仕舞う人、建てる人 2
琵琶湖の水面が遠くにちらちらと光り、風に乗って湖の匂いがほんのり漂ってくる。十区まで登ったら、もっと景色がええんやけど、五区でも十分や。ただ、マンションが相次いで建設されて、湖面はちょっとしか見えへんな。
昔からの墓地やから、メインの通路以外は墓石の間を縫うように歩いて行かなあかん。古い石碑は砂岩でできていて、風雨にさらされて剥がれているのもある。時折、京阪とJRの電車の走る音が聞こえる。膳所駅から歩いてこれるから、お参りも便利や。
ワシは佐藤さんのお墓を探しながら、墓石の間をゆっくりと歩いている。古いお墓と新しいお墓が乱立しとって、明治時代のものもあれば、つい数年前に建てられた真新しいお墓もある。それぞれの墓石に刻まれた名前は故人を偲ぶためやと思うと、ワシがやってきた仕事も人の役に立てたんやないかと思う。まぁ、ちゃうかもしれんけどな。
琵琶湖から吹いた風は、夏の終わりの湿気をほんのり含んどった。風の強い日には、もっと湖の匂いがはっきりと届く。海の潮の香りとも、藻の香りともつかん、琵琶湖独特の匂いや。今日の風はそこまで強くない。ただ空気の端っこに、微かに香っているくらいやな。
ワシはふと立ち止まり、ポケットから佐藤さんの墓の区画番号が書いてあるメモを取り出した。
「五区の四十二番……」ワシは小さくつぶやいた。このあたりやな。
お墓の間に一人の若い女性がおる。彼女は黒いワンピースを着ていた。 特別なわけでもないが、どこかきちんとした雰囲気がある。 長い髪を後ろでまとめて、腕を組みながら墓石をじっくりと見つめとった。
「こんにちは」ワシは声をかけた。彼女はゆっくりと振り向いた。 目は妙に落ち着いている。まるで、ワシが声をかけるのが当然のことやとでも言うような、そんな目やった。
「お参りですか?」彼女はワシを見つめたままで、ふっと口の端を上げた。
「いや。墓を見ている」
「そら見たらわかりますわ」
「ではなぜ聞く?」ワシは少し口をつぐんだ。この娘、妙な感じやな。
「お墓参りに来たけど、お墓の場所がわからへんのかと思ったんですわ」
彼女は「ふむ」と言い、「この霊園に詳しいのか?」とワシに訊いてくる。
「まぁ、仕事柄、詳しいですわ」と言って、制服の胸に書かれている梛木石材店の名前を彼女に見せた。
「どのお墓が最も立派なのだ?」
ワシは一瞬、何を聞かれたのか理解できへんかった。普通、お墓を探しているのは、自分の先祖代々のお墓の場所がわからなくなった人か、新しくお墓を建てる為の参考にする人や。案外、お墓の場所はわからなくなるもんや。同じような形が並んどったらそうなるわな。
「……最も立派なお墓?」
「そうだ」
ワシは腕を組み、少し考えた。 ここには膳所藩の藩士の墓もあるし、兵隊さんのお墓もようけある。
「どれも立派なお墓ですわ」ワシはそう言うしかなかった。
「ほう? どれも立派とは、どういう事だ?」 彼女は腕を組んだまま、ワシを見ている。 声が低くて、命令を下す武将みたいな響きやった。
「立派いうんは、大きさや、御影石の値段やないんですわ。どれもが、故人を偲ぶものです。どのお墓も建てた人の想いがあるんですわ」
彼女は「ふむ」と小さく頷いて、風に揺れて、少し乱れた髪を手で直した。ワシも自分の頭に手をやったが、直すほど髪の毛があるわけやない。
「偲ぶ気持ち、か」彼女はつぶやいて、ゆっくりとワシの方を向いた。
「そうやと思いますわ」ワシは湖の方を見た。水面が遠くで光っていて、風がその表面を細かく揺らしてる。
彼女は「なるほど」と短く言って、口の端を少し上げた。ワシは彼女に向かって、「それはそうとして、立派なお墓を見て、どうしようと思ったんです?」と投げかけた。 言葉がワシの口から滑り出た瞬間、彼女の目が細くなった。
「自分の墓を建てたいのだ」彼女の目には少しばかりの哀しみがあるように見えた。
「どういう事です?」
「自分の為の墓を自分で決めておきたいのだ」なんや有無を言わさへん言い方やと、ワシは思った。
「せや。これが佐藤さんのお墓や」とワシは何をしにここまで登ってきたのか思い出して、武将みたいな娘の言葉を遮った。
ワシは目の前の墓石を見ながら、「このお墓、お墓じまいの話が出とるんです」と言った。 喉の奥で何か重たいもんが引っ掛かって、ワシの心の奥で何かがざわざわした。昔は家族の為にお墓を建てるのが当たり前やったけど、今は家族に迷惑をかけないようにお墓じまいする風潮がある。
その娘は「墓じまい?」と軽くつぶやいて、ワシの方をちらりと見た。
「そうですわ」刻まれている文字の中に薄い苔が生えている。陽が当たると、その苔がほのかに光って、石に別の命が宿っているんやとワシは思った。風雨にさらされても、石はここに立ち続けてきた。このお墓を建てた時、文字を彫った職人は、お墓じまいする日が来るのを想像してたんやろか。誰かを偲ぶ場所がずっとここにあればええ。けれども、時間は経ち、価値観は変わってゆく。
彼女は腕を組んで、「墓じまいする人は多いのか?」と聞いてきた。ワシは、彼女の頭の中で「お墓じまい」という言葉が、どんな風に響いてるんやろと考えた。
「まあ、多いですわ。形あるもんがなくなるのは寂しい事やけど、偲ぶ気持ちが消えるとは思いたくないです」お墓じまいをする人らは、「仕方ないです」と言う。 お墓がなくなることで、すっきりするんやろうな。
「ふむ」と彼女は短く言った。 それは「なるほど」とも、「納得していない」とも取れる響きをしていた。
「墓は死者を偲ぶためのものだろう?」
「そうです」
「もし、墓をなくしたら、死者はどうなる?」ワシはその言葉をかみしめながら、しばらく口をつぐんだ。
「お墓っていうのは形ですわ。お墓がないからといって、亡くなった人の事を忘れるわけやないでしょう。石屋が言うのもなんやけど、お墓いうのは、ただの石ですわ。お骨を納める為の場所ですわ」 彼女は少し考えるように視点を落とし、それからゆっくりと口を開いた。
「誰も参らない墓はどうだ? その墓には誰の気持ちがある?」ワシは何を言われたのか理解できへんかった。
「へぇ?」ワシはポケットに手をかけて、ゆっくり息を吐いた。
「誰も参らんお墓いうのは、この霊園にもありますわ」ワシはそう言って彼女を見た。彼女は何も言わず、ただワシを深い目で見つめてた。長い間、花を供えられてへんお墓が増えている事をワシは知っている。
「せやけどな、誰も参らんかて、そのお墓に気持ちがなくなるわけではないと思いたいです」 ワシは言葉を続けた。声が少し小さくなって、自分でもその事に気づいた。風がまた吹いて、湖の匂いが鼻をくすぐった。頭の中で、誰かが手を合わせてた姿や、花を供えている姿を思い浮かべる。
「ほう?」彼女は短く言って、首を少し傾かせた。戦国武将みたいな口調が、墓地の静けさに妙に馴染んでいる。
「ここにお墓を建てた人がいるんです。大切な人のために、お墓を建てた。そのときの気持ちは確かにあったんやと思います」 ワシは佐藤さんのお墓の方に目をやって、そう言った。 枯れた樒が花立に刺さって、風に揺れている。
「では、自分の為の墓を、自分で建てたならどうだ?」 彼女は腕を組んだまま、ワシに問いかけた。
「そら、そういう事もあるでしょう」この娘が自分の墓を建てたいって言っていた時の目が、ワシの頭に浮かんだ。
「寿陵という言葉を聞いたことがある」どこか時代錯誤な落ち着きが彼女にはあって、まるで何百年も生きとる人間のような気もした。寿陵を口にする若い娘なんて初めてやった。
「寿陵、か。まぁ、寿陵言うたら、半分以上は石屋の方便ですわ」墓を建てる人も、お墓じまいする人もワシは沢山見てきた。せやけど、こんな若い娘が寿陵なんて言葉を口にして、自分の墓を建てたいって言うなんて、想像もしてへんかった。
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一日延ばしは時の盗人、明日は明日……
あっ、ありがとうございます!