今夜オフィスでごはんを食べよう 第二話 春巻きときくらげの過去
5月の連休が終わった。
休みの間、つい夜中まで映画やドラマを観て、昼前に起きる生活が続いていた。出かけたのは近所のスーパーだけ。誰にも会わず、誰とも話さず。でも、それなりに楽しかった。
5日ぶりに駅の改札を抜け、いつものコンビニに寄る。おにぎりを買って、会社へ向かって歩く。身体は動いているのに、気持ちだけがまだ休日のままだった。
始業10分前。なんとかオフィスにたどり着き、PCを立ち上げる。
仕事モードに切り替わるには、もう少し時間がかかりそうだ。
ぼんやりとモニターを眺めていたら、社内チャットにノブさんの投稿が飛び込んできた。
【彩子さんのごはん第2回のお知らせ】
先月のたけのこパーティー、大好評だったので瀬戸彩子さんに今月も来てもらうことになりました!
・費用は一人500円
※ビール、ソフトドリンクは各自持ち込み
・第二金曜の夜開催。参加希望者はこのスレで👍してください
・次回メニュー:彩子さん特製 春巻き!
→ふつうの春巻きとはかなり違うそうです。シンさんイチオシ!詳しくは当日お楽しみに。
投稿のテンションが高すぎて、連休明けの朝からちょっとしんどい。
「春巻きか。これもビールに合うな」
「家で春巻き作らないから、楽しみ! 揚げたてっておいしいんだよね」
あちこちからそんな声が聞こえてくる。
先月のたけのこ料理の日から、オフィスでの雑談が増えた。私はといえば、コーヒーを飲みながらその会話に入るタイミングがつかめず、ただ目の前の画面を見ていた。
——彩子さんのごはんをみんなで食べる。
あの夜シンさんが話していたように、それはきっといいことなのだろう。でも、自分がその中に入っていくには、まだ少し距離がある気がした。
「おはよう。ほな、朝のミーティング始めよか」
連休明けでもいつもと変わらず元気なシンさんの声が、オフィスに響いた。
+++
「きくらげ、って聞いて、正直びっくりしたんですけどね」
出張から戻ってきたノブさんが、手に持った紙袋からごそごそと何かを取り出して、シンさんのデスクに置いた。
ノブさんは、小田原で梅栽培をしている農家さんたちのECサイトを立ち上げることになった。横浜に住むノブさんの知り合いが毎年梅の収穫を手伝っていて、ノブさんのことを紹介してくれたそうだ。
「顔の見えないネット販売は…」と最初は乗り気でなかったそうだ。でも、ノブさんが繰り返し足を運び、話を聞くうちに、「お願いしてみようか」と前向きになってくれたらしい。
今年の梅の販売に間に合うように、私は早速ノブさんとサイト立ち上げ作業を始めていた。
「梅農家の柏本さんが『このあたり、梅だけでなくて、生きくらげもいいの作ってるんだよ』って言って、生きくらげ食べさせてくれたんですよ」
「え、生きくらげ? おれ、食べたことないわ」
ノブさんは「ね、すごいでしょ?」とでも言いたげな、どこか子どもみたいに誇らしげな顔で、生きくらげのパックを差し出した。
「ぼくも初めて食べたんですけど、これが、美味しかったんですよ。肉厚でぷりっとしていて。今まで食べたきくらげとは別物でした」
「ノブ、でもどうやってその生産者さんと知り合えたんや?」
シンさんは黒きくらげの袋を手にしながら、興味津々の顔でノブさんを見ていた。
「柏本さんからちょっと相談に乗ってほしいひとがいるって言われて、黒きくらげの農家さんにもお会いしてきたんですよ」
ノブさんは、少しだけ誇らしげに、そしてやさしい口調で続けた。
「20年ほど前に栽培を始めて、それから家族でずっとやってるって言われてました。生きくらげは傷みやすいからスーパーには卸せなくって、直売所だけで販売しているそうです。特に宣伝もしていないけど、食べてくれた人が『こんな美味しいきくらべ食べたことない』って毎年リピートしてくれるらしいんですよ。
それで、『うちもECの販路をつくれないかな』って相談されたんです。きくらげってそんなに馴染みあるものでないし、食べ慣れないし、正直ちょっと迷ってたんですけど。
『うちのは食感が全然違うから。とにかくまず食べてみて』って言って、これ持たせてくれたんですよ」
きくらげの袋を手に取るノブさんの指が、とても優しく見えた。
つくったひとの思いも、ノブさんはちゃんと受け取ってきたのだと思った。
ノブさんの手を見ながら、私はなぜか心が揺れた。
ふと、胸の奥にざらつくような記憶が浮かび上がった。
+++
大学を卒業してから5年間、私は大手食品会社の商品開発部で働いていた。主な仕事は、スーパーやコンビニに並ぶ新商品の企画、パッケージデザインを決めて発注をすること。発売が決まると、営業や販促チームと連携しながら、プロモーションに関わる日々だった。
会議室の白い壁のなかで、資料と数字に埋もれながら、コストと売れる味を必死で考えていた。
どこで作られているのか、誰が作っているのか。
そういうことは考えたこともなかったし、知らなくてもよかった。わかりやすく、味だけを評価し、期限までに『商品』に仕上げる。それが考えないといけないこと。そう思っていた。
ある日、私がカップスープの試作に使った国産野菜の話をしたときだった。
「この野菜、産地は気候差大きいみたいで、農家さんが工夫して育ててるみたいですね」
別の部署にいる同期に聞いた話を、なんとなく口にした。
どんな人が、どんなふうに育てたのか。インスタント用に加工された状態でも、それを思うと、ちょっと特別なものに感じられた。
「そんなことまで考えてたら、商品なんて回らないよ」
そのときの先輩の反応は、驚くほど冷ややかだった。
「ライバル社もどんどん新商品出してくるんだから。『誰が』じゃなくて、『売れるかどうか』が一番でしょ。それより、先週頼んでた企画、早く上げてくれないかな。無駄に感情持ち込まれると、進まないんだよね」
先輩が大きくため息をつきながら、また書類に視線を戻した。
まるで、私だけが場違いだと突きつけられたようだった。
あのときの声が、今も耳の奥に残っている。
あの頃は、それが『正解』なんだと思っていた。商品として成功させることがすべて。それ以外のものは、効率を下げるもの。感情は余計だ、と。
でも、本当はあのときから、心のどこかがざわついていたのかもしれない。
自分たちがつくった商品の奥にいる『誰か』を思い描けないことに、小さな違和感を抱え始めた。
転職を意識し始めたのは、たぶんあの頃だった。
『誰が』じゃなくて、『売れるかどうか』が一番。
この会社には、それとは違うものがある。
作っている人の顔が見えること。誰かの思いをちゃんと聞こうとしている人たちがいること。
きっと私は、そういう空気のなかで働きたかったんだ。
そう思えるようになったのに、なぜかまだ、そのあたたかさの中に、自分の居場所が見つからない。
シンさんのデスクを囲んで、笑い声や雑談が心地よく響いていた。気づけば、私はいつも少し離れた場所から眺めているだけだった。
「亜由美ちゃんも見てみない?」
ノブさんのひと言に押されたように、私はゆっくり椅子から立ち上がり、シンさんの机へと歩み寄った。
肉厚でぷるぷるした生きくらげと、固く小さくなって、くるんと丸まった乾燥きくらげが並んでいた。生のきくらげを見たのは初めてだった。
「生きくらげか。乾燥させると、こんなにちっちゃいのに。生やと肉厚でおっきいもんやな」
シンさんが袋をのぞき込みながら言う。
「なんか、こういうの、いいですね」
気づけば、口に出していた。
ノブさんがちらりと私を見た。
「ん? こういうの?」
「はい。農家さんの話。顔が見えるっていうか。誰がつくったか、とか、そのひとの背景や思い。そういうのがわかるって、なんか、いいなって思いました」
私はそう言ってから、少しだけ照れくさくなって、テーブルに置かれたきくらげの袋に目を落とした。
「僕も、そう思ったよ」
ノブさんはやわらかく笑って言った。
「農家さんもね、作り始めたものの、最初はキクラゲの性質がわからなくて、失敗重なって、もうやめようかと思ったそうだよ。
でも、生のきくらげってなかなか食べられないし、生産者も少ない。そんな状況のなかで、もし自分たちがうまい生きくらげ作れたら、『それ、最高じゃん!』って思ったんだって。
それで『もうちょっとだけ頑張るか』ってあきらめずに作ったのが、このきくらげなんだって話してくれてね。
その話聞いてね、売れたらいい、じゃなくて、『ちゃんと届けたい』って思ったんだよね」
ちゃんと届けたい。
ノブさんの言葉が胸にじんわり染みて、聞かれたわけでもないのに、胸の奥に溜めていた何かがほどけて、言葉にしていた。
「私、前の職場では、誰がどんな思いで作っているのかとか、その人たちの背景とかには、あまり目を向けてなかったんです。そういう気持ちの部分は『いらない』って、先輩に言われたこともあって。どこで誰が作っているかより、『売れるかどうか』がすべて、みたいな空気だったから」
こんなこと話すつもりじゃなかったのに。自分でも、少しびっくりしていた。
ノブさんは驚いた様子もなく、うんうんと、ゆっくりうなずいた。
「でも、それは亜由美ちゃんにとってすごく大事な経験だったと思うよ。大手にいたからこそ見える世界、できた経験もきっとある。
でも、うちみたいな小さな会社にいる今だからこそ、見えるものもあるよね。
亜由美ちゃんのアンテナ、今は『誰が、どんな思いで作ってるか』ってところに向き始めている。僕は、そういうふうに変わっていけるのって、すごくいいことだと思うな」
ノブさんの言葉が、まっすぐ私の心に届いた。
それまで気づいていなかったけれど、私はいま、『誰がつくっているのか』『どんな思いでつくられているのか』が、気になり始めている。
小さな変化が、自分のなかに静かに育ちはじめていた気がした。
きっとそれは、この会社で過ごすなかで少しずつ育ったもの。
シンさんの、あのまっすぐすぎる距離の近さに、私はいつの間にか影響されていたのかもしれない。
ノブさんの言葉で、自分のなかにある小さな変化に気づいた。
私の中のすべてが変わったわけじゃない。でも、ほんの少し、心の向きが、変わりはじめている。まだ不確かだけど、何かが動き出している。そんな気がした。
+++
「来週の彩子さんのごはん、春巻きだったよね。頼んで、きくらげ入れてもらおっか」
背後でそんな声がして、私ははっと顔を上げた。
いつのまにか、シンさんのデスクまわりに数人集まって、ちょっとした打ち合わせが始まっていた。
瀬戸さんの料理は、どれも本当に美味しい。
ノブさんが話していた生産者のことも、心に残っている。
けれど。「春巻きに入れてもらおうか」という声が聞こえた瞬間、胸の奥がきゅっとなった。ふと古い記憶が顔を出しそうになる。
「あれ? 亜由美ちゃん、きくらげ苦手?」
私のうかない顔に気づいたノブさんが、少し首をかしげた。
「はい。ノブさんから農家さんの話をお聞きしても、やっぱり、あの、子どもの頃に、ちょっと……」
そう答えながら、その奥にはずっと見ないようにしてきた記憶と、そこに紐づいた感情が隠れていることに気づいていた。
「そうやんなあ。あの黒い見た目と、ゴムみたいな食感。苦手な人も多いよなあ。俺も子どものころから食べられへんねん」
シンさんが笑って言った。
「いやいや、食べたらわかりますって。ぜんっぜん違いますから」
ノブさんが、ちょっと前のめりに言う。
「食感がぷるぷるで、でもコリコリしてて。うまく言えないけど、生のきくらげ、めっちゃ美味しいんですよ」
その言い方がまっすぐすぎて。誰かのために本当に「いい」と思ったものを届けたいという、ノブさんの気持ちがにじんでいて、私は少しだけ、うつむいてしまった。
「彩子さんの春巻きは、うちのおかんのと一緒で、たけのこもきくらげも入ってへんで」
シンさんの言葉を聞いて、「え?」と声を出して顔を上げた。シンさんと目が合った。「大丈夫やで」と言っているような表情を見て、少しホッとした。
「そうなんですね。うちはたぶん入ってたなあ。でもまあ、きくらげは別の料理にまわせばいいか」
ノブさんがそう言いながら、デスクに置いてあったきくらげのサンプルを片付け始めた。
それぞれが自分の席に戻り、オフィスに静けさが戻った。
きくらげが苦手な理由は、味や食感だけじゃない。
ふいに浮かぶのは、子どものころに食べた春巻きの記憶。
そして、そのときに感じた、うまく言葉にできないようなさみしさ。
ただの好き嫌いだけじゃない。自分でも説明できない感情が、胸の奥でうごめく。
私は画面を開き、深く息を吸い、キーボードに手を置いた。
今の仕事に、自分をゆっくり戻していくように。
+++
「亜由美ちゃん、悪いけど今日もちょっと早めに仕事終えて、彩子さんの手伝い一緒にやってくれへんかな?」
瀬戸さんが来る日の昼休み、デスクでランチを食べていると、シンさんに声をかけられた。瀬戸さんが料理するのをまた隣で見たいと思っていた私は了解して、5時過ぎにパソコンの電源を落とした。
1階のラウンジに行くと、キッチンでは瀬戸さんとシンさんが春巻き作りの真っ最中だった。大きなボウルには、豚ミンチが山になって入っている。
「お、亜由美ちゃん、来たか。そこのニラ、洗って切っといてくれるか?」
シンさんはシンクでもやしを洗いながら、私に言った。
「さすがに15人分やと、すごい量ねえ。シンちゃん、そのもやし、このザルに入れておいて。全部春巻きに使うと余りそうだから、ちょっと茹でてナムルにしようかな」
瀬戸さんは、ぐつぐつ湯が沸いた鍋にもやしをひとつかみ入れた。
私は2袋のニラを洗ってまな板に乗せた。
「あの、ニラってどれくらいの長さに切ったらいいですか?」
「そうね。細かすぎず、長すぎずがいいから……2センチくらいかな」
2センチってどれくらいだっけ? 包丁を握ったまま迷っていたら、瀬戸さんが隣に来て、少し切ってくれた。
「きっちりでなくて大丈夫よ。こんな感じ」
瀬戸さんが切ったものを見本にして、ざくざくとニラを切っていく。やわらかい。ふわっと香りが立つ。
「今日のニラ、いいわね」
「はい。やわらかくて、香りもすごくいいです」
いつの間にか、自然と会話が生まれていた。瀬戸さんと料理をしていると、ふと、心の距離が近づく瞬間がある。
瀬戸さんがもやしをざるにあげ、丁寧に湯を切って、ごま油としょうゆを回しかけてナムルに仕上げた。その手つきは迷いがなく、考えるより先に身体が動いているようだ。
「この春巻きね、シンちゃん兄弟が初めてうちで食べたとき、すごく気に入ってくれて。次の日、シンちゃんのお母さんが『作り方教えて』って言って、うちまで来てくれのよ」
春雨を茹でながら瀬戸さんが懐かしそうに話す。
「そうやった。うちのおかん、この春巻き、しょっちゅう作ってくれてなあ」
シンさんが大きな手でもやしと豚ミンチをこねている。
「弟もおとんも好きやったから、毎回20本くらい作ってくれてたわ」
もやしがパキパキ音を立ててミンチのなかに混ざっていく。
「亜由美ちゃん、ニラ入れてくれるか」
シンさんに言われ、切ったニラをざざっとボールに入れた。
さらに、瀬戸さんが3センチほどに切った春雨をボールに入れ、しょうゆとオイスターソースをくるっとまわしかけた。バラバラだった材料が、シンさんが大きな手で混ぜるごとに、ひとつにまとまっていく。
「瀬戸さん、調味料って量らなくても、どれだけ入れたらいいかわかるんですか?」
私がたずねると、ボウルに片栗粉をささっと振り入れて、瀬戸さんはにこっと笑った。
「私、子どもの頃から料理しててね。その頃は軽量スプーンなんて家になかったのよ。母が料理するのをそばで見て、味を覚えて、自分で作るときは『だいたいこれくらいかな』って。そうやって何度もつくっていると、手が覚えるのよね」
その言葉に、祖母の姿が重なった。「手の感覚でわかるのよ」と言いながら、祖母も味をつくっていた。母は、いつもレシピをテーブルに置いて、軽量スプーンをきっちり並べてから料理を始めていた。その風景を思い出して、少し胸が痛くなった。
「よし、巻こうか」
シンさんのひと言に私は思わず手を止めた。
「え、春巻きの具、炒めなくていいんですか?」
春巻きの皮をまな板の上に広げたシンさんは、スプーンで具をすくい、真ん中より少し下にどさっとのせた。その大胆な手つきを見て、思わず聞いていた。
「この春巻きはな、そこがポイントや。そのまま包んで、揚げるだけなんや」
「すごいやろ?」と笑うシンさんの横顔を見ながら、私は祖母の春巻きを思い出していた。炒めた具を冷ましてから包むのが、当たり前だと思っていた。
具を炒めないで包むなんて、ほんとに大丈夫? ――そんな小さな不安を抱えながら、私はおそるおそる皮を手に取り、ひとつめを巻き始めた。
「春巻きって、巻くの難しそうやけど、やってみたら案外簡単にできるで」とシンさんが言うと、キッチンの入口から「え、ぼくもできるかな」と声がした。ノブさんだった。
「お、ノブ、一緒に巻こうや」
手を洗い、どうしたらいいのかまごまごしているノブさんに、シンさんが見本を見せる。
春巻きの皮を一枚とり、ざらざらした面を上にして、角が手前にくるように置く。下から1/3くらいのところに具を置き、ちょっと横長に広げる。手前からひと巻きして、左右を折りこみ、向こう側に巻いて、巻き終わりに水を少しつけて止めれば出来上がり。
「できたー! 意外と簡単なんですね」
そう言うと、ノブさんはもう一枚春巻きの皮を自分の前に置いて、具をのせた。
「うちの妻、在宅で仕事してるんです。子どももまだ小さいし、食事のこともぜんぶ任せっきりで。僕もなにか作れたらって思うんですけど、包丁握ると怒られるんですよ。『キッチン散らかるからやめて』って」
そう言って、ノブさんはちょっとばつが悪そうに笑った。
「でもこれ、具の材料を合わせてこねて、春巻きの皮で包んで、揚げるだけなんですね。僕でもできるかも。みんなで巻くのも楽しいですね。子どもにやらせたら喜ぶかな」
瀬戸さんが嬉しそうに手を止めて言った。
「そうそう、みんなで作るのがいちばん。皮を巻くときに、皮の左右を中に入れ込んでおくのがコツよ。うちも子どもが小さい頃、巻くの楽しみにしてたわ」
「そうだ、これ、彩子さんに渡さないといけなかった」
ノブさんはそう言うと、冷蔵庫からきくらげの袋を出して、彩子さんに見せた。
「彩子さん、農家さんから生きくらげもらったんですけど、これで何か副菜つくってもらえませんか?」
ノブさんの声が、キッチンにやわらかく響いた。
「あら! 生のきくらげなんてめずらしい! きれいな色で、大きくて。ノブさん、いいものいただいたわね。
これは、生きくらげの歯ごたえや味をちゃんと味わってもらえる料理にしないとね……さっと下茹でして細切りにして、ごま油とお酢で和えて中華風酢の物にしようか。キュウリがあったから、それも入れよう。あとは……卵があるからスープにしてみようか」
そのやりとりを聞いて、私はふと手を止めた。
胸の奥に、小さなざわめきが生まれる。
なんでもない会話のはずなのに、思い出すつもりのなかった記憶が、不意に顔を出した。
+++
私の家で、春巻きが食卓にのぼったことがある。
けれど、それはシンさんたちが話すような楽しい思い出ではなかった。
母と私、二人暮らしのマンション。その台所で祖母が毎日作ってくれていた料理は、味噌汁と炒めもの、焼き魚、煮物など、定食屋のような料理だった。
夕方家に帰ると、台所に立つ祖母が「おかえり」と声をかけてくれて、その日の夕食の香りが広がっている。私はその時間が好きだった。
好き嫌いはほとんどない私だったが、きくらげだけは食べられなかった。祖母はそのことをわかってくれていて、春巻きはきくらげを入れずに作ってくれた。
子どもだった私はそれがうれしくて、安心できる味だった。
でも、そんな祖母のやさしい料理も、私が中学2年の冬、食べられなくなった。祖母が亡くなったのだ。
「おかえり」と言ってくれたあの声も、味噌汁や焼き魚の匂いも消えた。
誰もいない家に帰ると、私は米を研ぎ、炊飯器にセットする。冷蔵庫にある野菜を適当に切り、だしパックと一緒に鍋に入れ味噌汁の用意を始める。そのころになって、「ただいま」と、疲れた母が帰ってくる。そんな日々が繰り返されるようになっていった。
祖母と違い、母は料理が得意ではなかった。
新聞から切り抜いたレシピや料理雑誌を見ながら、調味料をきっちり軽量スプーンで量り、鍋やフライパンに入れていた。母がレシピ通りきっちり作った料理は、おいしいが、なぜか食べても気持ちが落ち着かなかった。なんだかよその家のごはんを食べているような気がした。
母が仕事で遅くなる日は、私が作るようになった。
肉と野菜を炒め、市販の合わせ調味料を最後に混ぜた炒め物。切り身の魚にさっと塩をかけて焼いた焼き魚。そうやって、ひとりで作って食べる夕食は、どこか心細かった。
食べることは「とにかく済ませること」になり、食卓には、バラエティ番組の賑やかな音だけが流れていた。それが母と私の食卓だった。
揚げ物は台所が汚れるから嫌がり、春巻きもコロッケもから揚げも、買ってきたものばかりだった。だからこそ、あの日、母が春巻きを作ってくれたことは、今でも鮮明に覚えている。
+++
「あんたが食べたいっていうから、作ったのに」
そう言って、かじりかけの春巻きが乗った皿を乱暴に下げた母の顔を、私はずっと覚えている。
きっかけは、その2週間前の日曜日。私の何気ないひとことだった。
「おばあちゃんの春巻きにそっくりで、美味しかったんだ。あの春巻き、また食べたいな」
中学3年になった春の日曜日。離れて暮らす父と久しぶりに会い、中華街へ行った。その日、父が連れて行ってくれたのは、混みあった大通りを外れたところにある、小さな中華料理屋だった。
「ここな、昔から美味いんだよ」
父が嬉しそうにメニューを眺めていた。
「お母さんとも来たことあるの?」
私がたずねると、「いやいや」と笑って手を振った。
「優美さんは、『中華街で食事するなら、この店じゃないといや』って決めてたからな。いっつも大通りにあるあの有名店に連れていかれたよ」
父は笑っていた。なるほど。母ならそう言うだろうな。
父は店の人を呼び、次々と料理を注文した。コーンスープ、肉まん、小籠包、水餃子、春巻き。私が好きなものばかりだ。
「麻婆豆腐と、あと五目焼きそばね」
その二つは父の好物だった。
料理はどれも美味しかったが、いちばんは春巻きだった。今でもあの美味しさを覚えている。ひと口かじったとき、思わず言葉がもれた。
「あ、これ、おばあちゃんの春巻き!」
「そうだろ? 父さんもこの前久しぶりに食べてな、味も香りも、おばあちゃんのにそっくりだって思ったんだよ」
お父さんも、おばあちゃんの春巻き覚えてたんだ。
それだけのことが、とてもうれしかった。私は少しだけ入っていたきくらげが食べられなくて、父の取り皿にそっとよけた。
「しょうがないなあ」
と笑いながらも、父は食べてくれた。
夕方、マンションに帰るとどこに行ってきたのかと母に聞かれた。「中華街に行ったんだ。小さいけど、美味しい中華料理屋さんに連れてってもらったよ。春巻きがとっても美味しかった。春巻き、また食べたいなあ」
そう言うと、「へー、そうなんだ」と母は興味なさそうに返事した。
「今日、私春巻き作るから」
その翌週の日曜日。朝ごはんのあと、洗い物をしている私に母がふいに言った。
日曜日は買ってきた惣菜か外食が多いので、母のその言葉に驚いた。大丈夫かなあと少し不安に思いながら、レシピを眺める母の姿を見ると素直に嬉しかった。
午後、スーパーから帰ってきた母は、両手に袋を持ち「よし、作るか」と張り切っていた。
「揚げ物は台所汚れるから作らないって言ってたじゃない」
私がそう言うと、母は「亜由美があの人と中華街で春巻き食べた話聞いてから、私も食べたくなったのよ」と返した。
母は手を洗うと、テーブルに置いたレシピを見て、野菜を切り始めた。
母がゆっくりと真剣に野菜を切る横顔を見て、ちょっとうれしくなった。ジャーッと炒める音が聞こえ、ごま油とオイスターソースの香りが広がってきた。私はリビングでテレビを見ながら、出来上がりを待っていた。お母さんの春巻き、どんな味になるんだろう。ちょっと楽しみで、でもどこか、落ち着かなかった。
「できたよ」
母に呼ばれテーブルに着くと、皿に春巻きが山のように盛られていた。少し焦げた色をしていたけれど、香ばしい匂いが広がっていた。
私はわくわくしながらごはんをよそい、味噌汁を注ぎ、取り皿と箸を出した。
「いただきます」
春巻きに箸を伸ばして1本皿に取る。ひと口かじると、サクッといい音がした。とろりとした具は濃いめの味つけだったけど、美味しい。けれど、口の中に広がったコリッとした食感に、私は動揺した。
「あっ……」
反射的に口から出してしまった春巻きを見て、母が目をむいた。
「え、なにそれ? 小さな子でもないのに。せっかく作った春巻き、一口で吐き出すなんて!」
さっきまでの上機嫌が嘘のように、母が私と皿をにらみつけている。
「ちがう。美味しくないんじゃない。きくらげが……」
そう言いたかったのに、母の大きな声とにらみつけるような顔を前にして、何も言えなかった。戸惑いと悲しみが胸を塞ぎ、涙がこぼれてきた。
「あんたが食べたいっていうから、買い物して、時間も手間もかけて作って、慣れない揚げ物もして、がんばったのに」
そういうと母は私の皿を乱暴に片づけた。
「もう二度と春巻きなんて作らない。これなら駅前のデパ地下で買ってきたらよかったわ」
その言葉が、私の胸にずしんと響いた。
「ちがう。お母さんの春巻きがいやなんじゃない。美味しくないんじゃない。きくらげが食べられないの」
でも、うまく言葉にできなかった。
悲しみと戸惑いがいっしょくたになって、ただ黙って泣くことしかできなかった。
今ならわかる。私が「また食べたい」と思ったのは、あの春巻きそのものではなくて、あの時間だったのだ。
祖母と囲んだ食卓。父と笑いながら食べたあの店での時間。
美味しいね、と言い合える、そんな夜を母と過ごしたかったのだ。
あのきくらげ、味噌汁で流し込んでしまえばよかった。そうして「おいしい」って言えば、母も満足して、私もこんな思いもしなくてすんだのかもしれない。
けれど、それはもう遅かった。
目の前で、春巻きをゴミ箱に捨てた母の姿が、心に深く残ってしまった。怒られたことよりも、「わかってもらえない」ことの方がつらかった。そう思ったとき、ふっと、心のなかで何かがすうっと冷めていくのを感じた。
もう母には何も言わない。私が好きなもの、嫌いなもの、楽しかったこと。わかってもらえるって、期待もしない。祖母と囲んだ食卓、父と笑いながら食べた時間――あんなふうに、母とわかり合える日は来ないんだ。14歳だった私はそう思った。
自分の気持ちは、自分で抱えていく。それが、母と暮らすため、これ以上傷つかずにすむ方法なんだと心を閉ざしたのだった。
+++
「亜由美さん?」
瀬戸さんの声に、ハッとした。
手伝いに来たのに、私はキッチンの片隅でただ立ち尽くしていた。
「春巻きね、シンちゃんとノブさんが包んでくれたんだけど、亜由美さんもお願いできる?」
「はい」と言って手を洗い、春巻きの皮を一枚手に取り、まな板に置いた。餡をすくって中央にのせ、角を折り、くるりと巻いていく。巻き終わりは、皮の角を少し水で濡らしてしっかり止める。
母も、こんなふうに包んでくれたのだろうか。
あの春巻きを思い出しながら手を動かすと、胸の奥に、ぴりっとちいさな痛みが走った。
パチパチと油がはぜる音がする。
シンさんが大きなフライパンの前で、次々と包みたての春巻きを揚げていた。
「やっぱり揚げたて、うまいなあ」
1本つまんでパクッと食べながら、シンさんが満足そうに言った。
「シンさん、揚げながら食べるのやめてくださいよ」
ノブさんが笑っている。
「なに言うてんねん、揚げ係の特権や!」
キッチンの空気がぱっと明るくなり、私は思わず笑った。
「亜由美ちゃんも、揚げたて食べてみ」
シンさんに言われ、私は棚から白い小皿を出してシンさんの前に差し出した。こんがりとしたきつね色の春巻きを1本、乗せてもらった。
箸でつまんでみたが、すぐには口に運べなかった。
いくつかの記憶が重なって、少しだけ胸がざわついていた。
でも、思い切って口に入れた瞬間——
カリッという音とともに、私の中の何かが、ふわっとほどけた。
これは、あの日の母の春巻きでも、おばあちゃんのでも、父と食べたものでもない。けれど、いまの私が美味しいと思える、そんな味だった。
「おいしい」
私のつぶやきを聞いて、瀬戸さんが優しく微笑んでくれた。
「そうでしょー。もやしのシャキシャキっとした感じと、ニラの香りがいいのよね。豚ミンチがいっぱいで食べ応えもあるのよ。お醤油とオイスターソースで味付けしてるから、なにもつけなくても美味しいのよね。簡単だけど、冷めても美味しくてね。息子のお弁当のおかずにもよく入れてたわ」
私は瀬戸さんの声にうなずいた。春巻きを大皿に盛りながら、揚げたての香ばしい匂いを吸い込んだ。祖母が台所にいた頃を思い出すように、ふと心がやわらぐのを感じた。
+++
「お疲れ様です!」
「わー。今日もいい匂いだ!」
キッチンにみんなが集まり始めた。壁掛けの時計を見ると、7時を過ぎていた。
炊飯器のふたが開くと、湯気がふわっと立ち上がった。しゃもじを手にしたWEBデザイン担当のタケシさんが、
「今日はおれ、ビールは飲まずに白飯と春巻きにしよう」
と嬉しそうに言いながらごはんを山盛りに盛っている。
「私はビールから」冷蔵庫からビールやペットボトルのお茶を出して並べてくれたのは、いつも明るい広報のミカちゃんだ。
「彩子さん、今日もありがとうございます。いただきます!」
シンさんの声に続いてみんなが「いただきます!」と続いた。なんだか小学校の給食のようだ。みんなの顔も子どものような顔に見えた。
テーブルには、大きな皿に春巻きが高く積まれていた。その横には、きくらげを使った中華風酢の物と、もやしのナムル。きくらげと卵のスープが入った鍋と炊飯器はカウンターに置かれていた。
――春巻きとごはんだけいただこう。私は自分の皿に春巻きを2本乗せた。
春巻きの隣には、細く切った生きくらげをきゅうりと一緒に和えた中華風酢のものが大皿にきれいに盛られていた。酢の物はごま油に酢としょうゆ、すこしだけ砂糖を入れた合わせ酢が、きくらげときゅうりにしっかり馴染んでいる。
中華風スープは、鍋にごま油を入れた後、きくらげを入れてさっと炒め、水と鶏がらスープの素を入れて煮込む。水溶き片栗粉を入れた後、溶き卵を入れて、たまごがふわっとなったら出来上がり。
どちらも瀬戸さんが手早く作り、私は春巻きを巻き終えた後、卵を割ってよく溶いただけ。それでも、瀬戸さんの隣で料理が出来上がるのを見るのは楽しかった。苦手なきくらげが入っていても。
――美味しそう。
酢の物とスープを見て、そう思った自分に驚いた。
今日の朝、ノブさんと生産者さんについて話したからなのか、それとも、瀬戸さんが大事に、楽しそうに、きくらげを料理していたのを見ていたからなのか。
少しだけ食べてみようかな。
私は春巻きの横に、きくらげとキュウリの和え物をひと口分だけ添えて、マグカップに少しだけスープを入れた。
テーブルの隅に座り、いただきます、と小さな声で言って、手を合わせた。
まずは、春巻きから。瀬戸さんが話していた通り、春巻きは少し冷めかけていたが、皮がパリッとしておいしい。白いご飯が合う。今日は私もビールではなく、白ご飯にして正解だった。
ノブさんが「これ、食感いいっすね。やっぱり生のきくらげは乾燥ものとは全然違うな」と言いながらぽりぽり音を立てているのを見て、私はそっと、和え物を口に運んだ。
……あれ?
きくらげは私が思っていたより、ずっとやわらかい。
匂いも、あのとき感じた苦手なものとはまるで違った。
ぽりっとした歯ざわりが気持ちよく、きゅうりと酢のバランスもちょうどいい。
そしてスープのなかのきくらげは、やわらかくてふるふるしていて、卵とよくなじんでいる。
おいしい。
そう感じた自分に驚いた。皿に取った酢の物をきれいに食べて、マグカップのスープも飲み干した。
私、もうきくらげ嫌いじゃないのかもしれない。
私はただ、あのときの記憶ごと、きくらげを遠ざけていただけだったのかもしれない。きくらげだけでなく、母のことも。
今なら、お母さんのことも、あの春巻きの味も、違って感じられるかもしれない。そんな気がした。
+++
春巻きは大好評で、あっという間に売り切れた。ノブさんが農家さんからいただいてきた生きくらげも好評で、大きな皿も鍋も空っぽになっていた。笑い声があちこちで上がるキッチンの片隅で、瀬戸さんがひとり静かに食事を終えて、洗い物を始めていた。
「私、手伝います」
そう言って瀬戸さんの横に立って、食器をすすぎはじめた。なぜか祖母が台所にいた頃のように、心が落ち着いた。
「先月のたけのこ料理も、今日の春巻きも、とっても美味しかったです」
今日は言えた。言葉に出すのが、照れくさかったけど、思い切って伝えた。
瀬戸さんはにっこり笑って、「美味しかった、は、いちばんうれしい言葉よ。ありがとう」と言った。よかった。伝えて。素直にそう思った。
「亜由美さんのおうちの春巻きは、どんなんだったの?」
瀬戸さんに聞かれて、祖母が作ってくれた春巻きを思い出しながら話した。
「祖母が作ってくれたのは、豚肉やたけのこ、戻した干しシイタケとピーマンが入ってました。一度具を炒めて味付けして、とろみをつけて。冷ましてから皮で包んで揚げてたから、今から思えば手間がかかってたと思います」
言葉にすると、あの味が口のなかで蘇ってきた。祖母の手元をじっと見ていたあの日の記憶も、料理の香りといっしょに戻ってきた。
「うわー、美味しそうねえ。お店の春巻きみたいやね」
「そうなんです。昔父と中華街で食べた春巻きとおんなじ味で、とっても美味しかったんですよ」
思わず胸が少し張るような気持ちになった。自分の記憶と味覚がぴたりと重なったよろこびを瀬戸さんに話せることが、嬉しかった。
「亜由美さんのおうち、おばあさまが料理されていたの?」
瀬戸さんに聞かれたとき、少し自分の顔が曇るのがわかった。
「はい。うち、両親が離婚して、母と二人暮らしだったんで。近くに住む祖母が夕食を作りに来てくれてたんです。でも、私が中学生の時に祖母が亡くなって。それからは、母が用意してくれたり、私が簡単なものを作ったりしていました。
母は、料理苦手だったんですけど、一度だけ私が食べたいって言って春巻き作ってくれたんですよね。『揚げ物は台所が汚れるから』って嫌がって、出来合いのもの買ってきてばっかりだったんですけど」
「食べたいって子どもに言われたら、苦手でも面倒でも作るのよねえ。お母様の気持ち、なんとなくわかるな」
瀬戸さんはすこしだけ顔を横に傾けて、何かを感じ取るように、静かにうなずいた。
「苦手なのに春巻き作られるってすごいわね。おばあさまがレシピ残しておられたのかな」
その言葉を聞いて、私は思い出した。
祖母が亡くなった後、遺品を整理していたら、和紙を貼ったきれいな箱を見つけた。ふたを開けると、祖母が新聞から切り抜いたレシピや手書きのメモがびっしりと入っていた。
「なんだ。お母さんもレシピ見てたんじゃん。私には、『毎日の料理なんて、レシピ見ないでも作れるようにならないと』って言ってたくせに……」
新聞の切り抜きを手に取りながら、母がつぶやいていたのを思い出した。
母が作ってくれた春巻きは、祖母のレシピの箱から見つけたものだった。古びた新聞の切り抜きを一生懸命見ながら作っていた母の姿が、記憶のなかではっきりと立ち上がった。
「祖母が残したレシピ見ながら、母が作ってくれたんです」
あの時はただ悲しかったけれど、いまはちがう気持ちで思い出せる。あの春巻きは、母の不器用なやさしさだったのかもしれない。そう思ったら、心のなかにあった小さな棘が、すっと抜けたような気がした。
瀬戸さんはそれ以上何も聞かず、ふっと微笑んだ。
「亜由美さん、シンちゃんからきくらげ苦手だって聞いてたんだけど、大丈夫やった?」
瀬戸さんは私の横顔をのぞき込むように、やさしい声で尋ねた。
「はい。子どもの頃から苦手だったんですけど。でも、ノブさんが農家さんからもらってきた生くきくらげを、瀬戸さんがお料理してくれて。とっても美味しかったです」
そうだ。あんなに苦手だったきくらげを美味しいと思えたなんて。今なら、お母さんのことも、少し違うふうに感じられるかもしれない。そんな気がしていた。
「子供の頃の食べ物の思い出って、強烈に残るのよね。うちの息子、小さい頃は好き嫌い多かったんだけど、いろいろ食べられるようになってね。特になすは『あのトロトロがきらい』って言ってたのに、今は『なすの、あのトロッとした感じが好き』って言ってるからね」
瀬戸さんが一瞬だけ『お母さん』の声と顔になっていた。
「あ、それ、わかります。たけのことか、子どもの頃は美味しさがわからなかったです」
私は先月食べた瀬戸さんのたけのこごはんを思い出していた。
子どもの頃の記憶って、たしかに強烈だ。
でも、それが本当に『事実』だったのかどうかは、たぶん誰にもわからない。
でも、今の私がそれを違う味に感じたなら、その感じ方こそが、きっと『今の真実』なんだと思う。
「でも、大人になったからって簡単に書き換えられるわけじゃないのよね」
ふと、瀬戸さんが言った。私は一瞬、ドキリとした。まるで、考えていたことを読まれたようだった。
「変わるため、変えるために。最初の一歩を、自分で踏み出さないとね」
瀬戸さんにそう言われて驚いた。自分が心の中だけでつぶやいたと思っていた言葉が、瀬戸さんになぜ聞こえたんだろう?
驚いて見つめる私に、瀬戸さんはにっこり笑って言った。
「亜由美さん、自分では気づいてないかもしれないけど、その声、ちゃんと伝わってきたわよ」
そんなふうに言う瀬戸さんの言葉を、不思議と素直に受け取れた。私の声、私の気持ちを、そのまま聞いてくれたことが、嬉しかった。
「彩子さん、ありがとう」
瀬戸さんでなく、彩子さん。自然にそう呼んでいた。
+++
彩子さんが帰ったあとのラウンジに、シンさんを囲むようにスタッフが5人ほど残っていた。みなコーヒーを片手に、静かに言葉を交わしていた。
「ぼく、実はきくらげ初めて食べました」
ノブさんを慕う営業のカイ君が話していた。
「俺もきくらげ嫌いでなあ。ノブが熱心に勧めるからしゃーないなと思って食べてんけど。美味かったわ」
シンさんがそう言うのを聞いて、ノブさんは少し照れくさそうに笑っていた。自分の好きなものが、こうして誰かに伝わっていく。そのことが嬉しいんだろうなと思った。
「この生きくらげ、いけるかもしれないね。確かに、もっと広まってもいいよねえ」
きくらげが苦手だと言っていた人たちも、驚いた顔で頷いていた。生のきくらげが、こんなに美味しいなんて思わなかった――そんな言葉が自然と飛び交っていた。
「苦手やと思ってたものも、大人になった今食べたら美味しいってあるんやな。ノブがもらってきたきくらげで、まさかそれが体験できるとは思わんかったわ」
シンさんは少し身を乗り出して、湯気の残るマグカップに口をつけた。
「それ、仕事でもそうかもしれませんね」
ノブさんはふっと表情を和らげた。
「確かに。昔は、人と話すのめっちゃ怖かったけど、大人になって『仕事だから』って思ってやってみたら、次第に人と会って話すこと好きになったんですよね」
そう言って笑うタケシさんは、どこか照れくさそうだったが、その瞳は小さな誇りを宿していた。
「そうやんな。できない、苦手、って思ってたことも、まず一歩踏み出してやってみて、続けてたら、それが『できる自分』になってるんよな」
シンさんの言葉を聞きながら、私は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。少し前の自分なら、きっとこの輪のなかに入れなかった。だけど今、そこにいる自分がいる。
「よし!」
小さくつぶやいて、私はノブさんのところへ近づいた。
「ノブさん、あの。次、小田原に出張にいくとき、私も連れて行ってください」
ノブさんは一瞬驚いた顔になったが、すぐにっこり笑ってくれた。「もちろん! ちゃんと、『担当の真木亜由美です』って紹介するからね。キクラゲ嫌いだったけど、生きくらげとっても美味しかったって伝えてあげてね」
「はい」
そんな私とノブさんを、シンさんが嬉しそうに見守っていた。
久しぶりに、お母さんに会いたいな……。
そんな気持ちが胸にふわりと浮かんだ。
<第三話に続く>
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美味しいはしあわせ「うまうまごはん研究家」わたなべますみです。毎日食べても食べ飽きないおばんざい、おかんのごはん、季節の野菜をつかったごはん、そしてスパイスを使ったカレーやインド料理を日々作りつつ、さらなるうまうまを目指しております。