短編小説32「着ぐるみのバイト」
暑い。というよりも蒸している事の方が辛い梅雨時の午後。可愛いクマさんはフラりと揺れながら、ビラ配りをしていた。あれは最近開店したパチンコ店のチラシだ。
着ぐるみのバイトを雇い客寄せをするつもりだろうが、パチンコ店に着ぐるみに寄ってくる客層はいるのだろうか。
おそらく……、ああ、やはり着ぐるみにタバコで焼かれた跡がいっぱいある。それなのに笑顔でビラを配るクマさん。なんと健気な事か。
「あーーーぁーーーーぢぃぃ」
着ぐるみは、ビルの隙間に隠れクマの頭をもぎり取り新鮮な空気を入れた。汗まみれの男は天都地郎(あまつ・じろう)。フリーターだ。
さっきまでの可愛らしいクマと印象はまるで違う。当たり前だ、汗だくの男なのだから。
「皮だけになっちまう…あと一時間か」
地郎はまた路上に出てビラを配、ろうとして動きが止まった。いや頭だけがゆっくりと回り、何かを追っている。
あれは、美女。
誰がどう見ても美女。
それをいつのまにか追うクマさん。
童謡『森のくまさん』が流れた。本当に。近くを通った幼稚園児たちが先生と一緒に歌っていたのだ。
「お姉さん」
小汚いクマは美女に声をかけていた。
「落としましたよ」
と、パチンコ店のチラシを。
そんなもの落とすわけがないだろう。お前が持ってた物だろう、配ってるだけだろう。周りの人間全てがそう思ったに違いない。
「ありがとう、くす」
美女は、その程度の事にも笑ってくれるとても性格も美しい人だった。
地郎は…小汚いクマはそこに付け込んだ。
「ついでに、このクマに連絡先を教えてくれませんか? 実は人間の言葉が解るんです」
「頭の良いクマさんね」
「今サケは持ってないけど、避けないでね」
「…それはつまらないわ」
美女は急に手のひらを返した。周りの男は全員あざけ笑う準備をしているに違いない。
「はい、これ私の連絡先」
「えっ、あれ、いいの?」
「交換したいって言ったのは熊さんよ?」
「ありがとう! あとで、すぐに連絡する!」
それからの残り時間、小汚いクマはとても機敏に動いていた。この小汚いクマが。
全てのビラを時間内に配り終えた小汚いクマには、さっきよりタバコの焦げ跡が大量に増えていた気もするが、元から小汚いからどうでもいいだろう。
その夜、地郎は美女とデートの約束を付けたようで、さっそく翌日待ち合わせをした。
「地郎くんは彼女いるのかしら」
「いないですよー、いたらデートに誘わないよ」
美女は、七浜綺緒(ななはま・きお)という名らしい。名前まで美しい。だって綺麗の「綺」が入っているんだもの。
きっとお母さんのお腹の中も美女なんだろう。美女の美女から美女が出てくるビジョンが見える、そんなことを地郎は言おうとしたが止めた。
ちなみに、この小汚い地郎。彼女持ちである。小汚い嘘を平然と言ってのけた。
「ほんと? 嬉しいわ」
「ホントホント、きっと俺に彼女がいないのは、綺緒さんと会うためだったんだよ」
とまぁ、小汚い男は美女の綺緒と笑いながらおしゃべりをしていたのだが、行く予定の場所を変更したいと綺緒から提案が。
しかし、地郎はその提案に快諾できなかった。言葉を濁し、多少引きつった笑顔でごにょごにょしている。
「前から行きたいと思ってたの。ダメかしら」
「ダメじゃないよ! 綺緒さんが行きたいなら是非行こうよ!」
目的地は、好きな映画の展示会だった。
そこへ向かいながら、地郎は走馬灯のように昨日の出来事を反芻する。
☆
地郎は、綺緒とデートの約束をしたそのまま電話をかけた。
「ごめん、佳賀里。明日の予定なんだけどズラせないかな。急にバイトが入っちゃって」
「え…そうなの。どこで?」
「え、ど、どこで?」
電話の相手は御代佳賀里(みよ・かがり)。小汚い地郎の彼女。やはり女の子は勘が良いのか、「どこで?」と聞いてきた。そしてやはり男はバカなもので、そこまでの嘘を作っていなかった。
「ああーぁあしたぁー事務所にいってぇーぇ場所がぁ決まる?みたいな感じ」
「ふーん、そう。わかった、じゃあ一人で行ってくる。展示会」
☆
そう。佳賀里は一人で行くと言っていた。地郎と綺緒の向かっている展示会に。小汚い地郎は、無い頭を前後左右上下裏表にフル回転して、考えた。
『佳賀里の行く時間、佳賀里の興味のない場所、会場の裏口、会った時の言い訳、綺緒の可愛いところ、綺緒の良い香り、佳賀里より綺緒の好きなところ』
いくら考えても綺緒の事しか考えてないことに気が付いて、時すでに遅し。会場に到着していた。
地郎はビクンビクンと心と脳みそ、あと心臓も痙攣させて会場入りを果たす。瞳孔は開き、眼球までビクンビクンとしているように感じた。
「着ぐるみバイト、長いの? 地郎くん」
「んぬぇっ、ぎごろ、みん?」
「え?」
「いっぱい噛んだ、気にしないで。着ぐるみバイトがどうしたの?」
「長いのかなって」
口の中が鉄の味で満たされながら、溶けて鼻から出そうな脳みそを固形に戻し思考する。正常な思考に戻るまで、多少時間がかかったためか返答に時間がかかっていた。
だから綺緒が続けて話す。
「実はね、私もしてるの。着ぐるみバイト」
こんな美女が着ぐるみを?
なんってもったいない。
「もったいない!」
地郎は口に出していた。
「もったいない?」
「あっ。……うん、もったいない! そんな綺麗なのに!」
「私、綺麗?」
「ああ、すごく綺麗だよ!」
小汚い地郎は口の中が血だらけの癖に良い雰囲気に持ち込もうとしやがってる。だが、そんなことにはならなかった。
地郎の目の前で、美女が裂けていく。
何かの表現ではない。
美女の背中が裂け、中から何かが出てくるんだ。その様子はサナギが蝶になるかのように。これは夢じゃない。
美女は裂けながら話しかけてきた。
「地郎くんのタイプだもんね、私」
「ぽぇ?」
アホ面とは、まさにこの顔。
「言ったでしょ? 私も着ぐるみバイトしてるって」
「ぽぇ?」
綺緒は羽化した。
その姿は蝶のように美しい、なんてことはなく、佳賀里。
美女『綺緒』の中身は佳賀里、地郎の彼女だったのだ。
「ぽぺぇん?」
地郎のアホ面は止まらない。
「綺麗な女の人の着ぐるみを着て街を歩くバイト。してるの」
「ぽぉ……なに、その……意味」
地郎はアホ面のまま聞く。
「依頼者は、古代より彼氏持ちの女の子によって結成されてる秘密組織《彼氏試し隊》よ」
「……こだい」
「ああ、そうだ地郎。恐ろしい世界があるんだよ」
口調の変わった佳賀里は、裂けながら伝えてくる。
「そして地郎、俺はモテない男によって結成された新興宗教《彼女作ろう世》に依頼され『一般的な彼女風女子』の着ぐるみを着て過ごしていたんだ」
彼女だった『佳賀里』は男になり、床には『美女』と『彼女』の着ぐるみが剥け落ちている最悪の景色だ。
いったい『一般的な彼女風女子』ってなんなのだろうか。状況と数々の聞き慣れない単語に追いつけない地郎の脳みそは、動くのをやめた。
着ぐるみバイトはこの世界にたくさん存在しているらしい。
地郎も『可愛いは作れルンルン』という動物愛護団体から着ぐるみのバイトを受けている。
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