【美術展2025#33】ロバート・キャパ 戦争@東京都写真美術館
会期:2025年3月15日(土)〜5月11日(日)
20世紀が生んだ偉大な写真家のひとり、ロバート・キャパ。「カメラの詩人」と言われ、またすぐれた「時代の証言者」でもあります。その写真の背景には苦闘するヒューマニストの眼があります。戦争の苦しみをとらえるとき、そこにキャパの人間としてのやさしさ,ユーモアがあります。キャパは人間を取り捲く状況を少しでもよいものにしようという強い信念と情熱をもって状況に身を投じましたが、それだけでなく写真のもつ衝撃力を見分ける確かな眼を持ち合わせていました。
1930年代ヨーロッパの政治的混乱、スペイン内戦でドイツ・イタリアのファシスト政権に支援されたフランコ将軍の反乱軍によって次第に圧倒されて敗北する共和国政府軍、日本軍による中国の漢口爆撃、第二次世界大戦で連合軍の対ドイツ反攻作戦の始まる北アフリカから、イタリア戦線、ノルマンディー上陸作戦などの戦闘現場に立会い、命がけの取材写真は眼に見える確かな記録として報道されました。それらの多くは時空を越えて、後世の人びとにも訴えかける強いメッセージとなっています。
本展は、東京富士美術館が所蔵するキャパの約1000点のコレクション・プリントから、“戦争”に焦点を当てた作品約140点を厳選して展示します。
昨今のロシアとウクライナ、パレスチナやレバノンとイスラエル等の地域における紛争、 シリアのアサド政権崩壊による影響など、世界の現状は、残念ながらキャパの願った「人間を取り捲く状況を少しでもよいものにしよう」という思いとはほど遠いものです。それ故に戦後80年のいま、あらためてキャパの写真証言を見直すことの意義があります。
我が家に一冊の古い展覧会図録がある。

私が10代の頃に行ったロバート・キャパの展覧会図録だ。
ロバート・キャパのビンテージプリントを初めて生で見た当時の私は、そこで確か素直に感動したはずだ。
だが、実はこの展覧会がどこで行われたかという記憶がいまいちあやふやなのだ。
ワタシ的には長らく東京都写真美術館だったと記憶していたのだが、図録の会場クレジットを見ると「東京富士美術館」となっている。
いや、私はそこには行ったことがない。
だが、この図録は展覧会場で買ったもので間違いない。
いろいろ調べてみたら、どうやら東京富士美術館所蔵のキャパ作品を用いた展覧会の巡回展として、当時新宿にあった三越美術館で1997年に行われた展覧会だったようだ。
てっきり浪人時代に行った展覧会だと思い込んでいたのだが1997年はすでに大学に入学しており20歳を超えていた。
ということで展覧会当時、私は10代ですらなかった。
その頃、新宿・池袋界隈にはいくつもの百貨店系美術館があった。
新宿には三越美術館、伊勢丹美術館、小田急美術館。
池袋にはセゾン美術館、東武美術館。
だが2000年前後には全て無くなってしまった。
どの美術館にも複数回行っているはずなのだがエントランスがどうなっていたかというようなことはおろか、そこで何を見たかということさえ今となってはほとんど覚えていない。
唯一伊勢丹美術館だけは学生時代にアルバイトをしていたこともあったのでかろうじて雰囲気を覚えている。
ところが、三越美術館に至っては場所さえ定かではない。
調べてみたら今の大塚家具のビルが旧三越南館だった時代に館内にあった、という事だった。

言われてみればそうだった気もするし、だけど新宿三越本館(現ビックカメラ)内だった気がしないでもないし。
…う〜ん、やっぱりいまいち覚えていない。
人間の(私の?)記憶は曖昧である。
今目の前で、どこかの適当な風景の写真に、遠い昔に一回だけ行った事がある記憶の薄い場所のそれっぽいキャプションが付けられていても、こんなだったかなあとは思いつつも、まあこんなもんだったかなと納得してしまうと思う。
それが見たこともない場所や体験したこともない事だったりしたら、尚更添え書きに書かれている内容を信じるしか手立てはない。
そしてそれは時間が経つほど曖昧さを増し、検証するのも難しくなっていく。

改めて件の図録である。
表紙はいわゆる《崩れ落ちる兵士》が半分を占めている。
当時キャパといえばまずこの写真だった。
インターネット普及前夜の当時もこの写真について真贋の論争はあったようだが、私はその詳細を知る事なく、タイトル通りにこの写真は敵の銃弾に当たって崩れ落ちている兵士の写真なのだと信じ込んでいた。
その後2000年代に入り様々な事実が判明していく中で、(今でも諸説あるものの)この写真に写る兵士は「敵の銃弾に当たって崩れ落ちているわけではない」というのが定説になっている。
私の人生のバイブルのひとつ「深夜特急」の著者である沢木耕太郎氏の「キャパの十字架」は、検証ドキュメンタリーとしてだけでなく物語としても秀逸なのでぜひ一読していただきたい。

ただ、キャパだけでなく当時はこのような演出が一般的だったという話もある。
だが、言ってみれば当時だけでなく写真という技術が誕生して以降、むしろ途絶えたことがない。
写真は描き出される図像が超写実的なだけで、あくまで写真家の眼を通した絵だ。
画家が絵の具と筆でフィクションを描くように、写真家はカメラを用いてフィクションを描く。
今だって新聞やテレビでの演出はもちろんのこと、インターネット上にもフェイクニュースが溢れている。
時にプロパガンダとして作り上げられたイメージは、見せ方とタイミングによっては本来の意味から離れたイコンとなって世論を変える力になるかもしれない。
20世紀は「戦争の世紀」だったと言われる。
確かに20世紀は「武力戦争の世紀」だった。
だが今だって地球上では戦争は無くなっていない。
目に見える戦争はおろか、目に見えないところに潜んでいった争いはむしろ激化している。
インターネット上ではサイバー攻撃は止むことはないし、印象操作のリール動画は絶えず流れてくる。
ワンクリックでテレビゲームのような戦場の風景を見る事ができるが、タイトルや説明文の付け方次第でどうにでも情報操作は可能だ。
最近では生成AIのフェイク動画も普通に出回っている。
21世紀はサイバー空間上での「情報戦争の世紀」と呼ばれるようになるのかもしれない。
2ちゃんねる創始者ひろゆき氏の名言、
「嘘は嘘であると見抜ける人でないと難しい」は、発言から四半世紀経った今も色褪せていないどころか、さらに真実味を帯びて核心を突いている。

久しぶりのロバート・キャパ。
今回はあえて斜に構えて疑ってかかるスタンスで写真を見た。
緊迫した戦場。
恐れ戸惑う民衆。
凶弾に倒れる兵士。
キャパの写真は戦争の悲惨さを臨場感豊かに描き出している。
それとともに戦時下ながらも人々の温かみのある瞬間を生き生きと切り取っている。
だが、写真は時に嘘をつく。
ミクロ的視点で見た時とマクロ的視点で見た時では意味が逆転することもあるかもしれない。
トリミングされた画角の枠外に真実があるかもしれない。
たとえ写真は真実でもキャプションがフィクションかもしれない。
ある意図に沿って演出された写真群だとしたらそもそも初めからそこに真実は写っていないかもしれない。
時間が経った今となっては真実はわからない。
ただ確実に真実なのは、キャパが撮った写真の中の人々は当時生きていたということ。
そして現在そのほとんどの人がもう生きていないということ。
1954年
対人地雷を踏んで死亡。
ロバート・キャパ、享年40。
2025年
キャパが亡くなってから70余年。
未だ戦争は無くなっていない。
帰り道、なんだか久しぶりにブルーハーツを聞きたくなった。
僕等は泣くために 生まれたわけじゃないよ
僕等は負けるために 生まれてきたわけじゃないよ
そう。
今だってまだ未来は僕らの手の中にある、はず。

キャパが生きていた時代の古いカメラだがまだまだ使える。
革は劣化したのでエルメスモデルをイメージして自ら張り替えてみた。
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