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茶の薫るひと

あらすじ

 岐阜県の同じ村で育った幼馴染の安江駿(24)に想いを寄せながら、打ち明けること無く大人になった林洋平(23)。新茶シーズン、新人茶師の洋平は念願の茶の仕上げを許可されるまでになっていた。仕事が落ち着いたある日、洋平は駿のための茶のブレンドに取りかかる。茶と共に長年の想いを伝えるために。
 仕上げた茶を携え名古屋の大学院に通う駿の元へ行くも、駿の家には男の気配。駿が年下の彼氏・中村晃士郎(22)と同棲していると知る。男同士だからと勇気を出せなかった自分と、そんな悩みを飛び越え駿を射止めた晃士郎。その圧倒的な差を目の当たりにした洋平は作ってきた茶を渡さずに駿の元を去ろうとするが……


 茶畑の中を走る学ランの少年。必死に追いかけるけれど、手が届きそうで届かない。そのうちに息切れして、ぼくは畝と畝の間にしゃがみ込む。
「追いつけないんだ、いつだって」
 でもこうしてしゃがんでいればきっとーーーーー

「洋平、大丈夫?」
 少年の手が、ぼくの目の前に差し出される。ほらね、やっぱり。いつだって、ぼくを置き去りにはしない優しい手。その優しさにつけ込んで、ずっと彼をひとり占めしてきたんだ。

「駿、置いていかないで。どこにも、行かないで」
 ぼくが手を伸ばすと、彼は微笑んでーーーーーあれ、今日は顔が、見えないな。


 洋平が布団の中で目を覚す。ひどく汗をかいている。標高600メートルの山の早朝は、この時期でもまだ肌寒いというのに。防霜ファンが回る大きな音を聞きながら、天井に向かって「ふー」と大きく息を吐く。

 また同じ夢だ。駿がこの村を出て、名古屋の大学に通うようになってからというもの、何度となく見る夢。未練がましくて嫌になる。でも、大学院生になってますます忙しくなり、村に帰省することも滅多になくなった駿に会えるのはこの夢くらいなのだから、貴重といえば貴重である。ただ、最初の方は手を伸ばしてくれる駿の顔がはっきり見えたものだが、あまりに会えなくなったからか、ここ1、2年は夢の中の駿はついに声しか聞かせてくれなくなった。

「いい加減独り立ちしろよ」

 そう言われているようで、この夢で目覚めると嬉しいのか悲しいのかわからなくなる。意味もなく茶畑の中を散歩し、暗くなるまで製茶場の隅で勉強したりゲームをしていたあの頃。お互い茶の薫る制服を着て過ごした時間は当たり前ではなかったのだと今はわかる。今さらわかっても、遅すぎるのだけれど。

 村の組合の名前が書かれたカレンダーの横にある木製の時計に目をやると、まだ朝の5時だった。この時計一つとっても、駿との思い出が詰まっている。林業が盛んなこの地域では中学の技術の授業で木材を使った作品を作ることになっており、駿と一緒に壁掛け時計を作って完成した後に交換したのだ。駿は頭はよかったけれど手先はあまり器用ではなかったから、何度も手伝って、糸鋸だって怖がってなかなか取り掛からないから……
「ダメだダメだ、重すぎて気持ち悪い」
 かけ布団を勢いよく蹴飛ばし、体のバネを使って「よっ」と起き上がる。
冷えた床に足を踏み出すと、一気に目が冴えていく。現実を見ろと言われているようでうんざりしつつ、洋平は部屋を出た。

 母屋に併設する製茶場へ向かう渡り廊下は壁が薄いので、防霜ファンの音が一段と大きい。製茶場のドアを開けると溢れ出す茶の薫り。この瞬間がたまらなく好きだ。なんの取り柄もない自分を否定も肯定もせず、ただ受け入れて「ここに居ていい」と包んでくれる薫り。

 自分が気持ち悪くて、駿を裏切っているような気がしてどうにかなりそうだった時、製茶場でただずっと祖父が作業しているのを見ていた。
「茶は人を選ばない。誰のことも受け入れ、ただそこに在る」
 祖父はそう言って、何も聞かずにいてくれた。だから「こんな業界に未来はない」と父に反対されても、洋平の決意は固かった。茶師になる。駿が育てた茶に、自分が命を吹き込んで、そうして二人の茶を完成させるんだ、そう信じて疑わなかった。でも駿は、茶の道は選ばなかった。


 火入れの機械から茶を取り出し、検茶台まで運ぶ。頭に巻いたタオルで時おり汗をふく。製茶場を満たす熱気。Tシャツには汗染みが広がっていく。

 茶を一掴み。上皿天秤で5グラム量る。台の上には茶葉が乗った皿や飲みかけの検茶碗がいくつも並び、千本ノック状態で次から次へと茶を受け入れる。検茶碗に茶葉を入れお湯を注ぐ。湯気が立つ。茶碗の中で広がる茶葉をすくい網で持ち上げ香りを確認。茶葉を捨て、今度は茶碗に残った抽出液を味見する。
「……んー、やっぱあと1℃上げるか」
 
 もう一度火入れの機械に向かう。茶師が「ピンとくる」まで、繰り返される合組み作業。わけがわからなくなるほど茶の薫りをかぎ、試飲を繰り返す。慣れないうちは吐き気を催すこともあるくらい過酷な作業だが、妥協はできない。どの茶葉を、どう火入れし、どの比率で組み合わせるか。コーヒーと同じく、昨今は日本茶もシングルオリジンという単一品種を楽しむトレンドもあるが、洋平はあくまでブレンド派。茶を熟知した者だけが許される自分なりの解釈を持って茶をブレンドする行為こそ、茶師の生きる道だと信じている。

 今回のブレンドの軸になるのは、「くらさわ」と「かなやみどり」の掛け合わせから生まれた品種「香駿」。浅蒸しで仕上げたすっきりと上品ながら独特の香りが魅力の「香駿」に、村の別の畑で取れた数種類をブレンドし、イメージに近づけていく。ブレンドが難しいと言われている品種ではあるが、だからこそやってみたくなるのが茶師の性。自分に課したこの難題を乗り越えられたなら、一歩踏み出す勇気が生まれるかもしれない。

 夕日が差し込む製茶場の、朝よりさらに散らかった検茶台の上で、洋平が茶葉を袋に詰めている。顔が赤い。製茶場の熱気なのか、完成した興奮からなのか、自分でもわからなかった。50gの茶葉を詰め終わり、袋を閉じて密閉する。袋のラベルに、手書きで「駿」と書いているとドアが開き、妹の恵那が入ってくる。
「兄ちゃん? 電車間に合わないよ」
 とっくに成人したはずなのに、いつまでも垢抜けない妹が可愛くて仕方がない。恵那にだけは嫌われたくないと思っているが、汗で色が変わったTシャツを見て怪訝な顔をされてしまった。それもまた、可愛いのだが。

「もうそんな時間か……」
「出かける前にちゃんとシャワー入りなよ」
 言われて思わず散らかった台の上を見る。察した恵那がため息を吐く。
「もー、片付けとくから。久々に好きな人に会うのになんでこんなギリギリなの」
 ほらやはり、よくできた妹だ。伊達に保育士をやっていない。よく気が利いて、昔から人を放って置けないタチなのだ。子どもたちや保護者からの信頼が厚く、卒園式ではたくさんの贈り物を受け取ってきた。そして家族で唯一、いや、この世で唯一、駿への気持ちを知って応援してくれる存在。自己嫌悪に陥ってやさぐれていた頃、まっすぐに見つめてくる恵那の目にどれだけ救われたかわからない。こういう子こそ、保育士に相応しい。兄バカかもしれないが、心底そう思っている。「何も悪くない。恥ずかしくない。お兄ちゃんの気持ちは尊い!」と、本気で言ってくれた恵那に、当時は報いることができなかったけれど。

 「駿」のラベルがついた袋を恵那に向けて掲げると、恵那の目が輝いたのがわかった。
「あ、できたんだ!」
「うん、だいぶイメージに近い。華やかで澄んでて、でも芯は強くて、駿のいいところが……」
「あーごめんごめん。わかったから早く」
 呆れつつも兄を見守る優しい眼差しをくれる恵那に、ダメもとで頼んでみる。
「悪いんだけどギリギリになっちゃって駅まで送ってくれると助かるんだけど」
「どうせ最初から当てにしてたんでしょ。いいよ、今日は早上がりだったから暇だし」
「恋人と約束とか」
「余計なこと言ってると送っていかない」
 兄として妹の恋事情も気になるところだが、やめておいた方が良さそうだと察し汗だくの洋平は母屋に駆けて行く。


 JR東海「白川口」駅のロータリーに恵那の水色の軽自動車が止まり、助手席から洋平が降りてくる。名古屋方面への電車は1時間に1本しかないので、17時台の電車を逃すわけにはいかない。滅多に電車に乗らないせいでICカードの残金もいくらだったかわからない。「乗る前にICカードにチャージして」などと段取りを考えながら小走りになる洋平に、恵那が助手席側の窓を開け呼びかける。
「お兄ちゃん!ちゃんと伝えなよ!」
 不安な心を見透かされたようでドキッとし、振り向く。
「あなたを想って作りましたーって」
 そうだ、そうだよな。もう子どもじゃないのだから。手を挙げて応え、駅に入った。

 名古屋行き方面のホームはいつも通り閑散としている。この時間、岐阜方面に帰ってくる人はいても、名古屋方面に出かけていく人はほぼ居ない。どうにも落ち着かず、とりあえずベンチに腰かける。リュックを開け、持ってきた「駿」の茶袋を確認し、ふーっと一呼吸。目を閉じ、駿の姿を想像する。もう一年近く会っていない。前回会った時は髪を切ったばかりで初々しく、まるで中学生の時のようだったので思わずバカにしてしまった。照れくさそうに怒る駿が愛おしいと思った。その気持ちが態度に出ないようにするのに苦労した。思い出の中の駿から戻って来られなくなりそうで目を開ける。電車の到着を告げるアナウンスが流れる。このままどこかへ行ってしまいたい気もする。だいたい、駿に会って、本当に想いを伝えられるのだろうか。伝えていいのだろうか。何年も隠してきた想いを、今さら。

 やってきた電車をどこか他人事で見つめる。乗ってしまえばもう、引き返せない気がした。夢の中で手を差し伸べてくれた駿が頭を過ぎる。もう、手を差し伸べてさえくれなくなるかもしれない。ただの友だちでいた方がいいのかもしれない。その方が関係を長く続けられるかもしれない。親友であり幼馴染という立場は唯一無二だ。それで十分じゃないか。なぜ満足できない?ーーーそれでも。

 開く電車のドアが「おいで」と誘う。勇気のない自分を試すように口を開けている。発車するギリギリで電車の中へと滑り込む。音を立てて閉まるドアが「もう逃さない」と言っているようで。暗くなり始めた車窓に、自信なさげな自分の顔が映っている。
「なんて顔してるんだよ」
 あまりに頼りない表情に笑えてくる。こんな顔じゃ、恵那が心配して呼び止めるわけだ。この村とは違う時間が流れるあの街で、駿は待ってくれているのだろうか。情けない自分の顔を見たおかげで、何かが吹っ切れた気がした。電車がスピードを上げていく。街のあかりが増えるにつれて、車窓に映る自分の顔は夜の景色に混ざっていく。自分の輪郭がわからなくなる。それでいい。きっと、それぐらいがいいんだ。自分という存在を思い知らされる田舎は時に都会よりも残酷で、もしかしたら駿は、そんな田舎に嫌気がさして出て行ったのかもしれない。早起きして集中し続けていた疲れが出たのだろうか、そんなことを思いながら電車に揺られているうち、気づけば眠たくなっていた。


 電車を2つ乗り継ぎ、さらに名古屋駅から地下鉄に乗り継いで、駿の家の最寄り駅に着いた頃にはもう19時半になっていた。一度だけ来たことがあるこの駅は、学生に人気の駅らしく人通りが多い。夕飯どきという時間帯も相まって、今日は前に来た時よりもさらに賑やかで駅前の風景はギラギラとして見える。都会の大学に通っていたら自分もこんな風に無邪気に友だちと肩を組んで笑い合う夜を過ごしていただろうか。防霜ファンの音で起こされ、5月でもマイナスの寒さの中、新芽の成長具合を見て回る朝も、村中から集まった茶葉を徹夜で仕上げる夜も無かったのだろう。羨ましくはない。むしろ意味もなく飲んで騒ぐだけの生活で自分の時間を無駄にせずに済んで良かったとさえ思う。強がりではなく、本当に。

 待ち合わせ場所はここで合っている。北改札を出てエレベーターで上に上がったコカコーラの自販機の前。
「ちょい遅れる!ごめんな!」
 地下鉄に乗っているときに届いたメッセージを確認するのはこれで20回目。新しいメッセージが届いていないか気になってしまうのだから仕方がない。駿が打った文字だと思うだけで、なんでもない言葉が愛おしく見えてくるから不思議だ。やたら「!」が多い文章は中学の時から変わらない。恵那曰く「そっけなさすぎてムカつく」らしい自分の文章とは対照的な、体温を感じさせる駿のメッセージが昔から好きだ。もうほとんど病気だと思う。治る見込みのない、厄介な病気。

 21回目のメッセージ確認をしようとした時、背後から走ってきた誰かがそのままの勢いで洋平を小突いた。「うわ」っとよろけた瞬間、駿だと察する。
「おっす」
 満面の笑みで、洋平とほぼ同じ身長の駿が肩を組んでくる。ここに来るまでに頭の中をぐるぐるぐるぐる巡っていたあれやこれを一撃で吹き飛ばす破壊力を持った笑顔。めまいがする。ギラギラした街の光も駿と比べれば霞んで見える。あぁこのために生きてきたんだ。
「こんな雑にぶつかってきて人違いだったらどうすんだよ」
「え、間違うわけないじゃん」
「いや、間違えるだろ、普通に。一年以上ぶりなんだし」
「俺が洋平を誰かと間違えることはない」
 無自覚、というやつだ。本当に、勘弁してほしい。今にも溶けてしまいそうな表情筋に全神経を集中させ、必死に冷静なフリをする。されるがまま、駿に肩をガッツリ組まれて歩き出した夜の街は、数分前とは全く違った輝きを放っていた。

「忙しくて全然片付けらんなかった」
 そう言いながら駿がドアの鍵を開けている。前に遊びにきた時はまだ大学の寮に住んでいたので寮のロビーまでしか入ることができなかった。ロビーでだべっている間に偶然通りかかった何人かの寮生たちに挨拶だけして、洋平が泊まるホテルで部屋飲みをして、帰るのが面倒になった駿がそのまま泊まって行った。警戒心ゼロの駿は無防備すぎて、勝手に緊張して一睡もできずに朝を迎えたのが懐かしい。

「別にいいよ、いつも通りで。今さら気使われても」
「いやいや、親しき中にも礼儀ありって言うじゃん?」
「じゃあ片付けとけよ」
 二人で笑い合う。なんだ、普通だ。普通にできてる。良かった。駿がドアを開けて洋平を招き入れる。玄関に並ぶたくさんのスニーカー。駿ってこんなにスニーカー好きだったっけ?正体不明の違和感が押し寄せる。玄関に散乱するスニーカーはサイズがバラバラだ。駿の足のサイズは26cm。178cmの身長の割に足が小さいことをよく気にしていた。バカの大足、間抜けの、アレである。でも明らかにここには26cmより大きなスニーカーが混ざっている。駿のものではないスニーカーはざっと数えただけで少なくとも4足。ちょっと置いて行ったにしては数が多すぎる。これはもしかしてーーー
「それ後輩の。今、一緒に住んでる」
 駿が少し照れくさそうに言う。しまった。色々と考えていたのが顔に出ていたのかもしれない。
「え、ルームシェア?知らなかった。言ってくれたら良かったのに」
 顔が引きつる。平常心ってどうやるんだっけ。
「気にしないで。あいつバイトでどうせ朝まで帰ってこないから」
 あいつ、とは。否が応でも凝視してしまう、駿のスニーカーとお揃いや色違いのそれらを。

 急速に大きくなって全身にまとわりつき始めた違和感を振り払い、駿に続いて部屋の中へ入っていく。窓のカーテンレールにかかった部屋干しの服を見て、振り払った違和感が意気揚々と舞い戻ってくる。竜巻級に成長した違和感に煽られて、油断すると立っていられなくなりそうだ。
「後輩くん、でかいの?」
「うん、でかい。え、なんでわかるの?」
「靴も服も、なんか駿のよりデカいから」
「あ、そっか」
 部屋干しの服を取り込みながら、駿が嬉しそうに笑う。
「体だけじゃなくて態度もでかい。でもまぁ、器もでかいのがいいところかな」
 何が面白い?何も面白くない。だらしなく目を細めて歯を見せて、自分に見せたことのない表情で“ただの後輩くん”の洗濯物を畳む駿なんて見たくない。いや、“ただの後輩”だ。普通の男同士のルームシェアじゃないか。普通の。普通?そう、普通の。普通……普通、とはーーー
「洋平?」
「あ、ごめん。ぼーっとしてた」
「長旅で疲れたよな?ごめんごめん、なんか飲み物用意するから適当に座ってて」
「悪い、ありがと」

 違和感の正体に気づかないようにしながら、“ただの後輩くん”が日々座っているだろうソファに腰を下ろす。金髪の髪の毛が一本目に入る。駿はキッチンで飲み物を用意してくれている。気づかれないうちに髪の毛をつまみ上げる。猫っ毛だ。金髪の泥棒猫、か。モヤモヤとした黒い塊が自分の奥底に生じたのを感じつつ、つまんだ金色の髪の毛を駿に気づかれないようにそっとポケットにしまう。なぜそうしてしまったのか自分でも説明ができないが、いわゆる手が勝手に動いたのだから仕方がない。変態じみた行動に背徳感と妙な高揚感を覚える。
 突然、全身黄金の毛に身を包んだ美人な猫が洋平の前に現れる。駿の脱ぎ捨てた上着の上で気持ちよさそうに伸びをして、チラッとこちらを試すような視線を向けてくる。思考が止まる。目を離せずにいると、猫は駿の上着に顔を擦り付け、愛おしそうに「にゃあ」と鳴いた。

「お待たせ」
 駿が冷茶を運んでくる。すると黄金の猫はパッと消え、代わりに綺麗な黄緑色の透き通った液体が目の前に現れる。疲れているんだ。朝からずっと製茶場にこもっていたんだから無理もない。
「あ、ありがと。駿が淹れたの?」
「もちろん。腐っても茶農家の息子だし」
 珍しく寂しさと自虐が滲む声に気づかないフリをして、汗をかいたグラスに手を伸ばす。一口ふくみ、鼻から抜ける香りを味わう。すぐにわかった。駿の実家のお茶だ。浅蒸しのすっきりとした爽やかさと程よい渋み。寒暖差が激しく霧が出る山間部で収穫するお茶特有の味わい。間違うはずはない。でもあえてその点には触れないようにした。駿がどういうつもりで実家のお茶を自分に出したのかはわからないが、わざわざ話題にするのは野暮な気がする。視点を変えてみる。
「オンザロックだね」
「さすが」
「こんなの誰でもわかる」
 駿がふっと笑う。同じ冷茶でも、水出しとオンザロックは味わいが全く異なる。日本茶は抽出温度によってまろやかになったり、渋みを適度に残した味わいになったりする。日本茶好きならば、一口飲めばその違いは明らか。駿が用意したのはお湯で抽出したお茶をコップいっぱいの氷で急冷する「オンザロック」と呼ばれる方法で淹れたもの。
「晃士郎はわかんないんだよなぁ、こういうの。舌バカなんだよ」
 得意気だった表情がみるみる崩れていくのが自分でもよくわかる。それに全く気付かずに話を続ける駿の膝の上にまた、黄金の猫が現れる。

「あ、晃士郎ってのは、同居人のことね」
「へえ。後輩くんも、日本茶飲むんだ?」
 名前を教えられたところで、そう簡単に呼ぶつもりはない。自分と後輩くんはあくまで他人であり仲良くなる義理はない。晃士郎くん、なんて頼まれるまで、いや頼まれても呼びたくはないというのが正直なところだ。
「元々は全然飲まない子だったんだけど、俺がしつこく淹れるから飲んでくれるようにはなった、かな。飲んでるだけで深く知ろうって気はなさそうだけど」
 黄金の猫はこれ見よがしに駿の膝の上でごろごろし、尻尾を左右にゆらゆらと揺らしている。そうしてまた泥棒猫の金髪の髪の毛を落とすのだ。洋平の中で、背が高くて味音痴で生意気で挑発的な“ただの後輩くん”のイメージが勝手に膨らんでいく。駿が立ち上がると猫はまたパッと姿を消した。

 ローテーブルの上に、ビールの空き缶が数本と、食べかけの朴葉寿司が並んでいる。「ほおばずし」と読むこの飛騨地方の郷土料理は、主に農作業の合間に食べられてきたちょっとした御馳走ポジションの料理である。鯖や鮭の酢漬けや錦糸卵といった彩り豊かな具材と酢飯を朴の木の葉で包むだけ。初夏の風物詩でもある。自分たちは小さい頃から慣れ親しんでおり正直飽きているくらいだが、名古屋で買える場所はそう多くないはずだ。駿がバイト帰りにデパ地下の東海物産展で見つけて買ってきてくれたらしい。わざわざそんなものを買いたくなるくらいには、駿も名古屋民になってしまったのだろう。故郷を懐かしむ気持ちは、当たり前だが故郷との距離感から生まれるのであって、幼馴染との再会に朴葉寿司を選んでくれた駿の気遣いが嬉しくもあり切なくもあった。もう自分は、朴葉寿司的存在なのかもしれない。だめだ、完全に思考がマイナス方向を向いている。

 駿の家に来て2時間は経った。お酒が弱い駿は、顔を赤くして気づくと洋平の隣に座っている。今日のために準備してきたお茶はまだ渡せていない。渡すということは、想いを伝えるということで、想いを伝えるということは最悪の場合、この先ずっと、もしかしたら一生レベルで険悪な状態が続くかもしれないのだ。そんな地獄の入り口が今この瞬間かもしれないのだから、そう簡単に踏ん切りがつくはずがなかった。そもそも本当に今日伝える必要があるのだろうか。後輩とルームシェアしている部屋で、後輩が居ない隙に、人生において最も重要なイベントを決行するというのはどうにも居心地が悪い。駿の赤いほっぺたを眺めながらそんなことを考えていると、駿がおもむろに口を開いた。
「今年の新茶、手伝いに行けなくてごめん。貴重な男手なのに」
「いや全然。大学院大変だろうし。むしろ来るなんて思ってなかったよ。ぼくも……たぶん、駿の親父さんも」
「うん、まぁ、そっか。そうだよね」
 自分で茶の道に進まないと決めて家を出たくせに、面と向かって戦力外通告されると落ち込むものなのだな、などと自分勝手な駿に少し腹が立つ。決して顔にも態度にも出さないけれど、嫌味の一つでも言ってやりたい気持ちが沸々と湧いてくる。でもそんな意地悪な気持ちは、駿が上目遣いで見つめてくれば消滅する程度の脆弱なものなのだけれど。

「今年の出来、どうだった?」
「結構良かった。全体的にレベル高くて」
「そっか、そうなんだ。肥料ちょっとずつ変えて実験してるって聞いて」
「親父さんとそんな話するんだ?」
「いや、父さんじゃなくて。母さんからの荷物に、書いてあっただけ」
 茶の道を断って名古屋の大学で経営学を学ぶと告げた時、駿の実家はかなり荒れた。安江家は男が長男の駿だけで、駿のお姉さんと妹はいつか家を離れてしまう可能性が高い。その上、駿の祖父母はもうかなり高齢で、いつ農作業から引退してもおかしくない。駿が農家を継がないのであれば、この先の農園管理は全くの他人を探してくるか、村に譲渡することになる。とはいえ、村の組合員たちも高齢化が進んでおり、村をあげて若者を誘致してはいるがなかなかうまく行っていないのが実情だ。
 貴重な男手を我が家から出せないという気まずさは相当なものであり、駿の親父さんの気持ちは痛いほどわかる。将来二人三脚で村の茶業を担っていくんだと勝手に妄想していた、というよりもはや信じて疑わなかった洋平にとっても衝撃的な出来事だった。恋人として付き合う付き合わないの次元ではなく、歩んでいく未来に駿が居ないのだと突きつけられたことが何よりも辛かった。一方で、駿がそう決断したからこそ、洋平は自分の気持ちに否が応でも向き合わなければいけなくなった。同じ場所に居られないのであれば、どうにかしてアクションを起こさなければもうこの先ずっと、駿と自分の生活が交わることはないのだから。

「来年の茶摘みは帰りたいけどなぁ……」
眠そうに、しっとりとした声で駿がぼやく。
「うん、帰ってこいよ。別に茶摘みの時期じゃなくったっていいんだし」
「でもなぁ、どの面さげてって気がしちゃって」
 ソファに深くもたれかかった駿が天井を見上げる。そのまま目線だけを洋平に移し、困ったように笑う。抱きしめてしまいたくなる衝動に駆られ、必死に理性を保とうと目を逸らす。せっかくお茶の話題になったのだ。この流れで作ってきたお茶を渡そうか。さりげなく足元に転がっていたリュックに手を伸ばす。
「明日、早いよね」
 言いながら駿が急に立ち上がり、空き缶を片付け始める。リュックに伸ばした手を咄嗟に引っ込める。
「あー、うん。早い、かな。一緒に行ってみたい日本茶専門のカフェがいくつかあって。モーニングの時間からやってるみたいだから」
「せっかくの休みなのに俺とでいいの?」
 何を言っているのだろう、この男は。駿とがいいに決まっている。一切遠慮することなく日本茶ガチ勢の話ができて、その上ーーー
「駿でいいんじゃなくて、駿と行きたいの。それで来たんだから。駿以上に適役居ないでしょ」
 スマホを渡し、Googleマップで作ってある『駿と行きたい店リスト』を見せる。スマホをスクロールしながら駿が笑う。
「洋平、相変わらず俺のこと好きすぎだろ」
 このタイトルを見せてしまったのは盲点だった。いくら幼馴染でも距離感がバグっている。会っていない間に勝手に思いを馳せられていたなんて不快を通り越して気持ち悪い。
「返して」
「なに?照れてんの?」
 今、自分、どんな顔してる?強制的にスマホを回収し、居ても立ってもいられず立ち上がる。
「あ、今日どこで寝ればいい?こっち?」
 リビングと隣の部屋を仕切っている引き戸に手をかける。
「あ、そこは」
 駿が瞬時に反応する。しまった。幼馴染とはいえ許可なく寝室のドアを開けるのは御法度だ。と気づいた時には遅かった。またしても手が勝手に動いていた。そして現れるダブルベッド。ーーーダブル、ベッド?さっきまで勝手に動いていた体は、今度はぴたりとその機能を停止した。視覚情報としてのダブルベッドは確かに入ってきているのに、ダブルベッドの意味するところを理解できず立ち尽くす。
「そこ、俺らの寝室だから洋平は悪いけどリビングで寝てくれる?」
 俺ら。そう、今確かに言った。俺ら、と。
「……男の先輩と後輩って、一緒に寝るもん?」
 身体中を渦巻く黒い塊。今にも暴走しそうなそいつを鎮めつつやっとのことで絞り出した一言だった。
「俺、好かれちゃってるからさ」
 冗談ぽく笑う駿を直視できない。“ぽい”だけで冗談ではないのは駿の顔を見れば明らかで、ついに洋平は身体中の穴という穴から溢れ出した黒いものに押しつぶされ、床の中に沈んでいく錯覚に襲われる。
「おお、そっか……。それはそれは、お熱いことで」
 夢であってくれと願いながら、自分で自分の首を絞める寒いセリフが口をついて出る。口だけはまだ機能停止していなかったらしい。
「なんだよ、それ」
 頬だけでなく耳まで赤くなって洋平を小突く駿が可愛くて、めちゃくちゃにしてやりたい衝動が駿に触れられた右の二の腕に集まって吹き出しそうになる。悔しい、最悪だ。自分だって赦されたかった。赦される可能性があったのだ。だって赦されたのは同じ男なのだから。暗い寝室のベッドの上で、金色の猫が「にゃあ」と鳴いた気がした。


 リビングの掛け時計は朝の6時。カーテンの隙間から少し陽が入っている。一睡もできないのではと思ったはずなのに、いつの間にかひとりソファでぐっすりと眠ったらしい。視線だけで部屋を見渡すが駿の姿はない。自分の寝室で寝たのだろう。ーーーあ、そうか、寝室か。自分で自分にカウンターパンチを喰わらせてしまい、二度寝もできそうにない。朝までバイトだったはずの“ただの後輩くん”は帰ってきたのだろうか。それ以上考えると今度こそ自滅しそうなので、心を無にして目を閉じる。

 ガチャっと鍵を開ける音がして、体がビクッと強張る。ほとんど反射的に掛け布団を頭から被っていた。隠れる必要はないはずなのに、見つからないことなど不可能なのに、できることならこのまま永遠に会いたくないという気持ちが起こした行動。見たくもないし、見られたくもない。なぜ昨日、無理矢理にでも帰らなかったのか。人生最大と言っても過言ではない後悔が押し寄せる。そして後悔と呼応するように迫ってくる足音が、洋平のすぐ側でピタリと止まった。素早い動きで掛け布団の中に潜り込んだ大きな人影が、そのまま洋平に抱き付く。
「うわっ!」
「ただいまー」
 布団の中、くぐもった声が会話する。
「違う、違う、違いますって」
「何が違うん? お帰りのちゅーしてほしいねんけど」
 布団がもぞもぞと波打ったかと思うと洋平が顔を出す。続いて晃士郎が、慌てる様子も無く布団から顔を出し、ゆっくりと洋平から離れる。まじまじと洋平を見てウェーブのかかった少し長い金色の髪を掻き上げる。
「あれぇ?」
 予想通り金髪で大きくて、でもなんだかとても柔らかな、朝の光のような人だと思った。
「そっか、今日駿くんのお友だち来る日やったか。えらいすいません。おはようございます」
「……ございます」
 涙が出そうだった。恵那風に言うなら、それくらい「尊い」笑顔だった。初めて見る恋敵は、ぐうの音もでないくらいの尊さを持って目の前に降臨し、1ミリの悪気もなく洋平を駿の「お友だち」呼ばわりした。全く嫌な気がしなかった。“ただの後輩くん”は、黄金の猫が擬人化したような飄々とした佇まいでそこに存在していた。叶わないとすら思えない、圧倒的な存在感を纏って。

「晃士郎!」
 駿が寝室から飛び出てくる。晃士郎が目を細めて駿を見る。
「ごめんな、駿くんやと思って間違えてお友だちに抱きついてしまった。あ、駿くんおはよ。……今日もかっこええね」
「どう見ても寝起きだろ」
 顔を見合わせて笑顔になる駿と晃士郎。二人だけの時間が流れているかのようで、言葉を失う。ずっと聴いていたくなる心地よい関西弁に絆されたのか、昨夜洋平を押し潰した黒い塊は嘘のように気配を消している。
「いつも話聞いてます。やっと会えて嬉しいです。駿くんと付き合ってます中村晃士郎です」
「あ!まだ付き合ってるとか説明してないから!」
 返す言葉が見つからない。目の前のこの人に勝たなければ、この人から駿を取り返さなければ、自分と駿が交わる未来は永遠に来ないのに。それなのに。
「え、なんで?昨日の夜、積もる話したんやないの?」
「いやしたけどさ。したけど、久々すぎてまだそこまで辿り着いてないってゆうか」
「わけわからんわ。たどり着くも何も真っ先に伝えることちゃうの?同棲してる家に呼んでるんやから、俺らの愛の巣ですーいうて説明すればええだけやろ」
 目の前で交わされる会話はどこか遠く、ふわふわと部屋の中に溶けていくように感じる。ぼうっとカーテンから差し込む光を見つめていると、駿がソファに腰かけてきた。
「びっくりしたよね。なんか、ごめん」
「え、それは、何に対して?」
 穏やかで冷静な受け答えに、自分自身が一番驚く。またしても口が勝手に動いてくれているようだ。
「いやだって、男同士で付き合ってるわけだし。そういうの、今まで洋平にも言ってなかったから」
「うん、それはそう、だね」
 気まずくなりかけた空気を一蹴するように、晃士郎が洋平の肩を抱く。突然のことに固まり、されるがままになる。
「そんなん今時珍しくもなんともないよな? な? 洋平くん」
 顔のすぐ横で猫っけの金髪が揺れ、光を反射して煌めく。不思議と心が
落ち着いて、しっかりと駿の顔を見ることができる。
「うん。気にしない。駿が選ぶ道は、いつだって応援する」
 駿がごくりと唾を飲むのがわかった。そして、おそらく思っているよりずっと緊張していたことも。自分に余裕がなくて気づけなかったが、昨晩も駿なりに切り出すタイミングを図っていたのかもしれない。駿の手を取る。晃士郎が見ているが、この程度、晃士郎は気にしないだろう。それだけの余裕と結束が、この二人からは感じられる。
「駿、話してくれてありがとう」
 完全敗北を認めたに等しい言葉だった。恋人として、おそらく自分は絶対に晃士郎には叶わない。それに今二人を引き裂こうと画策したところで誰も得をしない。恋人がいることがわかり、こうして相手に直接会えた。キッパリ諦めるのに、これ以上の条件はないだろう。寂しい。悲しい。でもーーー
「駿の恋人が晃士郎くんで良かった」
 優秀な口がまた一つ、期待に応える働きをしてくれた。


 玄関で靴を履く洋平を、駿と晃士郎が見送ろうとしている。
「洋平、日本茶カフェ、本当に行かなくていいの? 元々出かける予定だったんだし、晃士郎に気使わなくていいのに」
「そうですよ。ほんまに帰るんですか? 夜勤明けで俺これからどうせ寝るだけやし」
「いいよいいよ。日曜に押しかけちゃってごめん。駿に同棲してる彼氏がいるなんて知らなかったから。知ってたらこんな図々しいことしなかったし」
「俺、そんなん全く気にせえへんけどな。洋平くんが駿くんにとって大事なんは聞いとったし。それに二人はただの幼馴染なんやから。俺に遠慮することなんてなんも無いよ」
 駿と晃士郎が見つめ合う。洋平の中で、ほんの少し、黒い塊が起きる気配がする。1ミリも悪気のない笑顔とは、こんなにも凶暴なのか。黒い塊が動き出す前にこの場を去った方がいい。自分の中で晃士郎の存在がこれ以上大きくなる前に。まだかろうじて“ただの後輩くん”の名残を感じられるうちに。

「あ、駿、そういえば一つだけ確認。おばさんたちってゆうか家族の誰かは……このこと知ってる?」
 駿を見据える真っ直ぐな目。先に目をそらしたのは駿だった。
「まだ……まだ、言えてない」
「わかった」
「でも言おうと思ってる。言いたいって、思ってる」
「うん」
「本当は、今年の新茶シーズンに晃士郎も連れて帰って紹介したかったんだけど」
 駿の指先がほんの少し震えている。できることなら両手でその震える指先を包み込んで、大丈夫だよと言ってあげたい。でも、そうすべきは自分ではないことは、もう十分すぎるほどにわかっている。
「そんな焦らんでも大丈夫やって。駿くんが大丈夫って思えるタイミングが来たらでええんやから」
 晃士郎が駿の頭を撫でる。視線だけを洋平に向け少しだけ口角を上げる様は、さながら昨夜の黄金の猫のようで。泥棒猫で人たらしーーー。黒い塊がどろりと、はっきりと動き出す気配がする。さぁ、最後の一仕事だ。優秀な口よ。
「また遊びに来る」
 精一杯の笑顔を置き土産に、ドアノブに手をかける。外へ一歩踏み出すと同時に、駿が呼び止める。
「洋平!」
 最後の力を振り絞り、振り返る。
「そういえば、何か俺に渡しに来たんじゃなかったの?」
 製茶場の景色がフラッシュバックし、茶の薫りが吹き抜ける。
「……」
「洋平? 大丈夫?」
「なんでもない。渡そうと思ったけど、やっぱ今度でいいや。じゃあ、また」
 今度なんてあるものか。目の端に晃士郎が金色の髪を掻き上げる姿を映しながら今度こそ外へ出る。後ろ手でドアを閉める瞬間、部屋の中から「にゃあ」と鳴く声が聞こえた気がした。
 
 駅へ向かう足取りが重い。バカがつくお人よしだ。完全にやられた。相手の思う壺だった。晃士郎は洋平が来るのを知っていた。知っていたにも関わらず、余裕でバイトを入れ、幼馴染と恋人に二人きりの夜を提供してあげたのだ。一枚も二枚も上手と言わざるを得ない。
 全部幻だったらいいのに。立ち止まり、ジーンズのポケットに手を突っ込む。そこには確かに、金色の髪の毛の感触があった。取り出そうか迷っていると、反対のポケットでスマホが鳴った。恵那からのメッセージ。
「駿くんとモーニングデート中かな?」
 無邪気に添えられたハートの絵文字が痛々しい。そうだった。お茶を渡したら報告するように言われていたのに完全に飛んでいた。申し訳ないやら情けないやらでぐちゃぐちゃになった頭でとりあえず恵那に電話をかける。ワンコールで恵那が出る。
「お兄ちゃん? どした?」
 心配を滲ませまいと明るく振る舞う声が、兄の不甲斐なさを突いてくる。油断すると弱音が雪崩を起こしそうだ。唯一応援して送り出してくれた妹に、何一つ兄らしい報告ができない現実。一呼吸置き、意を決して精一杯いつも通りの声を出す。「今から帰る」
 恵那が電話の向こうで息を呑むのがわかる。
「は、なんで? お茶、渡したんだよね?」
 黙って歩き続ける。
「お兄ちゃん?」
「ごめん、渡してない」
「なんで」
 この先を発するのが怖い。あんなに優秀に働いてくれた口は、もう勝手には動いてくれなかった。
「付き合ってる人がいた。同棲してた」
「え」
「しかもさ、男だったんだ。駿の恋人。すごく魅力的で駿に相応しい……泥棒猫って感じで」
「……どういうこと?」
 自分で言っていて可笑しくなってくる。
「ほんと、どういうことなんだろうな」
 電話の向こうで子どもたちの声がする。土曜出勤で保育園に居るのかもしれないと気づく。
「それっていい人なの? 悪い人なの?」
「もしかしてこれから出勤するところ?」
「そんなの今どうでもいいよ」
 可愛い妹の声が掠れていく。
「どうでもよくないだろ。悪い、出勤間際に電話しちゃって」
「大丈夫。大丈夫だけど、大丈夫じゃない」
「うん」
「だって。だってさ……何年分の気持ち込めたのよ」
 恵那の言葉に思わず立ち止まる。何年分、だったんだろうか。駿をイメージしたお茶の候補はシングルオリジンでもいくつか考えたが、一つの品種で表し切れるものではないと早々にブレンドに舵を切った。単一ではなく、何層にも薫りのレイヤーを重ねなければ駿のイメージも、駿への気持ちも完成しないと確信したからだ。決してブレンドのスタンダードとは言えない「香駿」を軸に、茶師としての想像力と幼馴染としての駿への解像度を掛け合わせ、他の誰にも作れない絵を描けたと思う。それなのに。完成した時のあの達成感と自信は、検茶室に置いてきてしまったのだろうか。

 啜り泣く恵那の声を聞いていると、不思議と涙は出なかった。代わりに泣いてくれる人がいるのはありがたい。泣いていい状況なのだと、それなのによく生きて立っているねと、肯定されている気がした。
「駿くんに飲んでもらわなきゃ意味ないじゃん」
「……まあね」
「男が居たからなんなのよ」
 ほとんどヤケクソみたいな恵那の言葉が血液に乗って、体の中を巡り出す。

 茶畑を歩く学ラン姿の駿が蘇る。
「洋平が茶師になれたらさ、最初に仕上げたお茶は俺が飲んであげる」
「なんで上からなんだよ」
「別に洋平の上にはなりたくないし」
「じゃあどこから言ってんの」
「うーん、前?」
「なんだよそれ」
「だってずっと後ろは守ってほしいじゃん? 俺が置いていくことはあっても、洋平が俺を置いていくことはないってゆう最高の布陣」
「自己中すぎんだろ」
 
 どう考えても諦めるしかないこの状況で、思い出すのは眩しかった瞬間ばかり。
「当たって砕けたら、白川駅まで迎えに来てくれる?」
「その前に、私が代わりに殴りに行くし」
「恵那、俺のことほんと好きな」
「うるさい。とにかく帰ってくんな。じゃあね」
 電話を切り、踵を返して駿の家の方に歩き出す。勝算など何もない。勝つか負けるかで言えばすでに負けている。負け戦と分かっていても、人には臨まなければならない瞬間がある。勝負に負けても、人生に負けるとは限らない。自分自身に負けない限り、勝負を挑み続けることはできる。祖父が教えてくれた、否定も肯定もせずただ受け入れる茶の心。ポケットから金色の髪の毛を取り出し、風に乗せて手放す。気づけば小走りになっていた。

 駿のアパートの前まで来ると、駿がちょうど階段を降りてくるところだった。洋平に気付き、一瞬目を丸くした駿が駆け寄ってくる。
「洋平! なんか忘れ物?」
「うん、忘れ物といえば忘れ物、かな」
「うち戻る? 晃士郎寝ちゃってるから言ってくれれば取ってくるけど」
「いやそうじゃなくて」
 庇護欲を掻き立てる駿の瞳に吸い込まれそうになりながら、リュックから持ってきたお茶の袋を取り出す。何も言わず差し出すと、ラベルに書いた『駿』の文字に、駿の視線が留まる。
「…初めて自分一人で仕上げた。俺、香駿が一番好きで」
「うん」
「香駿をメインにして、駿をイメージしてブレンドした」
「うん」
「渡したかったのは、これ」
 駿がゆっくりと、袋を受け取る。
「さっき渡してくれれば良かったのに」
 口から心臓が出そうなんてありきたりな表現にはうんざりする派なのに、今はありきたりに口から心臓が出そうな状況なのだと思う。何度唾を飲み込んでも喉はカラカラのままで、次の一言を発するまでの時間はひどく長く感じられた。
「駿をイメージして作ったってのは、どういう意味だと思う?」
「あの約束、守ってくれたんじゃないの? 俺が一番最初に飲んでやるって言ったから」
「あぁ、確かに。そんなこともあったね」
「ってことは違うのか」
「駿をイメージするには、誰よりも駿を知っていなくちゃいけない。誰よりも、駿を想っていなくちゃいけない。ぼくは、誰よりも解像度高く、駿を理解してる
自信がある。少なくとも、ここ1、2年で出会った彼氏よりずっと」
 駿の大きな黒目が揺れる。早く次の言葉を言ってくれ、かもしれないし、もうこれ以上何も言わないで、かもしれないが、助けを求めているのは違いない。不安な時の駿はわかりやすくて、どうしようもなく可愛い。
「正直、晃士郎くんがただの後輩だったら良かったのにって思ってる」
「……晃士郎のこと、認められない?」
「いや、そうじゃない。晃士郎くんは、多分すごく、駿に相応しい人だと思う」
「じゃあなんで」
「だからこそ、出会ってほしくなかった。駿の一番近くに居るのは……」
 今まさに大事なことを伝えようとしているはずなのに、しきりに瞬きをする駿のまつ毛が気になって仕方がない。長いまつ毛が影を落として、駿の表情に深みを増している。
「後ろからじゃ、まつ毛も見えないし、笑顔も泣き顔も見れないんだよ」
「そんなの見なくったって、洋平は俺のことわかるじゃん」
「絶大な信頼を置かれてるわけだ」
「そりゃそうでしょ、何年付き合ってると思ってんの」
「でもぼくは、幼馴染の信頼よりもっと欲しいものがある。後ろでただ見守るだけの役目はもう卒業したい。晃士郎くんのおかげではっきりした」
 駿が力を入れて茶の袋を持つものだから、袋がしわしわになっている。
「駿、この先、言ってもいい?」
「……聞くだけなら、晃士郎を裏切ることにはならないのかな」
「それはわからない。ぼくは晃士郎くんじゃないから」
「だよね。ごめん」
「そのお茶、飲んだら感想聞かせて」
「うん、分かった」
「駿のこと、好きだった。ずっと」
  駿が俯く。
「幼馴染のふりしててごめん」
 鼻を啜る音がして、アスファルトにぽたっと雫が落ちた。
「大丈夫、恵那が骨を拾ってくれるらしいから」
 俯いたまま「ふっ」と吹き出したかと思うと、駿が泣き笑いを始める。肩を揺らして泣く駿が愛おしくて抱きしめる。幾度となく夢に見たハグなのに、思っていたのとは違っていて。嬉しいよりも好きよりも、もう二度とこんなことはできないのだろうなとこの状況を冷静に俯瞰で見ている自分が居た。

「じゃあ、そろそろ帰るね」
 返事ともつかない曖昧な「うん」を聞きながら、駿からそっと離れる。
「そういえば、どこに行くところだったの?」
「せっかくだから『駿と行きたい店リスト』に書いてあったお店にモーニング行こうかと思って」
「その名前口に出すな」
「洋平、ほんと俺のこと好きな」
 昨日より心なしか遠慮気味に駿が言い、二人で笑い合う。
「洋平も行く?」
「気まずくね?」
「こういうのはさ、初動が肝心なのよ」
「それ駿が言う?」
 どちらともなく、駅の方へ歩き出す。
「恵那ちゃんに骨拾いにこなくていいよって言っといて」
「え? いやこれ完全に拾うコースなんだけど」
 駿が洋平の肩に手を回す。昨夜再会した時の二人にはもう戻れない。でも、後悔はない。当たって砕けた骨は自分で拾えばいい。
「俺が拾ってあげる」
「振った張本人がなんでそんなこと」
「それは幼馴染の特権」


 目指していたモーニングの店の前で、立ち止まる。
「洋平、ほんとに帰るの?」
「うん、恵那に帰ってくるなって言われたから、帰る」
「なんだよそれ。わけわかんねえ」
 自分からこの場を去らなければ。駿はきっと優しいから、自ら背を向けることはしない。「じゃ、ここで」と言いかけて、ふと口をついて出た。
「来年は晃士郎くん連れて茶摘み来てよ」
 駿が目を丸くする。すぐに「うん」とは言えないのだろうけれど。それでもーーー
「その方がいいよ。そうしてよ、絶対。待ってるから」
 眩しそうに目を細めた駿の顔を目に焼き付け、駅へと歩き出した。


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