったんだから」
母は少しだけ黙って、目線を落とした。夢の中なのに、そのまなざしは、現実よりもずっとはっきりしていた。
言い訳でも、怒りでもない言葉を母はこぼした。
「亜由美はさ、小学生の頃から、お父さんに会いに行く日曜日は、朝から本当に楽しそうで。
でも帰ってくると、いっつも『寂しい』って泣いてたのよ。
私は、働いて、あんたを育てるのに必死で、毎日があっという間に過ぎていってた。
でも、月に一度、お父さんに会う日を楽しみにして、そして夜には寂しいって泣かれて……。
この子は父親のほうが好きなんだろうかって、私、ずいぶん傷ついてたのよ。
……まぁ、それが、あの時一気に吹き出しちゃったのよね。
あんたが春巻きを口から出したとき、抑えていた寂しさも怒りも、どっと出てしまったの。
悪かったわ。こんなこと、生きてたときは恥ずかしくて、とて言えなかったけどね」
初めて聞いた母の言葉だった。
「もういいよ。お母さんの気持ちもわかったし」
自分がそう言ったとき、目が覚めた。
しんと静かな部屋は、誰もいなかった。でも、確かに母が来ていた、そんな気がした。胸の奥がじんわりとあたたかかった。

今日は母の三回忌だ。
母がまだ、この部屋にいるような気がした。

+++

8月最後の日曜日。午前10時の桜木町駅は、すでに観光客であふれていて、その熱気にくらくらしそうになった。改札口を出ると、浴衣姿の若いカップルと、ベビーカーを押す家族連れの向こうに、背の高い、すっかり白髪頭になった父がいた。
「久しぶりだな。元気だったか」
「うん。お父さんも元気そうだね」
「ああ。ちょっと夏バテしてたけどな。それにしてもお前は、いっつもぎりぎりだなあ。会社遅刻せずに行ってるのか?」
几帳面な父は、いつも待ち合わせの15分前には来ている。父の変わらない様子に少しほっとしたが、その背中は少しだけ丸くなった気がした。
「私、始業の1時間近く前には会社に着いてるんだから」
「へえー。社会人生活重ねると、変わるもんだな。……じゃ、行こうか」
父と私は、観光客でにぎわう海側とは逆方向に歩き出した。アスファルトの照り返しと、じっとり身体にまとわりつく湿気に、汗が流れる。父に歩幅を合わせながら、汗を拭きつつゆっくり歩く。父と並んで歩いていると、すこしずつ胸の奥がやわらいでいく。
車やバスが行き交う大通りを抜け、坂道を上がる。坂の上には、小さなお寺と、母と祖父母のお墓がある。
父と並んでこの坂を上がるのは、いつ以来だろう。
坂の上からふっと風が吹いてきた。ほんの少し、空気が軽くなったのを感じた。

「お父さん、今日、中華街のあのお店、久しぶりに行こうよ。春巻き食べたいんだ」
息を切らしながら坂を上る父の頭上に、私はそっと日傘をかけた。
「いいけど。亜由美、またきくらげ、父さんの皿に入れるんだろ?」
私は立ち止まって、スマホを取り出し、写真フォルダから昨日作った春雨サラダの写真を父に見せた。
「これ、私が作ったのよ」
「え? 亜由美、こんなの作れるようになったのか? それに、きくらげがのってるじゃないか! 作れるだけじゃなくて、きくらげも食べられるようになったのか?」
黙って笑う私に、父は少し遠くを見ながらつぶやいた。
「そうか。よかったな」
うれしそうに、安心したように父が私を見つめていた。

あの春巻きを食べながら、私は父に話そうと思う。結で働いてきた日々のこと、彩子さんのこと。そして自分が少しずつ変わっていった時間のこと。でも、まずは母のことを。
「お父さん。私ね、今日久しぶりに、お母さんと話したんだ」
驚いた顔で私を見る父にそっと微笑んで、私はまた一歩、坂の上へと踏み出した。

<終わり>


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わたなべ ますみ 美味しいはしあわせ「うまうまごはん研究家」わたなべますみです。毎日食べても食べ飽きないおばんざい、おかんのごはん、季節の野菜をつかったごはん、そしてスパイスを使ったカレーやインド料理を日々作りつつ、さらなるうまうまを目指しております。