仕舞う人、建てる人 7
事務所の扉が開いたのは、午前十時を少し回った頃だった。陽が高くなりはじめた時刻のわりに、外の空気はどこか冷たく、風の音が、玄関からゆっくりと入り込んできた。入り口に立っていたのは三人で、ワシの目に入ったのは、前と同じ、あの娘の眼差しだった。中村由衣。年齢にそぐわぬ落ち着きを宿した視線は以前と変わらず、だがその下にうっすらと影ができていた。痩せたかもしれない、とワシは思ったが口には出さなかった。
「再び、参上つかまつった」
由衣はそう言って、まっすぐこちらに歩いてきた。後ろに控えていた父親と母親が小さく会釈する。娘に引っ張られるように、二人は少し戸惑いながら店内へと入ってきた。ワシは立ち上がり、椅子を引いて彼女らを案内した。
「体調、どうですか」とワシは訊いた。
「良くはない。だが、話はできる。だから来た」
ワシは頷いた。言葉を選ぶ必要はないと判断した。彼女はすでに覚悟を決めている目をしていた。覚悟というものは目の奥に宿るものだ。言葉で飾る必要はない。
「お父さん、お母さん……」とワシは視線を二人に向けた。「先日は、わざわざありがとうございました」
「いえ……。こちらこそご迷惑をおかけします。娘が、どうしてもと言い張りまして」と父親が言った。母親は言葉少なに頷いたままだった。
「津田殿」と彼女はワシに向き直った。「話したいことがある。墓の話だ」
「聞きましょか」
「まず、病気のことから伝えておく」
彼女はわずかに背を起こし、背筋を伸ばして語り始めた。まるで何かの報告書でも読み上げるような、理路整然とした口調だった。
「医者に言わせれば、余命は三ヶ月から半年。再発した白血病は急性で、抗がん剤が効かない。治療法は限られており、移植も難しい段階にある。だから、私は死ぬと思っている。そう思って、動いている」
誰も言葉を発さなかった。父親も、母親も、沈黙のなかでうつむいた。ワシは言葉を挟まなかった。彼女の言葉の先にあるものを、まだ聞きたいと思った。
「だから墓を建てたい。建てたい理由は、そこに私がいたという証がほしいからだ。人は死んだら、だいたいすぐに忘れられる。三ヶ月もすれば別のことで忙しくなる。残るのは家族だけだ。でも、それでもいい。せめて誰かが、石の下に眠る私を思い出してくれたら、それでいい」ワシは、机の上に置かれた名刺を指先でまわしながら訊いた。
「病気の事はその、あれやけど、お墓の事をそんなに考えるのもなんちゅうか、家のお墓に入るっていう選択肢もあるんちゃいます?」
「あるにはあるが、あれは違う」
「違う?」
「私は、あそこには属さない。長浜の墓には、知らない人がたくさん眠っている。親戚かもしれないが、私の人生とは関係のない人たちだ。私は、自分の意志で選んだ場所に、自分の名前を刻みたい。私のものとして」
ワシは、ゆっくりと息を吐いた。
「——中村さん」ワシは目を伏せたまま、声にだけ力を込めて続けた。
「あんたは、自分に関係のない人間が眠ってる墓には入りたくないと言いいましたな。せやけどな」ワシは、机の角を指先で軽く叩いた。コン、コン、と小さな音がした。
「人間ちゅうのは、一人では存在できへん。命いうもんは、つながりや。目に見えん糸みたいなもんで、何本も何本も、過去から今までつながっとる。あんたかて、突然ここに生まれたわけやない」由衣は眉をわずかにひそめた。言葉の続きを待っている顔だった。
「どんな命にもな、直接的には必ず、二人の男女が関わっとる。つまり、両親やな。さらにその親にも、それぞれ二人ずつ。そうやって一代さかのぼるごとに、関わっとる人間の数は倍々に増えていくわけや」ワシは指を折って数えた。これは何百回も、お客さんに語ってきた話や。営業トークやない。石屋として、命に向き合ってきた年数の蓄積や。
「一代前なら二人。二代前は四人、三代で八人……十代さかのぼれば、一〇二四人や。これが二十代前までいったら、百万人を超える。百万人やで。想像つかんやろ。あんたの命が今ここにあるいうことは、その百万人以上の命が、誰ひとりとして途中で絶えんかったっちゅう証なんや」言い終えてから、しばし沈黙が落ちた。由衣は腕を組んだまま、黙っていた。ワシは立ち上がって、事務所の隅にある花崗岩のサンプルの方に歩いた。少し手で撫でながら、背中越しに言った。
「墓ちゅうのは、確かに自分のために建てるもんでもある。けどな、それは、誰かに思い出してほしいためだけやないんや。——逆に言うたら、自分が何人もの先祖から預かった命を、ちゃんとここまで運んできた、その証にもなるんや。『私はここにいた』と同時に、『私はここまでつなげた』っていう、静かな宣言やと思うとる」
足音もなく、由衣がゆっくりと席から立ったのがわかった。気配が、こっちに向かってくる。やがて、サンプル石の前で、ワシの横に並んだ。手は出さんかった。ただ、少しだけ顔を横に向けて言った。
「……じゃあ、津田殿。わたしは、つなげることができたのか?」
その問いは、まっすぐで、投げやりでもなく、諦めでもなかった。まるで石の上に置いた水滴のように、静かに、淡々とそこにあった。ワシは答えを急がず、石の表面に反射した蛍光灯の光を見つめた。
「わからん。それは、あんたのこれからの生き方しだいや。ただな、命っちゅうのは、誕生した瞬間に、すでにつながっとるんですわ。生きた年月の長さでも、派手な業績でもない。生まれてきたことが、ほんまは一番すごいことなんや。そやから、ご先祖をないがしろにするようなお墓の建て方は、ワシはようすすめん」由衣は、しばらく黙っていた。やがて、低い声で、呟くように言った。
「……百万人ね」
「ああ。あんたがいまここにおる、それだけの数の命が、何十年、何百年と生きて、死んで、つないできたんや」
「その全員に、名前があったんだろうな」
「そらそうや。誰一人として、その他やなかった」
由衣は小さく息を吐いた。気圧の抜けたペットボトルみたいな、静かな音だった。
「そのうちの一人として、死んでいくのも……悪くない気がしてきた」
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