episode13:阿部課長の「冷めたワンプレート」と、消えない教育費──家族を守るという「正義」が、私から「自分」を奪っていく
1. 「ATM」という名のヒーロー
阿部は月曜の朝、いつものように6時15分に目覚める。
スマホのアラームより2分早い。身体が勝手に覚えているのだ。7時に家を出るまでの45分間で、洗顔、朝食、ゴミ出し、息子の水筒準備。妻は8時まで寝ている。「あなたの方が早いんだから」という、もはや疑問すら挟めない家庭内の暗黙のルールだ。
都内の分譲マンション。駅徒歩12分。購入時は「資産価値が落ちにくい」と不動産屋に言われたが、月々のローン返済額は手取りの35%を超える。ボーナス払いの月は40%だ。
大手物流会社の課長職。部下は7人。年収は額面で780万。世間的には「勝ち組」と言われる数字だろう。でも、塾代が月4万、妻のパート収入は扶養内、スマホの家族割、保険の見直し、ふるさと納税の上限額チェック──生活のすべてが「最適化」という名の綱渡りだ。
「パパ、今日テスト返ってくるんだ」
小学5年の息子が、シリアルをすくいながら言う。
「そっか。頑張ったもんな」
阿部は笑顔を作る。この笑顔も、もう何年も練習してきた。本当は昨夜の2時まで、取引先のクレーム対応でメールを打っていた。眠い。疲れた。でも、それを顔に出すわけにはいかない。
息子の前では「頼れる父親」、妻の前では「稼ぐ夫」、会社では「何でも飲み込むイエスマン」。
左手の薬指を、無意識に右手でなぞる。結婚指輪の下、少しだけ日焼けしていない白い肌が浮き出ている。10年前、結婚式の日に妻が選んでくれたプラチナのリング。外したことは一度もない。
外したくても、外せない。これは、契約の証だから。
2. 「スナック・アップデート」での詰め寄り
その夜、阿部は久しぶりに誘われた会社の飲み会を断れず、二次会として連れて行かれた店が「スナック・アップデート」だった。
カウンターには、見覚えのある顔がいくつか。営業の野崎が転職を決めたという話を聞いた。美咲という若手が副業で稼いでいるらしいという噂も耳に入ってくる。
「阿部さん、お疲れ様です!」
美咲が笑顔で話しかけてくる。彼女は最近、SNSで何かやっているらしい。フォロワーが5,000人を超えたとか。正直、阿部には別世界の話だ。
「あ、うん。お疲れ」
「阿部さんも、何かやってみたらどうですか? 課長なんだし、マネジメントのノウハウとか、絶対需要ありますよ」
いいよな、独身は。
阿部は心の中で毒づく。美咲には、守るべき家族がいない。失敗しても、自分が傷つくだけだ。でも、俺には息子がいる。妻がいる。毎月引き落とされるローンがある。
「俺には無理だよ。時間ないし」
「時間、ないんですか?」
野崎が横から口を挟む。彼は来月、スタートアップに転職するらしい。年収は一旦下がるが、ストックオプションがあるとか何とか。
「そりゃ、子供いるし。家族サービスもあるし」
「家族サービス……」
野崎が、少し呆れたような顔をする。
「阿部さん、それ、本当に『家族のため』なんですか?」
「は?」
「だって、阿部さん、会社でもずっと我慢してるじゃないですか。無茶な納期、理不尽な上からの指示、全部飲み込んで。それ、『家族のため』って言えば聞こえはいいけど……」
野崎の次の言葉が、阿部の胸に突き刺さる。
「本当は、『変わるのが怖い』から、家族を言い訳にしてるだけじゃないんですか?」
3. つらい中間管理職の現実
その夜、阿部が家に帰ったのは23時過ぎだった。
リビングの電気は消えている。妻と息子は、もう寝ているのだろう。冷蔵庫を開けると、ラップがかかったワンプレートの夕食が入っていた。
作り置きのハンバーグ、冷めたブロッコリー、小さなトマト。おそらく、18時頃に家族で食べたものと同じメニューだ。
電子レンジで2分。「チン」という音が、静まり返った部屋に響く。
ソファに座り、一人でテレビをつける。音量は小さく。妻に怒られるから。
ハンバーグを口に運ぶ。冷めている。温めたはずなのに、中心部分はまだ冷たい。
「……うまくねえな」
呟いて、それでも食べ続ける。捨てるわけにはいかない。妻が作ってくれたものだから。
ふと、リビングの壁に飾られた家族写真が目に入る。去年の夏、箱根に旅行した時の写真だ。息子が笑っている。妻も笑っている。阿部も、笑顔だ。
でも、あの時の自分、本当に笑ってたっけ?
旅行の前日、深夜2時まで資料作りをしていた。当日も、車の運転中ずっと、月曜のプレゼンのことを考えていた。温泉に入りながら、スマホで部下からのLINEに返信した。
「家族サービス」。確かに、家族は喜んでくれた。でも、自分は?
「俺が明日死んでも、保険金でローンが消えるだけだな」
そう思った瞬間、自分でも驚くほど、涙が出そうになった。
違う。俺は、家族のために生きてる。息子のために、妻のために。
なのに、どうして「自分の死」の方が、価値があるように感じるんだ?
冷めたハンバーグを、もう一口。
味がしない。
何も、感じない。
4. パパではなく「一人の人間」の反乱
翌週の会議。
営業部長が、また無茶な提案を持ち込んできた。取引先の要求を全部飲む、という内容だ。納期は2週間前倒し。追加コストは当然こちら持ち。
「阿部課長、いけますよね?」
部長の目が、阿部を見る。いつもなら、ここで「はい、やります」と答える。部下に残業させて、自分も終電で帰って、何とか間に合わせる。
それが、「課長」の仕事だから。
でも、今日は違った。
阿部は、息子の顔を思い浮かべた。昨日の朝、「パパ、今日テスト返ってくるんだ」と言っていた息子。その顔を見た時、自分は何を感じた?
嬉しかった? 誇らしかった?
……いや、「また頑張らなきゃ」って、義務感しかなかった。
それでいいのか?
息子に見せたい父親の背中って、何でも言うことを聞く、疲れ切った中年男の姿なのか?
「部長」
阿部は、ゆっくりと口を開く。
「それは、できません」
会議室が、一瞬、静まり返る。
「……何?」
「この条件では、品質を保証できません。取引先の要求を全部飲むことが、必ずしもお客様のためになるとは限らない。私は、それを提案する責任者として、この案には反対します」
部長の顔が、見る見る赤くなる。でも、阿部は続ける。
「それは、私の仕事のプライドが許しません」
その夜、帰宅した阿部は、いつものようにリビングの電気を消して、寝室へ向かった。
息子の部屋のドアが、少しだけ開いている。中を覗くと、息子が寝息を立てて眠っていた。
阿部は、そっと部屋に入り、息子の頭を撫でる。
「パパ、今日ちょっと……カッコ悪いことしちゃったかもな」
声が、震えていた。
明日、会社で何を言われるか分からない。最悪、左遷されるかもしれない。給料が下がるかもしれない。
でも、今日の自分は、少しだけ「生きてる」気がした。
息子の寝顔を見ながら、阿部は小さく笑った。
「ATM」じゃない。俺は、人間だ。
結婚指輪を、もう一度なぞる。
外さない。でも、これからは「縛られる」んじゃなくて、「選んで」つける。
家族を守ることと、自分を殺さないこと。
両方できるはずだ。
できなきゃ、また明日、考えればいい。
最後に
もし、あなたが今、冷めた夕食を一人で食べているなら。
もし、あなたが「家族のため」と言いながら、自分の顔を忘れているなら。
阿部課長の物語は、あなたの物語かもしれない。
「わかる」「わかるよ」「わかる~!」
そう言いたくなる瞬間が、何度も訪れるはずだ。
家族を理由に妥協してきた、全世代の父親たちへ。
あなたは、ヒーローだ。でも、ヒーローである前に、一人の人間だ。
その事実を、忘れないでほしい。
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