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有料小説「雨だれと空を刺す針」


プロローグ

わたしはあの子に手を引かれ、階段を登る。
白くもやのかかる世界。屋上の扉を開けると、あの子は振り向いて言う。
「ここにいてね」
顔は見えない。
でも薄く微笑んでいることが、口の形でわかる。
その途端、バタン、と重たい音とともに金属扉は閉ざされた。

晴れ渡る初夏の屋上にひとり立つ。
ひとりきりだ。



ああ、またこの夢と、ぼんやりした意識の中で思う。わたしは布団から抜け出して、けたたましく鳴り響くスマホのアラームを止めた。自分の温もりで、程良くとろけた布団に戻りたい。しかし寝ぼけた頭で今日から鍵当番だったことを思い出す。だからこの夢を見たのだ、きっと。

わたしの勤める小学校では、校庭の草むしりから学校設備の管理なんかも、全て教員が担う。田舎特有の、昔ながらの風習。慣れてしまえばどうということはないけれど、それでも今日は気が重い。因縁の屋上に入るのは、ひどく憂鬱だった。

「ヒライシンの点検です」
通用口に来た男は言った。ヒライシンという言葉が最初、避雷針とうまく結びつかなかった。男の声は、鼻にかかった湿り気のある声質で、しかし男性のそれらしく低く耳に響き、わたしはその声に、小さな衝撃を受けた。

屋上までの道すがら、男はリノリウムの床を来客用スリッパで擦るように歩き、慣れていないのか、階段の踏面が踊り場に差し掛かるたび何度か、ぱん、とスリッパを鳴らした。男は自ら発した音の大きさに驚き、恥ずかしそうにしていた。

学校は入り組んだ造りをしていて、防犯対策なのか校内に分かりやすい地図はない。新入生どころか新任教諭の多くは迷子になる。四月は泣き出す生徒が多発するのだが、一方で上級生が優しくその手を引き、下級生の教室まで送り届けるという心優しい文化が構築されている。かつて迷子になって泣いていた生徒が、真新しいランドセルの一年生の涙をふき、手を引いて歩く姿はなんとも微笑ましい。

「避雷針に、点検なんてあるんですね。そもそも、うちの学校に避雷針があるのも、知りませんでした」

わたしは上級生のような心持ちで男を屋上へと案内する。自分自身の緊張など、まるで無いかのように隠して。



煙草

南側に面した屋上は普段、シリンダー錠と暗証番号式の鍵のふたつが掛かっている。いつ何時も屋上は解放していない。鍵を持つ手が震えていたが男の手前、平静を装いそれを回す。

あの日以来、初めて出た屋上は晴れており、緑色のフェンス越しの校庭は夏の陽射しに照らされて、風に巻き上げられた砂が見える。
「それではお願いします。見ていても、良いですか」
男はちらりとわたしを一瞥し、
「どうぞ」と言った。
冷たくそっけない突き放した言い方に、わたしは少しだけ傷ついた。男は見たこともない器具を使ってあれこれと数値を測ったりしていたが、わたしはだんだんと退屈になり、いつしかぼうっと街並みを眺めた。

自分の居る場所の高さに目が眩む。呼吸が乱れ、心拍数があがる。指先から血の気が消え、震える。何度も何度も夢に見た幼い日の光景。記憶の中のそれよりも建物の背はうんと低く、木々の緑は薄かったのに、腹の底から湧き出す、恐怖。

「終わりました」
気配もなく後ろから声を掛けられた。振り向くと男が怪訝な顔をしていた。何だろう、と思ったが、すぐに気付いた。わたしは泣いていたのだ。

男は戸惑い驚いて、目を見開く。わたしは頬に落ちる涙を拭うこともせず、かと言って何かを喋るわけでもなく、ただ男の、今日初めて会った避雷針の点検をする会社の男、―おそらく四十代半ばだろうか―、その男の顔を見つめて、ただ、ほろほろと、涙を流し続けた。

その男もまた、わたしを見つめていた。男の顔は日に焼けていて、しかしそれは健康的な焼け方では決してなく、内臓の悪さを太陽が上書きしているような焼け方だった。目は一重で、目の下には濃いくまが、目の周りには薄いしみが、水たまりみたいに浮き出ていた。真っ直ぐ走る鼻筋の下にある、下唇よりうんと薄い上唇が、何かの言葉を探すように少しだけ動いた。
「ここはキンエンですか」

禁煙、どうしてだろう、この男の言葉は、一度で理解できない。男の声のトーンや声質に、どうしても耳がいってしまい、内容を理解するのにワンテンポ遅れるのだ。
「こ、」
声が上手く出せない。わたしは絞り出した。
「校内は、全面禁煙です。でもどうぞ特別に。その代わり、わたしにも一本いただけませんか」
男は作業着の内ポケットから潰れたたばこの箱を取り出した。わたしは手の甲で涙を拭って男に近づく。
「一本しか無かったので、どうぞ」
男は箱を傾け、わたしは恐る恐るそれを取り出し咥えた。男は左手でライターを着け、わたしの口元へと近づける。風から守るように手で隠し、わたしに火を、こっそりと食べさせるような、そんな仕草で。
タバコの先端に火が付いても、火はうまく移らず、
「吸うんですよ」
と、男は言った。それでもなお上手くいかず戸惑っていたら「貸して」と、男がわたしの唇からたばこを奪い、口に咥えて火を着けた。火はいとも簡単に燃え移り、男の口からは長く白い煙が、緑のフェンスをすり抜けて、流れていった。

それから男はわたしにたばこを返し、わたしは吸った。美味しいものではなかった。ごほごほと、わたしは咳き込んだ。
「あんまり吸わないかんじなんですね」
男は左のズボンのポケットから黒いビニール製の携帯灰皿を取り出しながら言った。わたしはたばこを返しながら答える。
「人生で、初めてです」
「そうですか。二度目は、ない方がいいですよ」
そう言って男はとんとんと携帯灰皿に灰を落とし、ひとくち吸うと、再びわたしの口にたばこを戻す。
「息子が、ここに通っているんです」
男は言った。今度はわたしが目をみはる番だった。男はわたしの僅かな動揺に気付き、笑って付け足した。
「いや、すみません。息子と言っても別れた女房が引き取って、もうほとんど会っていないんです。だから、保護者とかでは。四年の前田泰斗です。……今は、安原かな」

安原泰斗。知っていた。四年生にしては随分と達観し、どこか深く、濃い諦めの色を、その目に覗かせる子だった。
「そうでしたか。安原くんの」
わたしは男から再度たばこを受け取る。同時に現実をも受け取る。そうか、保護者、か。

たばこはもうずいぶんと短くなり、わたしは一度吸い込んだだけのそれを、男に返した。男はそれを最後のひと息とばかりにうまそうに吸い、煙を吐きながら今度はごしごしと携帯灰皿に擦り付けて、たばこの火を消した。
「捨てときます」
そう言って、わたしは潰れた空き箱を、男の手から受け取った。わたしの右手と、空き箱を持った男の右手が、触れた、そのとき。

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