【小説】パン屋 まよなかあひる(2/8)ごめんねバゲット
第2話 ごめんねバゲット
「そいじゃ、あひる。そろそろこの店の仕事を覚えてもらうぞ」
一週間ほど働いたある日、出勤早々リッカさんが腕まくりをしながらやってきた。結局私はこのあだ名をつけられたときから、ずっとあひると呼ばれている。
店の名前は、「パン屋 まよなかあひる」に決まった。ここが深夜に開く店で、それから私の名前をもじって店の名前に使うと店主のリッカさんが決めたからだ。私はたまたま訪れた店のお客第一号だっただけで、この店どころかこの街にすら縁もゆかりもないのだけれど。それでも私は、この苗字と名前のようなリズム感を気に入っている。
リッカさんは本名をリカという。なぜリッカと呼ぶかというと、本名を漢字で六花と書くからだそうだ。リッカさん曰く「六花って字面が綺麗な名前だろ? だからリッカって呼んでくれよ。リカじゃなくて」とのことである。
リッカさんは少々豪快で強引なところがあるけれど、決して悪い人ではない。現に、死んでいた私の心をメロンパンの力で復活させている。いや、今となってはメロンパンそのものではなく、リッカさんの手による強引な成り行きに助けられたのかもしれない。
さらにありがたいことに、私は店舗の2階兼リッカさんの住居に居候させてもらうことになった。開店時間の夜の11時から朝まで働き、それから2階に帰り、昼間からたっぷり眠る生活だ。
慣れない仕事に忙殺されていると、死にたかったことくらいは一時的に忘れることができる。文字通り、忙しさに殺されているからこれ以上死にようがない。一人の部屋で、ふいにずしんと心に重石が乗っかってくることもあるけれど、同じ屋根の下に人がいて毎日会話ができるだけで、海に飛び込もうなどとは考えなくなるものらしい。
リッカさんは昼間ずっと一人でパンを焼き続け、深夜に開店するときにはできたてほかほかのパンをずらりと店頭に並べる。正直、リッカさんがいつ寝ているのか、どういう身体構造をして生きているのかが不思議でしょうがない。
「この店の仕事って、私もう、十分やってるじゃないですか」
「何言ってんだ。品出しと掃除とレジ打ちだけがあんたの仕事じゃないんだよ」
きょとんとしているとリッカさんは呆れ顔で言う。
「あんた、あたしの仕事ちゃんと見てたかい? いいから、今夜最初に来たお客があんたの担当だからね」
リッカさんの前職の名残を感じる言い方に、首を傾げる。リッカさんが夜の仕事のようにお客の対応をしていた覚えはないけれど、というかパン屋はそもそもそういう店ではないけれど、担当とはいったいどういう意味なのだろうか。単に、前職からの口癖みたいなものなのかもしれない。
第一号の私以降にお客が来たかというと、噂を聞きつけた観光客や近所の人たちのおかげで、案外店は繁盛している。こういうとき、田舎の情報の速さはばかにできない。とはいえ深夜営業なのでぽつりぽつりと一人ずつお客が来る程度で、夜の静けさは保たれたままである。これぞ夜の店の醍醐味だ、とリッカさんは言う。
ひとまず、開店直後からお客が入ることは少ない。リッカさんは残りのパンの仕上げにかかり、私は店に並ぶパンを眺めながらじっくり種類を覚えていく。パン屋のパンにはバーコードがついていないので、商品として一つひとつ頭に叩き込んでおかねばならない。豊富な種類のパンとその値段の情報量は想像以上に膨大で、しかもリッカさんは気まぐれに新しいパンを増やし続けていくのだから記憶力が追いつかないのだ。
からん、とようやくドアベルが鳴ったのは、日付を越えた頃だった。
「さあ、あんたの最初の客だ」
私の耳元で言い残し、リッカさんは裏に引っ込んでしまった。なんの説明もなしにいきなり何をしろというのだろうか。さすがに声をかけようかと思ったけれど、リッカさんのことだから頑として表には出てこないだろう。私はこの一週間で、リッカさんの性格をなんとなく掴めてきていた。
思い出してみると、リッカさんはやってきたお客に親しげに話しかけたり、さりげなくおすすめのパンを教えたりしていたような気がする。彼女の言う「担当」とは、そういうことなのだろうか。
正直、気が進まない。なぜなら私の最初のお客は中年男性だからだ。遠目に眺めていても、脂ぎった額のてかり、だらしのないお腹とほつれたスウェットは、どこをどう切り取っても清潔感がない。もちろんすらっとしていい匂いのする中年男性だっていくらでもいるはずだが、私はこの年代の男性に対する抵抗感が特別強い。たぶん、いい思い出がないからだ。このまま無視していても構わないだろうかと視線を逸らしかけ、しかしふと目を留めた。
「いらっしゃいませ」
まずは商品の並びを整理しながら様子を見てみる。おじさんは悩ましい表情で、パンたちをじっと吟味している。が、これはパン好きの表情ではない。たとえパン屋素人であろうとも、目の前にあるものに興味のある目をしているかどうか、その程度のことなら私にもわかる。だって入店してから、トレイもトングも持っていないのだ。じっくりパンを選んでいるかのように見せかけて、実はパンの種類も何も見ずにただ目を滑らせている。
いったいなんのために来たのだろうか。単純な疑問に加えて、苛立ち紛れの感情がふつふつと湧いてくる。冷やかし? それとも暇つぶし? もちろん入るだけ入って何も買わずに出ていく人はいくらでもいるし、そのたびに苛立っているようじゃきりがない。しかしなぜか、このおじさんに対してはむずむずとして落ち着かない。
何かアクションを起こしてやりたいけれど、何かお探しですか、なんてパン屋で聞くのはおかしな話だ。セレクトショップでもあるまいし。
「……こちらのクロワッサンとか、おすすめですよ」
「へ、へえ」
意を決して近づき、咄嗟に目に入ったクロワッサンを示してみたけれど、反応はいまいちだった。ところが私に話しかけられたことで、何か選ぶ気にはなったらしい。今さらのようにトレイとトングを持ち、きょろきょろと店内を見回しはじめた。私は再び素知らぬふりをしながら、商品の整理を続ける。
「あの、女性が好きなパン……って、あるんかね」
店内を一通りうろつくと、おじさんは耳打ちするように話しかけてきた。
「女性の方がよく買っていかれるのはですね……この塩バターパンとか、フルーツ系のパンですかね」
「ああ、嫁は甘いもの苦手じゃけえなあ」
「奥さん、ですか」
「そう。さっき、喧嘩してしもうてな……。勢いで飛び出してきて、空いとる店に入っただけやったんじゃけど。何も持たんと帰っても余計怒らせそうじゃ思て」
案外奥さん思いの旦那さんらしい。なるほど、お詫びの印にならこういうギフト向けの商品もあるんですけど、奥さん甘いものが苦手なんですよね、食パンだと味気ないですかねえ、なんてぶつぶつ話しながら一緒に店内をうろうろする。
「嫁はいっつもおんなじことしか言いよらんのじゃけど、わしも疲れとってな……皿ぐらい洗えー言われただけでかっとなってしもうて」
「それは……」
「まあ、わしが悪いんよ。家のことなーんもせずに、嫁に甘えてほっぽらかしとったけえな。ただなあ、わしがやったところで……いうんもあるじゃろ」
ひとりでに話しだしたおじさんは徐々に饒舌になっていく。私はうーん、と相槌を打てるくらいで、これといった返事ができない。
確かに、慣れている側に任せておいた方がうまく回ることはある。だけど、奥さんが求めているのはそういうことではないような気がする。
話しているうちにおじさんに対する不快な感情は薄れていき、父親に接するようなほがらかな気持ちが生まれていた。なんだか、困っているお父さんを素直に助けたくなってくる。もっとも、私には父親らしい父親などいなかったのだけれど。
甘いものが苦手だとくると、惣菜パンや、素材の味に近いシンプルなパンの詰め合わせになるだろうか。思いついたものを私がいくつか挙げていくと、最終的におじさんはくるみパンや塩パンの詰め合わせを手に取った。
しかしどうしてだか、腑に落ちなかった。これでよかったのだろうか、とレジに向かうおじさんの背中を見送る。すると、会計をしたリッカさんがおもむろに細長い袋を取り出した。
「あと、これも持っていきな」
リッカさんがおじさんに差し出したのはフランスパン──バゲットだった。うちのフランスパンは二種類あって、細長くてカリッとした食感のバゲット、それからバゲットの半分くらいの長さで中はふわっとした歯応えのバタールというものがある。
「それ切って、上に生ハムやらチーズやら乗せておけばお手製朝ごはんっぽくはなるよ。たまには朝飯ぐらい、自分で用意してやんな」
「はああ、なるほど! そりゃええわ、ありがとう姉ちゃん!」
「さすがに姉ちゃんは若すぎるよ。リッカでいいよリッカで」
「そうかあ、リッカちゃんいうんかあ」
やられた、と思った。パンの詰め合わせだって朝ごはんにはなるし、ちょっとした手土産らしさも出せる。それにしても、少し安直だったかもしれないと反省した。おじさんに必要だったのは、おじさん自身が手を施すことで、奥さんへの寄り添いや気遣いを行動に表すことだったのだ。
「たまには猫にもついてってみるもんじゃな」
おじさんはパンの詰め合わせとバゲットを両手に持って帰っていった。来たときよりもしゃんと伸びた、広くて頼りになりそうな背中だった。
その日の営業を終えると、朝日を浴びながら閉店作業を進める。ロスのパンの処理、トレイをはじめとした店内の清掃、それからレジ締め。これを二人がかりでやるとざっと小一時間はかかる。
「私、惜しかったですよね」
店内のモップがけは、ちょっとした肉体労働だ。腰を入れて濡れたモップをぐっと押し出し、床が艶めくまで磨く。レジ締めをしているリッカさんは、なんでもないことのようにあー、と相槌を打った。
「まあ、あれだね。夜はみんな寂しいんだよ」
「え、どういうことですか」
「誰かに構ってほしかったんだね、あのおっちゃんは。嫁と喧嘩したってのも嘘じゃないんだろうけどさ、たぶん、あんたみたいな話聞いてくれる人が必要だったんだよ」
「そう、なんですか」
リッカさんは、私を一瞥するといやに真っすぐな目でそうだよ、と言うので私は少々たじろいだ。
「でも、リッカさんがバゲット渡した後、見違えるように元気になったじゃないですか」
「そりゃ、根本的な問題の解決も大事だよ。でもねあひる、夜には魔物が潜んでるんだよ、人の心の中にね。その魔物を退治したり解かしたりしてやれるのは、人なんだよ」
「でも私……ろくに話せませんでした。何を言ってあげたらいいのか、わかんなくて」
「それでいいんだよ。おっちゃん、勝手に一人で喋って喜んでたじゃないか。ああいう人はあれで満足する。おっちゃん、安心して帰ってっただろう」
あんたはよくやったよ。リッカさんの目は今までに見たことがないほど優しかった。
「そういうのが、あたしら夜の店の役目だよ」
7時頃になると、通勤の車や早起きした近くのホテル客がちらほらと目立つようになってきた。街が目覚めるとき、私たちは眠りにつく。
それからというもの、例のおじさん──堀田のおっちゃんはすっかりうちの常連になった。あの日以来、奥さんとの仲は良好とのことだ。
「やー、やっぱリッカちゃんはすげえな」
レジ横のカウンターで、酔っ払い客のように私やリッカさんに絡んで帰っていくのが常だ。ちなみに飲んでいるのは、最近提供を始めたコーヒーである。
「こんなのまだまだあるよ。あたしが3日間風邪で寝込んでた間、ストーカーのやつがずうっとマンションの前で待ち伏せしてた話はしたっけ」
「聞いとらん聞いとらん。そうじゃそれいうたらな、わしも今の嫁はストーキングして捕まえたんじゃけ」
「はあ? おっちゃんあたしの敵じゃないか」
豪快な笑い声が響き渡るこの店がパン屋だとは、とても思えない。堀田のおっちゃんが一人いるだけで、この店は少し、いやかなり雑な雰囲気になる。こういうのも夜の店の醍醐味、と言えるのだろうか。
「夜の世界は壮絶じゃのう。なあ、あひるちゃんもなんかおもろい話持っとらんの」
この酔っ払いめ、と返したくなるが堪える。するとリッカさんがにんまりとして、嬉々として喋りだした。
「あひるはなかなか訳ありだよ。この子、荷物もスマホも持たずにうちに転がり込んできたんだからね」
「うちで働けって言ったのはリッカさんじゃないですか」
「誰が金も身寄りもない死にかけの少女を野放しにするんだよ。……っていうか、あひる、その歳ならひょっとして学生だったりするのかい?」
二人の視線が私に集まる。たったそれだけのことなのに身体が固まって、うまく息ができなくなった。だけどいつか聞かれることにはなるだろうとは思っていたので、仕方ない。
「……辞めました。卒論が書けなくて」
「そんだけで!?」
その返しまで予想できていたものの、いざ言われてみるとやはりぐっと詰まる。だって、と口を開こうとしたものの、続く言葉は見つからなかった。
大学は楽しくもつまらなくもなかった。友人がいなかったわけではないし、様々な分野の物事について学ぶことには面白さも感じていた。なのに、どこか周りと同じようにうまくいかなかった。何がというほどのことではない。ただ徐々に自分や周りへの違和感や不信感が募り、大学というものに意義を感じられなくなった。気がつけば一人になっていて、全てがどうでもよくなった。22歳が思い悩むべき自分の将来なんて果てしないこと、考えられるはずもなかった。それだけのことだ。
とにかくこういう空気は、笑って流しておくに限る。
「まあ、私のことはいいんですよ。今はこうして食い繋げてるんで」
「うーん、まあ、悩ましい年頃じゃけえなあ。けどええじゃん、リッカちゃんのとこで楽しく暮らせとるなら、な」
堀田のおっちゃんもにこやかに返してくれた。そうだ、今さえよければそれでいい。そもそも私は、過去を全部捨ててここに来たのだから。心の中で泥のように湧き出てくるものに蓋をして、私はそうですそうですとへらへら笑った。
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