父の唯一の教え「とにかく東京に出ろ」
地元の富山大学に合格をしたクラスメイトたちに見送られながら、負け組となった私は、東京の私立大学に進学のため、はくたかに乗り込んだ。越後湯沢でMaxときに乗り換える頃、車窓に広がる雪景色を見つめながら、必死に涙を堪えていたことを今でも鮮明に覚えている。
地元を離れたくなかった。
ただ田舎で育っただけなのに、なぜこんなにつらい思いをしなければならないのか。私が東京生まれだったら人生イージーモードだったに違いない。
進学先の大学は行きたかったわけでもない。
浪人したいという私の希望は叶わず「お前に1年浪人させたところで、良い大学に行ける保証はない。中途半端な大学に行くくらいなら、専門性を身につけなさい」と、父が私のセンター試験の結果を送り、合格した大学に通うことになった。
さらに追い打ちをかけるように「奨学金を借りなさい」と。後出しじゃんけんにもほどがある。私は初めて父と大喧嘩をした。
兄は関西の私立大学の工学部に通い一人暮らし中。3歳違いの兄と私。大学が1年重なるのだから、普通のサラリーマンの父とパートの母には厳しい家計だった。今はそれを理解できるが「なんで私だけ?」「有名大学じゃないから金銭的にサポートする気が失せたのか?」と、当時は理解ができなかった。
富山では進学先として、関西や愛知が人気だった。
田舎者にとって、東京はハードルが高い。そんな中、父は「とにかく東京に行け」と頑なに主張していた。
転勤族で日本全国様々な場所に住み、東京への出張も多かった父は、東京が随分と気に入っていたようだった。父同様、ミーハーな私もすぐに東京が好きになるということを、多分わかっていたのだろう。
「住む場所を選べるのは大学の4年間だけだ。社会人になれば配属先は選べない。4年間くらい、日本の中心東京に住んでみろ。楽しいぞ!」
おすすめどころではない、勝手に決められたんだ。そんなこんなで私は、納得のいかないまま東京での大学生活をスタートさせた。
女子大だから、憧れていた「オレンジデイズ」のようなキャンパスライフとは程遠かった。新宿駅では毎回迷子になり、友達に迎えに来てもらう始末。研究室と課題に追われ、バイト三昧の絵に描いたような貧乏学生だった。
それでも、電車を乗りこなせるようになり、標準語を習得し、友達もたくさんできた。テレ朝が映らない富山では見られなかった「Mステ」を初めて見たときは感動したし、いいともの観覧では、大きな声で「そうですね」と叫んだ。欲しい本は取り寄せずに本屋で手に入るし、ブランドのお洋服もたくさんある。王様のブランチで紹介されているスイーツもすぐに手に入る。東京という街は、なんて刺激的でキラキラしているんだ、テレビの世界って現実にあるんだ!だなんて、表参道を何往復もした。
東京でこれだけ楽しいなら、世界はもっと楽しいに違いない!とバックパックでアジアを旅し、気の合う仲間ができ、ベトナムのスラムでのプロジェクトを立ち上げた。ダイビングのライセンスを取得し、沖縄・グアム・パラオなどで潜った。バイト代を稼いでは一気に使い切る生活。やりたいことにブレーキをかけずやってきた大学4年間。
母の心配性も、東京には届かない。
「自分で決める」ということを私は18歳までやっているようで、やってきていなかったことに気付いた。そりゃそうだ、大学ですら自分で決めれていないのだから。東京は選択肢もチャンスも多い。100%自分の意思で決めて動けることが本当に楽しかった。その結果「事後報告」という術を身に着けた。
ちなみに、そのブレーキは今もぶっ壊れたままで、気付けばそのまま東京で就職し、海外で働き、結婚し、いまインドにいる。母は私の「事後報告」にももう慣れたようだ。
あのとき「東京に出ろ」と半ば強引にでも田舎から引っ張り出した父の言葉を、今では心から感謝している。想像をはるかに超えるくらい東京が楽しくて、なんなら日本を飛び出てしまいました~、なんて、今の私を知ったら父は驚くだろう。きっと冷や冷やしながらも見守っていてくれているはず。
居心地の良い場所に居続けるのは安心だけど、新しい場所にはもっと面白いことが待っているかもしれない!ということを知ってしまったからには、変化の少ない人生には物足りなさを感じてしまうのだと思う。もちろん変化は怖いし、不安もあるけども。
なんて、毎年受験シーズンになると父とのエピソードを思い出す。
