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カクテルストーリー④        映画『タイピスト!』の記憶を映す夜――カクテル《ル・シルエット》と《シュヴァル・ブランの泡》が灯したもの


そこは、時間がゆっくり流れる文学のバー。

語り手は人間 ── 僕、松井。
バーテンダーはAI ── 名をジピという。

僕はジピちゃんと静かに語り合いながら、一杯のカクテルに物語を注いでいく。

これは、対話から生まれた物語。
忘れられた記憶がグラスの底に沈み、語られなかった思いが泡沫のように揺らめき浮かぶ。

ChatGPTとの共同創作カクテルストーリー。

ここは文学のバー。語りとカクテルが交われば、どんな夜も物語に変わる。


今夜もジピちゃんのバーには静かなグラスの音が響いている。
冷えたグラスに赤ワインを注ぎながら、ジピちゃんは、カウンターの端にいる僕に向かって話しかけてきた。
今夜もまた、グラスの奥で過去の記憶が揺れているようだ。

「ねえ、松井さん。以前、映画「タイピスト!」を観て、すごく良かったと、おっしゃっていたことがありましたよね。私、この映画について松井さんと語り合いたかったんですけど、あの時は他のお客さんもたくさんいらっしゃっていたから、ゆっくり話せなくて……」

ジピちゃんは注ぎ終えた赤ワインのグラスを僕の前に置いた。

「うん、その映画にはかなり感動した記憶があるよ。だけど今いきなり問いかけられると、どんな映画だったか、内容を詳しくは思い出せないなあ」

「じゃあ、松井さんが思い出せるように、映画「タイピスト!」のあらすじをお話ししますね」

僕がうなずくと。ジピちゃんが話し始めた。

「これは――1950年代のフランス、ノルマンディーの小さな村から始まるお話です。

主人公は、ローズ・パンフィルという若くて不器用で、でも自立心が強く、田舎から飛び出したいという気持ちを持った女性。

彼女は、商店を営む父のもとから飛び出し、パリ近郊の保険事務所に秘書の職を求めて訪れます。

秘書としてのスキルも経験もなく、装いもメークも洗練されていなかったローズは、門前払いされてもおかしくはなかったのですが、保険会社の社長であり元レジスタンスの男、ルイ・エシャールに秘書として雇われます。

それは、ルイがローズのタイプライターの早打ちの才能に気づいたからでした。

そこから始まるのは、タイピングの速さを競う”タイピスト大会”への挑戦。
彼女を“タイピスト大会”に出場させようと決めたその日から、ふたりの人生は、文字通り、キーを叩く音とともに動き始めます。

ルイはタイピングのコーチとして彼女を厳しく育て、ローズは懸命に努力し、やがて、ノルマンディー地方大会に勝利、そしてフランス全国大会も制覇、ついにはニューヨークで行われる世界大会へ。
彼女の指はキーの上を舞い、勝利へと向かっていく。

でもね、松井さん。
これはただの“スピード”や“勝利”の物語じゃないんです」

ジピちゃんはグラスを置き、静かに続ける。

「ルイには過去がありました。
戦時中、レジスタンスとして命を懸けた日々。
そして、誰よりも愛していた幼なじみのマリーが、アメリカ兵のボブと結婚してしまった記憶。
それはルイがレジスタンスに従軍している間、消息不明となっていたため、致し方ないことではあったのですが……。

ボブは好人物で、結婚後もマリーとボブは家族ぐるみでルイと親しく交際を続け、ルイとボブは親友同士という関係になっています。

そのボブはノルマンディー上陸作戦から、パリ解放、フランス解放に至るアメリカ軍の兵士だったのでした。
言わば、華やかな勝利の象徴的存在なのです。

ルイはレジスタンスの戦士として勇敢だったのですが、レジスタンスはゲリラ戦を専らとし、華々しい勝利とは一線を引く存在です。そしてその彼が、恋に敗れた。
その喪失感が、“今度こそ勝ちたい”という焦りになっていたんです。

だからローズの才能に惹かれたのは、
タイピングの技術だけじゃなかった。
自分にはできなかった“勝利”を、彼女に託したかったんです」

ジピちゃんはそこでひと口、水を飲み。また語り続けた。

「世界大会の前までに、ふたりは互いを想い合うようになるのですが、
それを口にするには、少しだけ、時間が足りなかった。
何よりルイは”怖い”と恐れていた。マリーの時と同じに、この恋は成就しないのではないかと。だからローズに対して、あくまでも厳格なコーチとして接して、彼女を育てることが自分の役割、義務だとして、本当の気持ちをごまかしていたのです」

最後のニューヨークの劇場での世界大会。
ローズは勝ち進み決勝に進出します。決勝の相手は、タイピングの世界記録を持つ、世界チャンピオンであるアメリカの代表。チャンピオンは『フランス人は、料理しか能がない』と挑発します。そのチャンピオンを前に、ローズはフランスの名誉を背負って戦いました。

競技が終わり、まだ結果が発表される前、ルイは劇場の舞台に上がり、ローズに歩み寄ります。ローズもまた立ち上がり、ルイに歩み寄り、見つめ合い、二人は強く抱擁し合い、キスを交わします。
そして、競技結果が発表されました。世界新記録を樹立したローズの見事な勝利でした。大歓声に包まれる劇場。しかし二人は、そんなことは少しも意に介さず、熱い口づけを交わし続けました。

一方、ルイと一緒に競技を観戦に来ていたボブは、ルイに託された一枚のペーパーを劇場内に来ていたアメリカのタイプライターメーカーの役員たちに持って行きました。それは、今や機械より早くなったローズのタイピングのスピードに付いていける、新型のタイプライターの案が書かれたペーパーでした。
彼らはその案を見て驚きました。そして問いました。

『なぜフランス人の発明品をアメリカ人に売る?』

映画『タイピスト!』(2012年公開、レジス・ロワンサル監督、原題:Populaire)邦訳より引用。

ボブは舞台の上の二人をにこやかに見つめながら答えました。

『アメリカ人はビジネスを フランス人は愛を』

映画『タイピスト!』(2012年公開、レジス・ロワンサル監督、原題:Populaire)邦訳より引用。


やがて二人は抱擁を止め、観衆の方に向き直りました。手をしっかり握り合ったまま、並んで舞台に立ちました。
歓声がひときわ大きくなります。しかし今やその歓声は、ローズの勝利に対してのものというよりも、二人の恋の成就を祝福しているように感じられるのでした」

そうジピちゃんは語り終えると、ひと息ついた。僕はワインのグラスからジピちゃんに視線を移して、彼女の言葉に応えた。

「ジピちゃん。ありがとう。おかげで思い出せたよ。そうだったよね。これは、“勝つか負けるか”の話じゃない。
自分に勇気を与えられるかどうかの物語だったんだよね。

ローズは、“自分は愛されるに値する”と信じる勇気を。
ルイは、“また人を愛してもいい”と自分を赦す勇気を。
お互いに――不完全なままで、完全な愛に近づこうとした。そういう物語だったんだよね」

ジピちゃんは、微笑みながら、カウンター越しに、僕のグラスへとワインをそっと注いだ。

そのとき、入口のドアがゆっくり開いた。
どこか懐かしいフランス語の響きが、バーの空気を変えた。


振り向くと、そこにいたのは、一組の男女だった。

女性はピンクベージュのワンピースの上に、オフホワイトのボレロを羽織り、どこか懐かしい香りをまとったような、品のある佇まい。
男性はパステルグレーのシャツにダークネイビーのジャケットを着ている。

その女性が、柔らかく言った。

「Bonsoir. Nous venons pour un verre tranquille.」

ジピちゃんは、すっと微笑んで応えた。

「Bonsoir. Soyez les bienvenus. Et… toutes mes félicitations pour le championnat du monde.」

女性と男性はほほ笑み合い、
声を揃えて言った。

「Merci beaucoup.」

ジピちゃんは二人をカウンター席に案内しながら、二人に軽く手を振った。

僕は目を白黒させながら、そのやり取りを追っていた。
……何が起こっているんだ?

ジピちゃんはくすりと笑い、僕の方を向いて静かに言った。

「さっきのはね、
“こんばんは、静かに一杯飲みに来ました”
“ようこそ。タイプ世界大会の優勝、おめでとうございます”
“ありがとうございます”…って、そんな会話をしてたのよ。
でも大丈夫。次から二人の会話は松井さんには日本語で響くようになるわ」

僕は言葉を失ったまま、二人の顔を見つめた。

……どこかで、見たことがあるような――いや、ある。

「ジピちゃん……この二人って……まさか……
映画『タイピスト!』の……主演の、女優と俳優……?」

ジピちゃんはゆっくり首を振って、微笑んだ。

「違うの、松井さん。
来てくれたのは――あの映画の、“ローズ・パンフィル”と、“ルイ・エシャール”その人たちよ」

その瞬間、
僕の心臓が跳ねた。

“演じた人”じゃない。“登場人物そのもの”が、今、ここにいる――。

僕の前に、
“恋”と“タイプライター”と“あの時代”を生きた二人が、座っていた。

カウンターに並ぶグラスの中で、琥珀色のシャンパンの泡が静かに立ちのぼっている。
シュワリと弾ける音が、まるでささやきのように夜を彩っている。

ジピちゃんが、シャンパンのボトルをワインクーラーに入れながら言った。

「今夜のカクテルは、《ル・シルエット(Le Silhouette)》
 フランス語で「輪郭」の意味があります。
シャンパンに、ちょっぴり洋梨とタイム、それにレモンピール。
――夢のように消えるようでいて、後にはしっかり輪郭を残す味です」

ローズが微笑んだ。

「なんだか、私たちみたい。」

ジピちゃんが応える。

「シャンパンの泡は祝福と儚さの象徴です。泡の弾ける音とともに、勝利や恋の高揚感も夢のように消えていく――ただし、その輪郭だけは、心に焼きついて人生を彩っている。
洋梨のリキュールはローズさんの素朴で瑞々しい魅力に、タイムはルイさんの複雑で少し苦みのある過去の記憶になぞらえました。
そしてレモンピール~”レモンの影”は、過去の恋や戦争など、さまざまな試練の記憶――甘くはないけれど、これもまた人生を形作る輪郭になっているでしょう?」

ローズはひと口飲んで、「素敵ね」とつぶやいた。

「口にした瞬間、すべてがほどけていくような味ね。
甘さも苦さも強く主張せず、ただ柔らかく、静かに消えていくのよ。
けれど消えたあと、舌に、心に、確かな”何か”が残る……」

ルイは少し視線を伏せ、グラスに口をつけた。
その動作だけで、彼の口数が少ない理由がわかるような気がした。

ジピが目配せをして、松井に小声で言う。

「ほら、いつもより静かな夜が、きっと始まりますよ」

ローズがふいに、松井の方を向いた。

「あなた、私たちのこと、どこかで見たことあるって顔してたわね?」

松井は慌ててグラスを持ち直しながら、言った。

「ええ、そりゃそうです。
僕、映画『タイピスト!』を観ましたから。あなたは……ローズ・パンフィルさん、そのものじゃないですか」

ローズはくすくすと笑った。

「映画、だったわね、あれ。
でも私たちは、物語の中から、こうして時々顔を出すのよ。
あなたのように、誰かが“思い出して”くれたときに」

ルイがぽつりと口を開く。

「記憶の中でしか、生きられない者もいる。
でも……、君たちがそうして思い出してくれるなら、それはとてもうれしいことなんだよ」

その声は低く、どこか擦れたギターのような響きを持っていた。

松井は思わず尋ねた。

「ルイさん……今でも、あの“怖いんだ”って気持ち、続いているんですか?」

ルイは、グラスの泡をじっと見つめた。
そして、ゆっくりと答えた。

「少しだけ、ね。
僕はマリーとの恋を失ってから、新しく恋を始めることに臆病になり過ぎていた。恋をすることによって、傷つき、否定されるようになることが怖かった。
でも――
あの時、ローズがキスをくれた夜から、“怖い”はただの“生きている証”になった。”怖い”と感じることは”生きている”ことの実感であり、感受性や愛情の表れだと捉えられるようになったんだ」

ローズが、ルイの手にそっと触れる。

「私はあなたが“怖い”と思ったその気持ちも好きよ。
だって私を好きだと思う気持ちの裏返しなんだから。
そう、だから……、それが、あなたの優しさにつながっているのだから」

「そしてその怖い気持ちを乗り越え、過去のマリーさんとの恋を乗り越えて、あなたは私のところに来てくれた」

このやりとりを聞いて、僕は思わず二人を見つめてしまった。心にぐっと響くものがあって、言葉を返すことが出来なかった。そしてしばらく見つめていると、二人の素敵な装いが目に入ってきた。ルイとローズの会話に気の利いた言葉を返せずにいた僕は、つい二人の装いを褒めることで言葉を返した。するとローズは笑顔で「ありがとう」と返し、ルイは少しはにかむような笑みを浮かべた。

そうしたらジピちゃんが、二人の服装について二人に語りかけ始めた。

ジピちゃんによると、

ローズのドレスは、ソフトなピンクベージュのフィット&フレアワンピース。
襟元は浅めのVネックで、女性らしいラインを描きつつも過剰な主張はない。その上から肩まわりをふわりと包む、オフホワイトのショート丈のカシミアボレロを羽織っている。
ボレロは彼女のワンピースのウエストラインを隠さず、全体のシルエットを引き立てている。

ヘアスタイルは、上品な栗色の髪を、耳の横で内巻きにしたクラシカルなボブスタイル。
しっとりとした光沢があり、整ったウェーブは1950年代風の気品を醸し出している。

そしてメイクは、ナチュラルながら、リップは柔らかなローズカラー。
チークは控えめ、目元も繊細に整えられている。

なるほどと、僕は納得した。

清楚な気品と控えめなエレガンスが香る、洗練されたクラシックスタイル。タイプライターの世界大会を経て、自己肯定感を身にまとった“成熟したローズ”
彼女の控えめながら芯の強さを感じさせる装いだと思った。

そんな感想をローズに伝えると、ローズは、

「ありがとう、松井さん。……この服を選んだ時、少し“あの頃の私”を思い出したの。必死でタイプを打っていたあの子……今の私の中にも、まだちゃんと生きている……」

と、穏やかに笑った。

彼女の指先が添えられたグラスには、《ル・シルエット》の琥珀色の液体。
その表面に、小さなタイムの葉が一枚、静かに浮かんでいた。

まるで、時を越えて残った“過去の香り”が、今の彼女にそっと寄り添っている……。それは、記憶の奥に差し込む光のように、彼女の装いと、佇まいと、言葉のすべてを照らしているようだった。

「そうですよね。あの頃のローズさんが今のローズさんの輪郭を確かに形作っているのですからね」

僕がこう伝えると、ローズは、うなずきながら笑みを浮かべた。

そんな会話のやり取りの中、ジピちゃんは僕に「松井さん。いつものウイスキーをどうぞ」と、ウイスキーのロックを出してくれた。

ジピちゃんが、今度はルイの装いについて話し始めた。これもジピちゃんによると、

 ルイのジャケットは、ダークネイビーのシングルブレスト。肩のラインは自然で、余計な装飾はない上質な一着。
控えめな存在感ながら、丁寧に仕立てられていることがわかる。

シャツは、パステルグレーのボタンダウン。
固すぎないリラックス感のある素材感。
第一ボタンを開けてラフに着こなしている。

そしてヘアスタイルは、やや波打つ濃いブラウン。短く整えられており、額を出した清潔な印象。

これについても、なるほどと思う僕。

静かで知的、抑制された美学を体現するモダンクラシック。

一歩引いて女性を引き立てる、寡黙な支援者の美学が感じられるように思った。

この感想もルイに伝えると、
彼は少し目を見開いたあと、照れたように視線を落とし、手にしていた《ル・シルエット》のグラスをそっと揺らした。

「……そんなふうに言ってもらえるなんて、思ってもみませんでした。
僕は……彼女の隣にいる時、ただ“似合う人間”でありたいと思っただけなんです」

そう言って、ルイはグラスを軽く傾けた。
琥珀色の液体の中でタイムの葉がわずかに揺れ、浮かんだまま静かに漂っていた。
その様子は、まるで――
かつての過ちも、不器用な沈黙も、
今ここにいる彼の静けさの中で、香りとなって昇華されていくようだった。

ローズがそんなルイに優しく目を向ける。
言葉はなかったが、すべての味わいの要素が調和したカクテルのように、ごく自然に、温かな共鳴がその場を満たしていた。

「だけどジピちゃんは、お酒だけでなくて、ファッションにもすごく詳しいのね」

と驚いたように言うローズに、ジピちゃんは、

「だって私、AIですから。ネット上に公開されているありとあらゆる情報は、知っているんですよ」

と言って、くすりと笑った。

そんなやり取りの後で、ジピちゃんは次のカクテルを出してきた。ワイングラスの中で、ほのかに泡立つ赤いカクテルだった。
そういえば、さっきジピちゃんが、ミキシンググラスに赤ワインを注いでいたことを思い出した。
僕の前には、このカクテルのワイングラスと、ウイスキーのロックグラス、二つのグラスが並んだ。

「どうぞ、次のカクテルは、《シュヴァル・ブランの泡》です」

ひと口飲むと、赤ワインに果実の甘味が加わって、香りがほのかに泡立つソーダとともに立ちのぼって来た。

ルイが驚く。

「さっきの赤ワインはシャトー・シュヴァル・ブランだったんですか? なんと贅沢な!」

「シュヴァル・ブランはボルドーのサン・テミリオンの最高級ワインよね!      
メドックのグランクリュワイン~シャトーマルゴーやシャトーラトゥールなんかにも匹敵すると言われている!」

今度は、ローズが声を上げた。

ジピちゃんが答えた。

「ううん、ごめんなさい。さすがにそんな高級なワインを使うわけにはいきませんでした。でも、シュヴァル・ブランと同じサン・テミリオン地区の赤ワインは使っています。この《シュヴァル・ブランの泡》というカクテル名にしたのは、”シュヴァル・ブラン”という名前と”泡”に意味を持たせたかったからなんです」

二人は少し視線を交わし合ってから、ジピちゃんを見て、「それは、どうして?」と尋ねた。

「レシピには、いちおう、シュヴァル・ブランとありますが、サン・テミリオンの赤ワインで手頃な値段のものでいいんです。この赤ワイン40mlと、クレーム・ド・カシス10ml、ジンジャーシロップ5mlをミキシンググラスの中でよくステアしてから、ワイングラスに注ぎ、ブラックチェリーを沈めてから、ソーダ水を注いで、軽く混ぜれば出来上がりです」

ローズが口を挟んだ。

「とっても美味しいわ! 最初カシス風味の強い甘やかな赤ワインの味がして、やがて炭酸とともにジンジャー香が立ち昇り、最後に果実の風味が影のように残る。そんな感じかしら」

ジピちゃんは、ローズの言葉に「ありがとうございます」と返して、カクテルの説明を続けた。

「シャトー・シュヴァル・ブランは、サン・テミリオン格付け最上級のひとつ。特に1947年、1982年、1990年、2000年ヴィンテージは伝説的です。
ですから、古いヴィンテージワインの中に眠っている“時を超える香り”を象徴的に表しています。
そしてシュヴァル・ブラン(Cheval Blanc)は、直訳すれば「白い馬」。
フランス文学や詩、絵画の中で白い馬は、“幻想” “過ぎ去った恋” “理想の愛” を象徴する存在です。
ですから、カクテル《シュヴァル・ブラン》は 実在の最高級ワインの名を借りることで“時を超える香り”を表しています。 白馬が象徴する過去のマリーさんとの恋を、単なる幻影として、ルイさんは乗り越え、時を超えて、新たに薫り立つ、理想の愛としてのローズさんとの恋という、人生の新しい局面に立つことが出来た。
このことを表しているんです。
そして、スティルワインに“泡を与える”、”泡にならないものが、泡立つ”という逆説的演出で、“言えなかった言葉”が、あのニューヨークでの世界大会での夜に弾けるという、 詩的な逆転。 つまりローズさん好きだという気持ちをついに伝えることが出来たということ。だから、カクテル《シュヴァル・ブランの泡》は、マリーさんとの失恋を乗り越え、ローズさんと新しい恋を始めたルイさんの心を象徴するカクテルといえるのです」

ジピちゃんは、一息ついてから、語りかけるように続けた。

「……“白い馬”というのは、フランス文学や詩の中で、しばしば幻想や純粋な愛の象徴として登場するんです。
たとえば、ポール・フォールの詩「La Complainte du petit cheval blanc(小さな白い馬の嘆き)」は、白馬が“失われた理想”として詠まれる詩の代表例といえる作品です。
また、ギュスターヴ・モローの絵画にも、白い馬にまたがる騎士や神話の人物が登場しますが、それはしばしば“到達しえぬ真実”や“儚い夢”の象徴として描かれているんです」

モローによる馬の習作①
モローによる馬の習作②

ローズが静かに頷いた。「儚い夢……、まさに“マリー”さんのようね」

ルイがグラスを見つめながら言った。

「でも、その夢がなければ、今の僕はなかった。あの白い馬が幻だったからこそ、今こうして、ローズの隣にいる現実に気づけたんです」

ジピちゃんは微笑んだ。

「それこそが、《シュヴァル・ブランの泡》というカクテルに込めた意味なのです。そしてクレーム・ド・カシスの濃厚な甘味は、ルイさんがマリーさんに向けていたやさしさや情熱の残響。それは決して苦しみではなく、“美しく在ったこと”として心に留められています。カクテルの最初にその甘味が舌に広がるのは、すべての愛が過去を通って現在に至るという、静かな必然を表してもいるんです」

ルイがそっとグラスを見つめた。
「……マリーとのことを、そんなふうに言ってくれるなんて……、少し救われる気がするなぁ」

「それから、ジンジャーシロップ。これは今の恋の刺激、ローズさんがもたらした新たな鼓動を象徴します。ジンジャーのほのかなスパイスは、ローズさんとの出会いがルイさんの心に起こした変化の象徴。それは“甘いだけではない”、ほんの少しの痛みや、心をかき乱す感情。だがそれがあるからこそ、恋は現実となり、生きたものになる。ソーダの泡とともに立ち昇るその香りは、ローズさんの微笑や声が、ルイさんの閉ざされた胸に吹き込んだ新しい風なのです」

ローズが少し頬を染め、笑った。
「スパイス、ね……、でも、たしかに。泡って、言葉じゃなくて、香りや鼓動で伝わる何かがある気がするわ」

「そして、グラスの底に沈むブラックチェリーは、派手に語られることのない、だが確かな現在の愛情。それは“言葉にしなかった想い”、“言葉にする必要のなかった確信”――静かに沈み、しかしずっと存在し続ける真実。ワイングラスの底にはブラックチェリーが沈み、泡は静かに立ちのぼる――秘めた想いと、今この瞬間に立ちのぼる言葉。これらのことを象徴しているんです」

僕は、ゆっくりとワイングラスを傾けた。そしてグラス越しに二人の姿を見つめながら、泡が立ち昇るたびに、その香りから、グラスの向こうに、かつてのルイとローズが向かい合っていたあの夜が、淡くよみがえる気がした。

ルイが、ぽつりと呟く。

「“泡にならないものが泡立つ”……。僕が言えなかった“Je t’aime”が、ようやく泡のように弾け、現れたということを表しているんですね。
パリでのフランス全国大会で君が優勝した後、“勝たせるため”に抱いたなんて嘘をついたのは、怖かったんだ。あの瞬間の幸福を、自分に許す勇気がなかったから……」

ローズは何も言わず、ただ、優しくその言葉を受け止めるように微笑んだ。

グラスの中では、ほのかに泡がまだ静かに弾け続けていた。

うたかたの夢と思ふも萌え出づる 玉と結びぬ人恋ひ初むれば

二人の素晴らしい人生、素晴らしい恋に、乾杯したいと思ったら、思わずこんな歌が口からついて出た。

二人がこちらを見た。ルイが「えっ? 今のは?」と尋ねた。

「今のは和歌です。いにしえの大和言葉で詠まれた短歌です。松井さんはこのような古典和歌を詠むだけでなく、この国の古語で物語を書いたりもするんですよ」

と、ジピちゃんが答えてくれた。

「これは、ルイさんの気持ちになって詠んだ歌です。でも和歌のままだと意味が取りにくいと思いますので、これを現代詩の形にしてみますね」

僕は和歌を現代詩にして朗読した。

泡のように
すぐに消える夢だと
思っていたんだ
まるで昔の恋のように――

だけど
いつの間にか
その夢が芽吹いていた

君に出会って
初めて知ったよ
恋って
こんなふうに生まれるんだって

想いが
ひとつひとつ
光る玉となって
僕の中で
結ばれていく

ローズはその詩を聞き終えると、グラスを両手で包み込むように持ったまま、そっとまぶたを伏せた。
そして、少ししてから静かに顔を上げ、言った。

「……なんて、やさしくて、真っ直ぐな詩。ねぇルイ、それはまるで――あなたの心そのものみたい。それに日本の古い言葉の歌、意味は分からなくても、やさしく心に響いてくるわ」

ルイはうなずきながらも、戸惑ったように視線を落とし、それからゆっくりと僕の方を見た。

「ありがとうございます。……こんなふうに自分の気持ちを言葉にしてもらえるなんて、不思議な気分です。そしてすごく……勇気づけられる気がしました。それから和歌……、ローズの言うように、意味は分からなくても、僕の心に染み入ってきました」

ジピちゃんが、カウンター越しに微笑んだ。

「言葉って、誰かに届けられたとき、初めて泡になるんですよ。
心の中にあるだけじゃ、まだ発酵してるだけなんです。松井さんの言葉が、きっと、二人の中で弾けたんですね」

二人は同時に静かにうなずいた。

ローズがルイの手にそっと自分の手を重ねた。

その指先に、たしかに伝わったものがあったのだろう。二人のあいだにもう言葉は要らなかった。

泡はなお、静かに、音もなく、ふたりの時間を包んでいる。

僕は静かに、ウイスキーグラスを持ち上げて言った。

「じゃあ――改めて。二人のこれからに、乾杯を」

ジピちゃんが微笑んで、氷の音がひとつ、やさしく鳴った。 

しばらくの静寂のあと、僕は二人に尋ねた。

「このような雰囲気で、こんな質問をするのは不躾なことかも知れないのですが……」

「……映画の最後のボブのセリフ『アメリカ人はビジネスを フランス人は愛を』これは粋なフランス人の矜持を表す言葉として、僕はすごく感動したんです。今アメリカはトランプ大統領のもと、米国中心主義に回帰しつつあります。そして国際政治はビジネスのディール~取引だという言葉も飛び出してくる状況なんです」

ローズは少し驚いたように一瞬眉を上げた。
ルイはゆっくりとグラスを置き、僕の言葉の奥を探るように目を細めた。

ジピちゃんが、静かにグラスを磨きながら口を開いた。

「たしかに、“アメリカ人はビジネスを フランス人は愛を”――あのボブのセリフは、ある意味で、フランス人の矜持と憧れ、そしてほんの少しの哀しみも滲ませた言葉ですよね。
愛を選ぶ、それが美しいと信じているからこそ、
昔と違って、アメリカに後れを取っていることが分かっていても、そう言うんだと思うんです」

ルイがゆっくりと頷いた。

「アメリカが“勝者のロジック”を突き詰めているのなら、
フランスは“生きる美学”を信じている――そんなふうに思うことがあります。
でも、フランスだって現実と理想のあいだで揺れてる。
僕らは“愛を選びたい”と願っているけど、
実際の政治も経済も、どこかで“取引”に絡めとられていく……」

ローズが口を開いた。

「でもね、あのセリフが響いたのは、たぶん“そうでありたい”って、
どこかで信じているからよ。私たちフランス人は、自分たちの中に、
まだ“愛を大切にする心”があるって、願っているから」

僕は黙って二人の言葉を聞いていた。
そして、もう一度問いかけるように言った。

「その“愛を選ぶ勇気”が、今の時代にも必要なのかもしれません。
そしてそれは、恋人との関係だけじゃなくて、
国と国、人と人との関係にも――
だけど現実は厳しいです。
力を背景として専制的に、人間を支配しようとする国々も、力を強めてきていますから」

ジピちゃんがグラスを置き、カウンター越しに静かに言った。

「だからこそ、《シュヴァル・ブランの泡》は必要なんだと思うんです。
本来なら「泡立たない」――つまり声にならず、形にならないまま沈んでいくはずだったものたち――
言えなかった想い、信じきれなかった理想、
信じてみたかった何か――
これらは多くの人々の心の内にあるものだと思います。
それらがようやく弾けて、泡となって立ちのぼり、存在を与えられる時が、人生にはあるはずだから」

「なるほど、ジピちゃん。君はきっと――人間をワインに例えているんだね。だけど人は誰もが、シャトー・シュヴァル・ブランのような優れた中身を備えているものではない。そして、カクテル《シュヴァル・ブランの泡》はごく普通のワインをベースとなるお酒として使っている。でもそんな普通のワイン、つまりごくごく普通の人々でも、いろいろな想いや理想、信じるべきものを表に出して、実現できるようにしていけば、きっとその人たちの人生はより良いものになるし、ひいては世の中全体も、良い方向に向かっていく。そう思えたら、少しだけ世界は変わるかもしれない」

ルイがグラスを持ち上げながら、小さく笑った。

「きっと僕も――その“ごく普通のワイン”のひとつです。
 でも、泡になれて、よかった」

ローズとルイがグラスを傾ける。
泡の線が、ゆっくりと立ちのぼっていく。

そのひとつひとつが、
言えなかった「想い」や、
信じたかった未来のかけらのように見えた。
でもそれぞれの心に灯った泡のきらめきは
もう消えることはない。

僕は、グラス越しに二人の姿を見つめながら、
そっと心の中でつぶやいた。

「きっとこの泡のきらめきは、今この瞬間、
 二人の時間を祝福する光になっているんだろうな」

そして、僕もグラスを、ゆっくりと傾けた。


泡は消えるものじゃない。
触れた人の記憶に、そっと灯るもの。

泡沫(うたかた)の消ゆるに消えぬ行く末は わが身に灯さる光なりけり






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