【小説】パン屋 まよなかあひる(8/8)くろくてまるい
第8話(最終話)くろくてまるい
リッカさんの娘、つまり正真正銘の「リッカさん」は、本当にまよなかあひるにやってきた。
「へえ、呼べば来るもんなんだね」
「人をデリバリーみたいに言わないでくれる?」
リッカさんの娘──簡潔にリッカちゃん、と呼ばせてもらおう──は、リッカさんに悔しいほどよく似た美少女だった。勝ち気な印象を与える大きな二重瞼につんと尖った細い鼻筋、さりげなく上品に上がった口角までそっくりだ。ただ、ピアスで埋め尽くされた両耳と露出度の高い服装には閉口したけれど。早速一触即発の空気を放ちはじめた二人を、私と愛貴くんの二人がかりで宥める。
「あたし、金が欲しいなら来いって言われたから来ただけなんだけど。何ここやばくない? パン屋? やっばー」
何がどうやばいのかは判断しかねるが、リッカちゃんはピアスをじゃらじゃらさせながら店内を見回す。何が起こるかわからないから、人目のある開店時間中に来てもらおうと提案したのは愛貴くんだった。リッカちゃんのようなちゃらついた人が来ることはまあ珍しくはないけれど、それにしてもリッカちゃんは輪をかけて派手だ。
「リッカちゃん、なんか……原宿系っていうの? すごいねそのピアス」
「はあ? 原宿系なんかと一緒にしないでほしいんだけど。どっちかっつーと、新宿?」
「新宿ファッションって聞いたことないな……」
どうにかこうにかしてリッカちゃんと打ち解けようとするものの、彼女は私の最も苦手とするタイプなのでなかなか前に踏み出せない。その点、愛貴くんは派手な女の子相手にも慣れている。
「リッカ、あんた今、どこで何してんだい」
「あ? なんであんたに言わなきゃなんないのさ。高校卒業して、テキトーに働いてるだけだけど」
「テキトーってなんだテキトーって」
「テキトーはテキトーだし。何よ、今さら母親面なんかしようとして。きっしょ!」
リッカさんは何か言い返そうとしたものの、ため息に変換したようだった。だけどなんだか、口調というか、荒々しさというか、リッカちゃんにはリッカさんの要素が多分に含まれているような気がする。血は争えないとはこのことかもしれない。
「ねえ、だからあたし金が欲しいんだってば。こんなところでほっとかれても困るんですけど」
「……どうしてそんなにお金が欲しいの?」
おそるおそる尋ねてみると、恐ろしい形相で睨まれた。リッカさんよりも「リッカさん」と呼びたくなるほどの圧を感じる。
「ねーもんはねーんだよ」
リッカちゃんはぶっきらぼうに答え、それっきり黙りこくってしまった。
「あひるちゃん、地雷踏んじゃったんじゃない?」
「そ、そうかもしれない。でも、聞きたくもなるでしょ。そこまでしてリッカさんに執着するってさ……」
愛貴くんと二人でこそこそ話していると、お客が一人入ってきた。慌ててリッカちゃんと愛貴くんをカウンターに着かせ、私は店内の備品を補充したり、パンの位置を整えたりしながらお客の様子を見る。
観光客らしき女性客は、何かに取り憑かれたように黙々とパンをトレイに乗せていく。思わず声をかけようとしたけれど、彼女には「担当」が必要じゃない、と思い踏みとどまった。リッカさん曰く担当がつくべきお客とそうでないお客がいて、規則や法則はないけれど、担当がつくべきお客というのが、以前愛貴くんの言っていた黒猫に導かれてやってくる人なのだろう。彼女は、少なくとも今は、担当を必要としていない。そういうことがなんとなく、感覚で掴めるようになってきていた。
女性客が大量に菓子パンを買って出ていくと、店内はゆるやかな静けさに包まれた。ふと違和感を感じてあたりを見回す。
「あれっ、リッカちゃんは?」
「あ、なんか静かだと思ったら。どこ行ったんだろう」
「私、裏の方見てくる」
店の奥の居住空間には鍵がかかっているので、そうでないとしたら、勝手口から外に出たのだろう。
勝手口を出た店の裏は、隣の建物との距離が近くて薄暗く、ごみごみしているから不気味だ。つま先立ちをしながら外を覗き込むと、何やら声が聞こえる。エアコンの室外機の傍らに、人が座っているのが見えた。
「リッカちゃん?」
声をかけても返事はない。その人影は──リッカちゃんはじっと何かを見つめていて、視線の先を追うと、そこには黒猫がいたのだった。黒猫はリッカちゃんが目の前にいるのに逃げるどころか、落ち着いた様子でじっくりと股やお腹を舐めている。そのときリッカちゃんが勢いよくこちらを振り返り、
「かあちゃん! これ、クロでしょ!? クロじゃないの!?」
すると私と目が合い、はっと口を噤んだ後、気まずそうにそっぽを向いてしまった。かあちゃん、と言ったけれど、近づいてきた私をリッカさんだと思い込んだのだろうか。かあちゃん、と口の中で反復してみると、かつてリッカちゃんがリッカさんと過ごした時間の濃い匂いのようなものが、わっと吹きつけるように迫ってきた。
「なんだい騒がしいね」
リッカちゃんの大声を聞きつけてか、リッカさんも裏に顔を出した。
「かあちゃん」
「なに」
「これ、クロなの?」
さっきまでの刺々しいオーラはなりを潜め、リッカちゃんは少女のような切ない声を出した。娘というよりは、子犬や子猫のような潤んだ目をしていた。リッカさんは黒猫に目を向ける。黒猫は相変わらずそこから一歩も動かないまま、大きなあくびをした。だらしなく広げた股から、彼がオスであることがわかる。
「違うよ。クロは死んだだろ」
「でも、クロそっくりじゃん。あたしわかるもん。毎日クロのこと世話してたもん、あたし」
「でも違う、クロは死んだ。あんたも覚えてるだろ。クロは車に轢かれて──」
「言わないで!」
金切り声が路地に響き渡り、黒猫は踵を返してどこかへ行ってしまった。私は店員が誰もいない店内を思い出し戻ろうかと思ったけれど、なぜかそこから動けなかった。全員が金縛りにあったかのように、時を止めていた。
「……親父がさ。あたしの金、使い込むの」
ひゅうっと風を切るような音がした。リッカちゃんの喉からする音だった。
「稼いでも稼いでも足りなくて、そんであたし、いわゆる夜職も始めたんだけど、それでも足んない。あたしこれでも仕事ではよくやってる方なんだけどさ、どんだけ稼いでも、全部持ってかれてパチに使われるの」
リッカちゃんの身につけている装飾品たちは、夜闇の中の微かな光を反射して星のように煌めく。耳から垂れ下がったピアスが、しゃらりと揺れた。
「身体を売っても売っても足りないから、もうこれ以上売れるものなんかなくて、かあちゃんを頼るしかなくなった。……あたしのピアスとか服とか、言っとくけどブランド名すらない安物だからね。こうでもしないとあたし、ろくでもない貧乏人ってすぐばれるから」
「それならそうと、なんでもっと早くに言わなかった」
どすの効いた声がしたと思ったら、リッカさんの声だった。
「言えるわけないじゃん。かあちゃんとは10歳の頃に別れたっきりだったし、クロが死んでから、ろくに話さずにさよならしたし」
「そうじゃないだろう。あんた、後ろめたかったんだろ。とうちゃんと暮らしてる自分が、不幸せだってことが」
「……そうかもしれない、けど、言えないでしょ普通。あたしだってかあちゃんには頼りたくなかったんだよ。信じてくれないだろうけど、かあちゃんのいるあたしを、あたしも一度は諦めたんだよ。……でも、どうすればいいか、わかんなかったの」
それっきり唇を噛み締めたまま、リッカちゃんは黙り込んだ。悩ましくひそめられた眉が場違いながらも美しくて、彼女は間違いなくリッカさんの娘だと確信した。
私は、リッカちゃんが羨ましかった。お金に困ったら頼れる肉親がいることじゃない、不安を吐き出せる相手がいることでもない。彼女はずっと一人だったのだろう、一方で本当の意味で一人ではないということを、きちんと知っていたことだ。おかしな話、私はリッカさんが実の母親である彼女に嫉妬していた。二人は不本意に離れることになってしまったのかもしれないけれど、この親子は離れていても、きちんと繋がっている親子だと思った。
人は結局一人で、それでも一人じゃないと思わせてくれる人が他に一人でもいるだけで、死ぬためではなく、生きるための手段を選ぶことができるのだ。
「じゃあ、あなたもここで働けばいいじゃない」
私は素直にそう言った。リッカさんはしばらく呆気に取られてから、いやいやいや、と首を振る。
「おいあひる、あんた自分と同じ人間をもう一人増やす気かい」
「もう、いいじゃないですか。リッカちゃんがここで働けば住むところもあるし、お金だって入ってくるでしょ。そしたらリッカさんだって安心だし、リッカちゃんは自分を売る必要だってなくなる」
「それはそうだけどさ」
「あと、あとですね、うち、最近けっこう忙しいじゃないですか。リッカさんは新作作りに集中してて気づいてないかもしれないけど、私割とてんてこまいなんですよ。だから、もう一人いてもらえるとすっごく助かるんですよね」
「ちょっと待って、あたし本人はやるって言ってないんですけど?」
「え、リッカちゃんは嫌なの? じゃあまたお金だけもらって家に帰って、そのお金お父さんに全部使わせてリッカちゃんは大変な思いし続けるの?」
私をきいっと睨みつけ、リッカちゃんは何も言葉を返さなかった。「あんた、いつの間にそんなえぐいやり方覚えたんだい……」とリッカさんはお腹を抱えて笑いだした。
「リッカ。あんたはこっち側──夜の世界には来るな。だけどね、うちはホワイトな方だよ。あひるもいるしね」
「だから、あたしは働くだなんて……」
言い返しかけたリッカちゃんの言葉は尻すぼみに消えていく。さっきの私の言葉が否定しきれないのだろうなと思うと、なんともやりきれない気持ちになった。でも、やりきれないながらも私たちは、この子を多少楽にしてあげることならできるかもしれない。
リッカちゃんは私の部屋で寝泊まりすることになった。店の2階には2部屋しかなく、リッカさんの部屋か私の部屋に入る以外に選択肢がなかったのだ。まあ、どちらと一緒の部屋がいいかと聞かれたら、そりゃ私の方を選ぶだろう。
真っ昼間でも、布団を敷いたらリッカちゃんはすぐさま眠ってしまった。その寝顔は、同い年とは思えないほどあどけない。息を吸うごとに長い睫毛が上下し、わずかに眉を寄せた表情は幼くも美しくもあり、私は思わず見とれてしまった。
するとドアがそうっと開き、珍しくリッカさんが顔を覗かせた。リッカちゃんが寝入っていることを確認したらすぐに閉めようとしたので、入ってもいいですよ、と囁く。リッカさんはドアの隙間から滑り込むように部屋に入ってきた。そういえば、リッカさんが私の部屋に来るのは初めてのことだ。今までどんなに私が起きなくてもドアを全力で叩くだけで、部屋には一歩も足を踏み入れようとしなかった。きっとリッカさんなりの気遣いだったのだろう。
リッカさんはリッカちゃんの枕元に膝をつき、リッカちゃんの寝顔に目を向けた。
「ほんと、昼間はあんなに悪態つく顔とは思えないね」
「リッカさんにそっくりですね」
「だろう。あたしの思惑通り、とんだお転婆美少女に育ってくれたよ」
そのとき、リッカさんの喉がくっと鳴った。
「ほんと、ガキの頃とおんなじ顔しちまって」
リッカさんがこうしてリッカちゃんの寝顔を眺めるのは、いったいいつぶりになるのだろう。私たちは穏やかな寝息を立て続けるリッカちゃんを、しばらく見つめていた。
「あひる。あんたさ、ほんとは死ぬつもりなかったんだろう」
「えっ」
「うちに来たとき。あんた、今にも死にそうな顔はしてなかったからね」
「そう、でしたか」
「でも、猛烈に何かを求めてた。欲しくて欲しくてたまらないって顔してたよ。それが何か、あたしにはわからなかったけどね」
あの日、私が欲しくてたまらなかったもの。当時の感情を思い出そうとしてもうまく記憶を手繰れないけれど、確かに、私は何かに飢えていたのかもしれない。もちろんお腹も空いていた、でもそれ以上に私はあの日に限らずずっと、何かが足りなくて足りなくてしょうがなかった。
「……今は、持ってるような気がします。欲しかったもの」
「それならよかった。……よかったと思うよ」
リッカちゃんを間に挟んで、取り留めのない話をぽつり、ぽつりとするのは考えてみればかなりおかしな状況だった。なのに私は、いつまでもこの時間が続けばいい、と思った。
「クロはね、あたしが一瞬目を離したせいで車に轢かれて死んだんだよ。リッカはそのことをものすごく怒ってた」
「それ、リッカさんは悪くないじゃないですか」
「そうさ。クロを轢いたのは車だ。だけど、運転手だって猫を轢くつもりで車に乗ってたわけじゃないだろう。誰も責められない状況だったのはリッカにもわかっていたんだろうね。だからこそ、どうしようもない気持ちをあたしにぶつけるしかなかったのさ。あたしと元旦那の離婚が成立したのは、クロが死んですぐのことだった」
「……じゃあ、リッカちゃんはお父さんがよくて離れたわけじゃ」
「なかったんだろうね。あの子なりの盛大な八つ当たりさ。まあ、本人が今どう思ってるかまでは、知らないけどね」
あの日私をこの店に導いてくれた、黒猫の長いしっぽを思い出す。あの黒猫は、リッカちゃんのことも連れてきてくれたのだろうか。
「ありがとうね、あひる」
顔を上げ、私を見つめたリッカさんの目は、母の目をしていた。
カーテンから漏れる光と道行く人々のざわめきから、否が応でも今が人の活動時間だということを思い知らされる。それでも私たちは今夜も働くために、そろそろ眠らなければならない。
再始動したまよなかあひるには、新しい空気が吹き込まれた。
「あーっ、もうパン多すぎ! かあちゃん作りすぎだろ! 値段もバラバラだし、もう全部100円でいいじゃんかよ」
「あんたねえ、利益って知ってんのかい? なんでもかんでも100円にしたらこっちに返ってこないんだよ。うちのパンは材料にだってこだわってんだから……」
「あーうるさい、そういう話したいんじゃない! めんどくせーよこんな仕事!」
「こんなってなんだい。そんなこと言うなら親父のとこに帰らせるよ!」
その日の夜から早速、リッカちゃんはうちで仕事を叩き込まれている。まよなかあひるは深夜の謎めいた雰囲気が売りだったのに、今夜はまるで居酒屋さながらの騒がしさだ。
「やー、ここもずいぶん賑やかになりよったなあ」
「賑やかっていうか、うるさいっていうか、あ、姦しい?」
堀田のおっちゃんと愛貴くんは、もはやここが定位置だとでもいうようにカウンター席を陣取っている。あまり常連ぶってもらうのは好きではないのだけれど、楽しげな会話には思わず加わりたくなってしまう。
「なにその難しい言葉」
「女三人で姦しい、だよ。俺これでも文学部だからね」
「愛貴くん、留年中じゃないの」
「たっはー。言われちゃったよ」
愛貴くんが仰け反り、どうやらどこかでお酒を飲んできたらしい堀田のおっちゃんは意味もなく大声で笑う。深夜営業のパン屋が賑やかになることがいいことなのかよくないことなのか、経営に関してはさっぱりな私にはよくわからないけれど、楽しいことは悪いことではないはずだ。
そのときからん、とドアベルが鳴った。入ってきたのは昨夜、うちで大量にパンを買っていった女性客だ。いらっしゃいませ、と声をかけると、ドアガラスの向こう側を黒猫がゆったりと歩いていくのが見えた。私は思わず「待って」と口にしていた。お客にではなく、黒猫にだ。
慌てて表に出ると、黒猫は驚いたようにととと、と数歩遠ざかる。その顔を見てわけもなく感じた。彼はきっと、私をここへ連れてきてくれた黒猫だ。
「ねえ君、お腹空いてない?」
パンの欠片を手のひらに乗せて差し出すと、黒猫はそうっと近づいてきて桃色の鼻をパンに寄せた。それでもまだ警戒心が解けていないのか、ひげがぴんと張りつめていた。彼の息遣いが、指の先にしゅうしゅうと伝わってくる。それは生温かくひんやりとしていて、生きているという心地がした。
おわり
あとがき
舞台の街のはなし
いいなと思ったら応援しよう!
本作り、お勉強としての読書、猫たちのおやつに使わせていただきます。お気持ちしかと受け止めます🦔🫶🏻