【空想花屋のショートオムニバス】一歩踏み出すためのブーケ
petals of life #1
カランコロン——。
店先のドア
お気に入りの銅のベルの音は、いつだって少しだけ懐かしい。
木製のドア上半分には古いガラスがはめ込まれていて、向こうから誰かが近づくと、内側から少しぼんやりと人影が揺れる。
森の入り口にある、この店の前まで続く細い小道は、駅からも遠く、車もほとんど通らない。この場所までわざわざ花を買いに来る人は、たいてい何かを胸に抱えて歩いてくる。
言葉にならない何かを。
カランコロン——。
足元で、看板犬のラブラドールが一度だけしっぽを床に打ちつけた。
“お客さまだよ”
そんなふうに知らせてくれているみたいに。
この子の名前は、まだ秘密。
店の中には、朝摘みの花と、木の棚に染み込んだ長い年月の香りが混ざっている。
開いたドアから外の風が舞い込み、そこに緑の香りを足す。
今日、最初のお客さまは男性。
その人はドアを閉めたあとも、しばらく片手をノブから離さなかった。
ネクタイは少しだけ曲がっていて、少し緊張した面持ちだけど、目元がとても優しい。
花選びに慣れていない人特有の、“正解を探すような視線”で小さな店内を見渡している。
「お花、ご自由に手に取っていただいて構いませんよ。ご自宅用ですか?」
「あ……いえ。妻に」
そう言って、少し照れたように笑った。
彼が最初に手に取ったのは、かすみ草。
白のかすみ草 。
幸福。清らかな心。
感謝。
次に選んだのは、バラ。
優しいピンクのバラ。
愛情。情熱。
あなたを愛しています。
「これでお願いしていいですか?花はあまり分からなくて。」
「分かりました。お包みしますね。」
彼が手にしている花たちを受け取る。
……なるほど。
触れた花から、ふっと景色が流れ込んでくる。
白い部屋と白いカーテン。
窓際の椅子。
眠っていると思っていた横顔が、ふっとこちらを見た。
言いたいことがあるのに、うまく言葉にできなくて、男性が何度もポケットの中で指を握り直す。
そっか、
“ありがとう”を、ちゃんと伝えたいんだ。
でも、“ありがとう”だけじゃ足りないと思っている。
私は何も言わない。
見えたものを口にすることは、この店ではしない約束だから。
その代わりに、そっと一本の花を手に取った。
小さな白い花びらの真ん中に可愛いらしいイエローたち。
マトリカリア。
「良かったらこちらも、一輪いかがですか?すごく合います。」
花のことは分からない、と言っていたその男性は少し不思議そうに首をかしげた。
「これは?」
私は笑って答える。
「マトリカリアです。
花言葉は——集う喜び。深い愛情。
そして、逆境に負けない強さ。」
男性の目が、少しだけ揺れた。
たぶん、意味なんて分からなくても、人は必要な言葉にちゃんと出会える。
「……それ、ください」
私は、そっと花束にその一輪を忍ばせる。
これは、花束じゃない。
小さなおまじない。
言葉にできない想いが、ちゃんと届きますように。
伝えられなかった“ありがとう”が、今日こそ届きますように。そしてきっと元気になってくれるであろう奥さまと2人で、新しい一歩を踏み出せますように。

カランコロン——。
銅のベルがまた鳴って、花束を抱えた男性が小道を帰っていく。
ラブラドールは静かに伏せたまま、その背中をじっと見つめていた。
それから一度だけ、静かに鼻を鳴らした。
さて、次のお客さんはどんな人かな。

