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第5話 名ばかり先進校の現実を知る

 匿名 note への投稿は夜が明けても反応ゼロ。娘を守るには“現場”を見なければ──そう悟った遼は、同僚とのシフトを強引に替わって ICT 支援員代務を獲得し、青浦小へ潜入する。五月中旬、潮気を含んだ海風が校舎裏の防潮林を揺らすなか、教員たちは Twipos 炎上に口を閉ざし、最新タブレットは未開封のまま積み上げられていた。 “AI 先進校”の実像は、形ばかりの機材と疲弊した教師、そしてゲーム感覚で端末をいじる子どもたち。放課後のミニ研修では「来週までに実証データ提出」の無理な赤字日程が示され、妻・美咲が遺した資料の警告が現実味を帯びる。声が届かない静寂の三重奏──遼は「ならば記録して暴く」と決意し、夕焼けの湾へ向かって歩き出す。


 夜が白み始めた頃、遼(りょう)は寝室のカーテンをわずかに開き、灰色の空を確かめた。海から上がる湿った風が窓枠を震わせ、カモメの鳴き声が遠くで途切れ途切れに重なっている。腕時計は午前五時三十四分を示していた。

 リビングのテーブルには、昨夜公開したばかりの note の通知を映したままのノートパソコンが置かれている。閲覧数「8」、ハートマーク「0」、コメント「0」。赤ん坊のような数字は、夜通し更新ボタンを押し続けた遼をあざ笑うかのように、静かに瞬いていた。

 ──届かなかったか。

 素足でフローリングに立った遼は、小さく息を吐いた。冷たい板の感触が足裏から背筋へ駆け上がる。

 スマホに表示されたカレンダーをなぞる。今日の日付の横には赤字で《ICT支援員・代務》と書き込んだばかりの予定が光っていた。本来なら社内システムの保守作業で一日が潰れるはずだった。だが同僚の善意と引き替えにシフトを奪い取り、急ごしらえの“潜入任務”をこしらえたのだ。

 「潜入」と言っても、表向きは風崎市教育委員会が外部委託した ICT 支援員の代務にすぎない。けれど、炎上の中心にいる娘・ひよりの学校へ足を踏み入れるにはそれしか道がなかった。

 キッチンでインスタントコーヒーを淹れると、豆の香りが静かな家に広がる。義母がまだ眠る隣室からは、短い寝息が壁越しに聞こえていた。自分の咳払いがやけに大きく響く。ひよりも今日はぐっすり眠っている。

 テーブルの上、ひよりのタブレット端末が伏せて置かれていた。画面にはアプリ『AIBuddy』の通知バッジが二桁。遼はそっと指で隅をなぞり、娘が昨夜まで“ことば探し”に没頭していた痕跡を確かめた──あの作文を、まだ誰も読んでいない。

 コーヒーを飲み干すと、遼は鏡の前でワイシャツの襟を正した。胸ポケットには ICT 支援員の名札。その裏には折り畳んだ委託契約書の写しと、ひよりの作文の複写を忍ばせてある。万が一揉め事になっても、娘の言葉が父親を守るお守り になる──そんな迷信めいた願掛けだった。

     *

 午前八時。湾岸道路を南へ抜けるバスの終点が青浦(あおうら)小学校の臨時門前だった。海塩を含んだ風が錆びたガードレールを軋ませ、横断歩道の白線は潮風に削られて灰色に退色している。背後の青帆湾(あおほわん)は鉛色、水平線と曇天の境目が曖昧だった。

 「日野遼さん……で、よろしかったでしょうか」

 声の主は教頭の村井。丸眼鏡の奥の瞳は寝不足でうっすら赤い。名札には『教頭・村井俊介』。灰色のスーツの袖に粉チョークの白い跡が点々と付着している。

 「はい。本日、支援員の代務で伺いました」

 遼が名札を示すと、村井は安堵したように小さく会釈した。

 「ICT 機器の初期設定と接続確認をお願いできれば。朝の会が終わるころに職員室へお通しします」

 短い挨拶の後、二人は渡り廊下を抜けて職員室へ向かう。途中、低学年教室の扉越しに「ねえ先生、充電切れた!」と男児の声がした。担任と思われる若い教師が「ちょっと待ってね」と応えつつ、黒板と端末トラブルの板挟みに青い顔をしている。

 職員室に入ると、朝のミーティングが終わったばかりの空気が漂っていた。無人のデスクの上に置かれたスマホの画面が、一斉に通知を点滅させる。ツイポス だ。炎上スレがまた伸びている。

 ──市民の声:#AI作文ズルじゃないの?

 遼は胸の内で“ズル”の二文字を噛み潰しながら、袖口の時計を見た。八時二十五分。

 「こちらが機材一覧と倉庫の鍵です」

 村井が差し出した書類は、表紙に『AI活用モデル校 年度内配備計画』と印刷されている。紙端は折れ、インクがにじんでいた。予定欄に赤ペンで三本も引かれた『実証データ提出期限──5月……』の文字が、目に痛かった。

 村井は気まずそうに視線を逸らすと、付箋を貼ったページをめくった。

 「箱はほとんど開けていません。授業進度が追いつかず、今日まで手が付けられずに……」

 遼は淡く笑みを浮かべ、書類を受け取った。「まずは動作確認から始めます」。

     *

 倉庫前は段ボールの山だった。『WindTable J 第四世代』のロゴが同じ角度で積み上げられ、梱包用ビニールがベトつく。

 遼はカッターで封を切り、十台ほどを手際よく接続。校内 Wi‑Fi へログインしようとすると、ルータ設定パスワードが初期のままだった。標準手順書に従いパスを変更し、校務単独ネットワークの VLAN を設定し、三十分で一式を整える。

 作業の最中、廊下を通る教師が「助かります……」と呟いたが、すぐに息を詰めてスマホ画面へ下を向いた。その画面にも ツイポス の紫アイコンが光っていた。

 昼前、設定済みタブレットを抱えて二年生の教室へ戻ると、児童たちは既に別の端末でアプリ『ラクガキ☆パレット』に夢中になっていた。遼が担任に操作説明をする間も、子どもたちはカメラ機能で友達の顔に落書きを重ねては、声を上げて笑い転げる。

 「ねえ先生、AI ってこれでしょ?」

 女児が画面を見せてきた。そこには生成キャラクターが自動で色塗りされたポップなイラスト。教師は苦笑し、「そう……かもしれないね」とだけ返した。その表情は、自責なのか諦観なのか、遼には測れなかった。

    *

 午後四時。理科室で開かれた臨時 ICT 研修は、校内 LAN を説明するパワポと、配布タブレットの基本操作だけで終わった。だが最後のスライドに映った赤字が会場の空気を凍らせる。『AI活用レポート提出:来週月曜17:00厳守』

 ざわめく背中越しに、遼はスマホを取り出し盗写した。メモリに走ったシャッター音がやけに大きく感じられる。ポケットにスマホをねじ込んだとき、隣席の担任が呟いた。「どうせ数字合わせですよ……」

 講習後、村井が遼を廊下に呼び止めた。

 「今日は本当に助かりました。……ただ、ええと、この内容は外部に出さないでいただけると」

 遼は形式的に頷き、内心では note の新規投稿画面を思い浮かべていた。沈黙が廊下に垂れ込める。窓の向こうに、鉛色の海と防潮林が重なり合い、波打ち際に小さな白い飛沫が続いている。

     *

 帰宅途中、湾岸道路の歩道を歩きながら、遼は ツイポス を開いた。炎上ハッシュタグは相変わらず伸びているが、妻・美咲の名前もひよりの名前も出てこない。だが十数の匿名コメントが「AI作文の父親は説明しろ」と騒いでいる。

 note アプリを開き、[新規投稿]をタップ。今日撮影したスライドと、倉庫の写真、授業風景のメモをドラフトに貼り付ける。タイトル未定のまま、指はキーボード上で止まった。

 ──証拠を持たない言葉は埋もれる。

 胸ポケットの名札を外し、手の中で握りしめる。プラスチック片越しに伝わる体温はわずかなぬくもり。しかし、その小さな熱でも、遠い海風の冷たい渦よりは確かだった。

 「娘の声が消えるくらいなら、俺が燃えてもいいさ」

 遼はそう呟き、湾に沈む夕陽をひとつ深呼吸で飲み込むと、下書き保存をタップした。潮騒の匂いが変わり始める黄昏、ノートパソコンよりも重たい一歩が、防潮林へ向かって響いた。

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