見出し画像

#2 人生の価値観は2人のじいちゃんと東京からもらった気がする、多分。

会社を経営して9年目。いよいよ来年が創業10周年。

特に未来のことは鮮明に考えず、会社を倒産させないことに全力を注いで来た9年でしたが、「果たしてこのままでいいのだろうか」と疑問に思い、ここから1年過去を振り返り、未来を考えていこうのためのnoteです。

今回は、前回の記事でも少し触れた「人生に影響を与えた生い立ちや過去のできごと」について振り返ってみようと思います。

少し長くなりますが、お付き合いください。

自分の根っこの部分をつくってくれたのは、2人のじいちゃん

1987年7月10日、青森県八戸市生まれ。

父方の祖父母はそれぞれに下宿を経営しており(元々は遠洋漁業の漁師をしていたのですが、体を壊して引退後、30年くらい?ずっと下宿を経営をしていた)、僕が生まれてから妹が生まれるまでの数年間は、祖父と一緒に下宿の敷地の一部に住んでいました。

八戸のじいちゃん(元漁師でその後下宿経営)

「幼少期の記憶は?」と聞かれると、この時代のことを思い出します。

下宿に住んでいる大学生と一緒にボール遊びをしたり、悪いことをした大学生の部屋にじいちゃんがブチ切れに行ってるところについていったり。自動販売機にジュース缶を入れるのを手伝ったり。大学生30人分くらいのどでかい炊飯器でご飯を炊くお手伝いをしたり。

じいちゃんはとっても起用で、なんでも手作りしちゃうので、木でおもちゃや凧を作ってくれて、それで遊んでいた記憶が鮮明にあります。一緒に釣りに行ったとき、そこらへんに落ちてる犬の毛や、カラスの羽みたいなのを適当に使ってルアーを作って、魚を釣っていた様子を見たときは、さすがにひきました。

一方の母方は、銀行勤めというお堅めな家系で、母自身も、大学を卒業してから結婚するまで銀行で働いていました。母の実家は青森県弘前市にあり、八戸市とめちゃくちゃ近いわけではないのですが(車で2,3時間くらい)母の祖父ともよく会っていた記憶があります。

弘前のじいちゃん(銀行員)

僕は母方のじいちゃんに顔がそっくりと言われていて、多分じいちゃんもそう思ってくれていたのか、たくさんかわいがってもらいました。幼少期の頃、”青森県内の鉄道の駅名を、全部順番どおりに漢字で書く"という謎の特技を持っていたのですが、それはじいちゃんがいつも電車に乗せて、いろんなところに連れて行ってくれたから。

弘前のじいちゃんは、頭が良くて、囲碁とか将棋が好きでした。あと詩吟も大好きで、良く一緒に寝るときに覚えさせられたし(僕は興味なし)、ばあちゃんが亡くなったときの気持ちを、詩吟にしていました。じいちゃんが亡くなったとき、ちょうどコロナ禍で葬式に出れなかったことは、本当に後悔しています。無理やりでも行けば良かったなあ…。

下宿経営のじいちゃんと、銀行マンのじいちゃん。

僕の人間としての根っこを育んでくれたのは、この2人のじいちゃんだと思っています。共通している部分は、どちらも超がつくほどの真面目人間だということ。

だけど、お金との付き合い方はそれぞれまったく違うものでした。

自営業者である父方のじいちゃんは「お金に困らないように、とにかく働け」が口癖。じいちゃんは小学校卒業したあと、すぐに漁師になって、金銭的にもすごく苦労した生活をしていたと聞きます。それもあってか、実際にじいちゃんとばあちゃんは朝から晩まで働いていましたし、祖父母はそれぞれに下宿を持っていたので、夫婦が一緒に住んだのは70歳を超えてからでした。

八戸のじいちゃんは認知症になってしまって、最後のほうはうまく会話ができていない状態でしたが、その状況になっても「仕事はしてるか?」「ご飯食えるほど稼いでるのか?」と仕事の心配ばかりしていた記憶があります。

弘前のじいちゃんは、銀行マンということもあり、全てにおいてきっちりしているタイプ。期限やルールにも厳しい人で、例えば公共料金の払込票が届けばその日のうちに払いに行くし、毎年、年賀状受付がスタートしたその日に年賀状を投函するのがじいちゃんの決まりごとでした(絶対に元旦に届けたいらしい)。お金の支払いは遅れないとか、堅実に資産を作っていくタイプのように見えていました。

方向性は違うものの、どちらからも学んだのは「人生におけるお金の大切さ」。だからいま思うと、働き始めた最初のモチベーションは「お金を稼ぐこと」にあったのだと思います。大金持ちになりたいという意味ではなく、人生に困らないために、お金を自分の力でしっかり稼げるようになりたいというイメージ。

青森から東京に出てきていろいろと遊んだけれど、どれだけ調子にのっているときも絶対に悪いことをしなかったのは、2人のじいちゃんの背中を見て育ったおかげだと、勝手に思っています。

優等生から一転、引きこもりになった小学生時代

小学校に入ってからの僕のキャラは多分「勉強ができる子」でした。
テストでは100点しか取ったことがなかったし、周囲の友達を見て、なんでこんな簡単なテストで100点取れないんだろうと思っていました笑。知らず知らずのうちに、100点を取り続けることが自分に課せられた責任だと思うようになっていました。野球部にも入り、スポーツの面でもそれなりに活動して、多分ある程度なんでもできた子どもだったように思います。

野球部で初めてユニフォームをもらったときの写真かな

それが全て崩れたのが小学校4年生の3学期。

学校に行けなくなりました。というか行くことを諦めました。
朝起きると体調が悪くて、母親が学校休みますと連絡をすると、体調が復活するので、精神的な何かだと思います。1回長期間休むと、なかなか学校に行くこともできず、ずるずると学校に行かずに家で過ごしていました。当時も今も何が原因なのかうまく説明できなかったけど、優等生でいるプレッシャーに疲れたのか、集中力が切れたのか、なんかそういう感覚だった気がします。

当時の八戸市にとって(多分全国的にも?)、不登校はものすごくめずらしい時代でした。これといった理由もなく「なんとなく不登校」なんて子どもは本当に1人もいませんでした。正直なところ、この頃の記憶はあまりなくて、なんとなく行かなくなり、そのまま時間が過ぎてしまったような感覚でいるのですが、両親はかなり悩んだのだと思います。怒られたり、無理やり学校に連れて行かれることはなかったので感謝していますが、精神科に通って「箱庭療法(机サイズの砂場にミニチュアを置いたりする心理療法)」とかをやらされたりもしました。これがなかなか屈辱的だった記憶…

不登校中のできごとで強く覚えているのは、父と一緒にひたすら「信長の野望・烈風伝」をプレイしていたこと。

パッケージ見ただけてテンションあがるね(プレイステーション版)

時間だけは無限にあったから、それはそれはやりこみました。(伝わるかわかりませんが)僕が青森の南部家、父が鹿児島の島津家からはじめて、ちょうど天下分け目の天王山で戦うわけです。お互いの戦闘中も全部見ながら進めるので、膨大な時間を使っていたはず…。

これまでの自分を振り返ると「ゴールから逆算する思考力」は結構高い方だと自負しているのですが、それは「信長の野望」で培われた力だと確信しています。

学校に行くきっかけは突然訪れました。

学校に行かなくなって半年以上が経った5年生の夏休みのこと。母と2人で高校野球を観ていたら、PL学園と横浜高校の試合に目が釘付けになりました。横浜高校のピッチャーは松坂大輔。今も甲子園ファンの間で語り継がれている、あの「PL学園対横浜の延長17回」の試合です。その活躍ぶりに目を奪われ、延長線でも投げ続ける松坂の姿に心から感動し「もし松坂が勝ったら学校に行こう!」と決意。横浜高校の優勝をきっかけに、だんだんと学校に行けるようになりました。

そのときのことについては、講談社の大人気高校野球マンガ『バトルスタディーズ』18巻の巻末インタビューにも掲載されております(なぜ)のでご購入ください。

ちなみに…大人になってから独立リーグの球団を立ち上げることになり(なぜ)、PL学園の大西さんを自分のチームに監督にしたり、大好きな松坂に会えたりするときが来るのですが、それはまた別の機会に。

「どう見られるか」に固執し続け、上京1日目にぶっ壊された価値観

中学に進学するにあたって、僕がもっとも恐れていたのはヒエラルキーの底辺に位置すること。僕が通っていた中学校は3つの小学校から生徒が集まってくるのですが、小さな町だから、僕が「引きこもりだった子」というのはみんな知っているはず。

だからまずはその印象を払拭しなければいけないと考えました。なぜそんなに必死だったのかと言うと、僕が住んでいたのは比較的荒くれ者が多いエリアで、「弱いやつ」「舐めてもいいやつ」というレッテルを貼られてしまったら最後、地獄のような3年間が待っているからです。

引きこもりという印象を払拭するため、また、せめてヒエラルキーの中間辺りにポジションを取るために僕が選んだ方法は、シンプルに「勉強」と「スポーツ」。もともと勉強がある程度できたのと、勉強が得意ではない同級生が多かったので(ごめん)、そこそこ勉強するだけでそれなりの上位をキープできたのはラッキーでした。

加えて、野球部に入部しスポーツに打ち込む(姿勢を見せる)ことで、先輩たちにもかわいがられ、いわゆるヤンキーたちからも一目置かれる存在になろうという作戦でした。おかげで中学3年間はほどほどのヒエラルキーポジションを獲得し、気づけば高校受験の時期を迎えていました。

母方の親族がほぼ全員県内随一の進学校出身だったため、周囲も僕もそこに進むと思っていたのですが、受験の直前でチキってしまい、1つランクが下の進学校に進みました。が、これが大きな間違いだったなー!(もし人生やり直すならここ)

自分が「ランクを下げてここに進学した」と思っているから、こんな場所で友人をつくってもおもしろくなさそう勝手に判断した結果、高校3年間の充実度はめちゃくちゃ低かった。文化祭も体育祭とかのイベントも3年間で1度も出ていないレベル。

さらに、「ランクを下げてここに進学した」と思っていたくせに、いざ授業が始まってみるとその内容がさっぱりわからず(中学校で成績がよかったのはやはり勉強が得意でない子が多かったからだと再認識)、テストの順位はいつも下のほう。早々に、先生から「このままだと大学進学は厳しいぞ」と言われる始末でした。

そうした状況下でなぜか野球部に入部したのは、「ひねくれてるなあ」と自覚していた自分自身をなんとか「マトモ側」に踏みとどませるための最後の砦だったのかもしれません。野球部のキャプテンを務めた本音は「周囲からどう見られるか」を基準に過ごしていたので、キャプテンという肩書を見てもらうことによって、自分自身の価値を上げようとをしていたからだと思います(そんなキャプテンだから強くなるわけない)

高校時代に野球してる写真がこれしかなかった!

そんなこんなで高校生活をダラダラ過ごし、志望する大学進学はほぼ諦めていたものの、なぜか僕のことを気に入ってくれていた古文のおじいちゃん先生が、東京のいくつかの私立大学から指定校推薦を取ってきてくれました。もともと学校の先生になりたいと思っていたので、教職課程がある法政大学を選択。

指定校推薦の話をもらう直前まで「東京で暮らす」という未来をまったく思い描いておらず、漠然と「東京は怖いところ」というイメージがあったので最初は躊躇したのですが、東京の大学に通っていた両親からの「思っているほど怖いところではないよ。てかキャンパス八王子だし(笑)」という後押しもあって進学を決めました。

ここまで読んでくれたみなさんならうっすらお気づきだと思いますが、つまるところ、青森時代の僕はめちゃくちゃ「自分を持っていない」人間だったわけです。基準はすべて人の目と地域にあり、「誰からどう見られるか」にひたすら固執していました。

そうした価値観は、上京1日目ー
夜行バスから降り立った瞬間にぶっ壊されます。

早朝5時の東京駅を行き交う人間の数にまず驚き、「今この瞬間だけで、18年間住んだ地元でですれ違ってきた人数を超えているのでは」と思ったときに、これまでなんてつまらないことにこだわり続けていたんだろうと目が覚める思いがしました。

それは本当に、これまでの価値観が大きく崩れた瞬間でした。


ここまでご覧いただき、ありがとうございました。次回は上京後の生活について振り返る予定です。フォローしていただけると、モチベーション保てますのでよろしくお願いいたします!


いいなと思ったら応援しよう!