線路の向こう側~一度だけ愛を囁いて~(約23000字)
【概要】
全文約23000字/ジャンル恋愛/全年齢対象

【あらすじ】
その感情は罪深く世間からは許されない。浮気や不倫、略奪愛。それらは自分にとって無関係の人生だった。日常を騒がせているゴシップの文字をなぞり共感することのない記事を読む。世間から激しくバッシングされるくらいなら近づかない方がいい。大手食品会社の企画部で働く清野美月(セイノ ミツキ)もそう考える一人だった。三十代になり周りが結婚を決めていく中で恋愛に積極的になれず過ごしていた。押し付けられる価値観に窮屈感を抱きながらも仕事に打ち込む日々を過ごしていた。ある日隣の部署に秋吉慶一(アキヨシ ケイイチ)が異動してきたことにより美月の心が揺れ動かされていく。既婚者と知りながら惹かれていく思いは向かう宛もなく進み始めた。
【プロローグ】
三十代を過ぎた頃から人生のルーティーンに変化がなくなった。食事も服も休日の過ごし方も平均的なものを選ぶようになった。その無難さが私に底知れぬ安心感を抱かせた。
だから―――まさか自分が既婚者を好きになるなんて。想像すらしていなかった。
オフィスを出て見慣れた道を真直ぐ歩いていた。数分前の同僚の会話がとても遠い出来事の様に感じる。建ち並ぶお洒落な居酒屋の明かりが灯り始めた。呼び込みの声が左右から聞こえては耳から耳へ抜けていく。中へ入っていく客は、一日の疲れを肴にお酒を口にするのだろうか。そして上司や部下の悪口を零すのだろうか。それとも最近太り始めた妻に対する愚痴だろうか。隣の席では男女のカップルが仲良く料理を取り分けながら将来の話に花を咲かせているのだろうか。食事が終わればホテル直行か。
気が付けば『あの店』の横を通りかかっていた。胸が痛くなる。鼻の奥がツンと刺す。咽につまる熱さが込み上げそうになり外の冷たい空気を何度か呑み込んだ。昨日のように鮮明に思い出せる。あの日からもう一年が経とうとしている。
いつしか駅も通り越し辺りは静寂に包まれていた。街のチカチカした眩しい光は届かず、ぼんやりとした歩道灯が夜道を照らしている。線路沿いを歩いていると、カンカンカンと静寂を切り裂くような激しい音が、霧がかかった私の頭にも勢いよく聞こえてきた。
突然、線路と歩道の間にある金網がギシギシと音を立ててしなり始めた。前方から来る強い明かりに目を細めると、強風を起こしながらあっという間に電車が通り過ぎた。冷たい北風が体を叩き付けていく。
また静寂が訪れるとダウンコートのポケットに両手をつっこんだ。右ポケットにカサカサと紙のような質感がかじかんだ指先に触れた。 今夜は今年一番の冷え込みだと朝のニュースで流れていた。今朝、慌てて引っ張り出してきたダウンコート。なにかが入っているのか全く覚えがない。折れ曲がった紙をポケットから出すと足が止まった。出てきたは折れ曲がった『退職届』。私が書いたものだ。そうだ・・・一年前のあの日、私はこれを提出するはずだった。もしこれを提出できていたら、今私はここにいなかった。後悔はしていない。そう言い聞かせた途端、胸から込みあがった感情を必死で押さえつけた。唇を噛み締めていると、しわくちゃになった退職届にポタリと涙が零れた。止まれ、止まれ!涙を拭いながら何度も何度も言い聞かせた。後悔はしていない。本当に。自分が選んだことだから。だけど・・・叶うのならもう一度だけ、もう一度だけ最後にあの人に会いたい。
【第一話】過ちのきっかけ
―――一年前
「うん。本当に今日はゴメン。せっかくおススメのお店を咲子(しょうこ)が予約してくれたのに。もし行けそうだったら顔出すね」
『仕事ならしょうがないって、クリスマス会って言ってもいつもの飲み会と変わりないし。また時間ある時に会えばいいよ』
「かすみにもよろしく言っといて」
『はいは~い!仕事頑張ってねぇ~』
オフィスの休憩スペースで電話を切るとため息が出た。二年前からクリスマスは高校の友人、咲子とかすみで集まるのが恒例になっていた。きっかけは確か奈美ちゃんの結婚式で数年ぶりに再会したからだ。
私は大学を卒業して、大手の食品会社に就職した。『未来につながる日本の食卓』がキャッチコピーの鍵塚食品グループはスーパーや飲食店と大型取引から個人店まで幅広く取り扱っている。事務課だった私がマーケティング課に配属されたのは、昨今の『女性の社会進出』の煽りとここ数年の退職者が激増したからだ。長く勤めている私が、たまたま空席になったマーケティング課のおこぼれ席に座れただけ。最初はもちろん嬉しかった。やりがいや楽しみもそれなりにあった。同僚が、結婚やおめでたで退職していくとき『美月は昇進したし仕事一筋だよね!かっこいい』と言われた。別に仕事一筋でやっていこうとも、結婚をしないと決めていたわけでもないのに。他人にはそう見えるのだと、今までは気にしてこなかったけれど、女の付き合い方の複雑さを体感した気がした。
「清野さん。取引先からお電話が入っています」
「はい。今行きます」
空になった缶コーヒーをゴミ箱に捨てデスクに戻った。電話口の向こうには先日面会した、出汁製造会社の広報の人だった。保留された案件だったが、どうやら社内会議でうちとの契約を前向きに考えたいという返事だった。電話を切ると隣の広報課の人が入って来た。このビルは全て鍵塚食品のもので、人数の少ないマーケティング課は広報課や教育課などと同じフロアにまとめられている。広報課とは色々話し合いもあるから、同じフロアにあるのは便利だった。
「清野さん、さっきの人見た?」
帰り支度をした田中さんに声をかけられた。潜ませた声の中に含みのある物言いは噂話が大好きな田中さん特融だ。さっきの人とは広報課の人のことだろうか?マスク越しでもわかるくらい、田中さんの顔をにやつかせていた。
「秋吉さんでしたっけ?先月本社から異動された方ですよね?一度挨拶に」
「異動じゃないわよ。査定よ、査定!次の常務取締役になるらしいのよ。それで各エリア部署回ってるらしいわ。気をつけないとねぇ~変なこと言ったら左遷よ!私たち」
「はぁ、そうですか」
気の抜けた声が出ると、田中さんは盛り上がらない私との会話に口をへの字にした。ようだった。マスクしているからわからないけど。適当に相槌を打っていると秋吉さんがマーケ課の社員と話をしていた。次期常務取締か出世街道まっしぐらって感じ。
「じゃ私先に帰るわね!お疲れ様」
「お疲れ様です」
毛皮のマフラーを首に巻きながら田中さんはオフィスを後にした。社員がまばらに帰宅を始める中、私は溜まったデスクワークを片付けていた。急ぎではない。それなのに予定を断ってまで残業をするのは昼頃に営業に出て行ったきり戻らない上司、河辺の帰りを待っているから。外にはいつの間にか雪が降り出していた。離れたデスクで仕事をしていた岡西さんが慌てて帰宅の用意をし始めた。とうとう私一人か・・・。
「あの岡西さん、河辺部長って今日何時に戻るか聞いていますか?」
「部長なら雪降ってくるから直帰するって少し前に連絡ありましたよ」
「えっ直帰?」
「あの人そういうところありますよね。雪なんて今降ってきたのにさぁ。俺も帰りますけど、施錠お願いしていいですか?」
「はい。わかりました」
入り口にカードキーと金庫の鍵を置くと、岡西さんは雪を気にしながら足早に帰って行った。オフィスの窓から外を見ると、確かに雪が積もりかけている。
そうだ、さっき入った出汁コラボの話も共有しないと。カチカチと叩くキーボードの音が虚しく響いて行く。帰ろうか・・・。今ならまだ咲子たちとの約束にも途中にはなるけど参加できる。この憂さを晴らせる。
「はぁ」
コーヒーが飲みたくなり休憩室でさっきと同じ缶コーヒーを買うと、広報課の明かりもまだついていた。私以外に残ってる人いるんだ。
デスクに戻りコーヒーを口に含むと、ゆっくりと引き出しを開けた。初めて書いた『退職届』の三文字が見える。十年近く勤めたこの会社を辞めようと思ったのは昨日今日の話じゃない。二年前から考えていてようやく決心がついた。会社が嫌なわけでも、他になにかしたいわけでもない。ただ、もうこの仕事をしたくない。取引先と会社との板挟みのような仕事に正直疲れた。大した理由でないと言われればそれまで。だけど、やりがいのない仕事をひたすら続けていく苦痛は数年の間に積み重なり苦しくなる一方だった。
「はぁー・・・」
ビビイィィとスマホの警告アラーム音が響いた。スマホの画面には『雪のため路線凍結により運転見合わせ』最悪の知らせだった。
「嘘・・・最低だ。早く帰ればよかった」
デスクの上で力尽きた。仕事をやる気力はもう残っていない。タクシーで帰るか、いやでも電車が止まるとすぐに激混みになるんだよな。それにお金が・・・。ホテルで泊まろうかな。あー・・・どうしよう。スマホで近辺のホテルの空き状況を確認すると既に満室の所が多い。グゥと静かなオフィスに自分の腹の音が響いた。
「とりあえずなんか食べに行くか」
幸いオフィスの近くは飲食店が多い。腹の虫を抑えるためダウンコートを羽織り、出ようとすると河辺の席が視界に入った。そうだ、せっかく誰もいないオフィスだ。河辺の席に近づき、渡せなかった『退職届』をデスクに置いてみる。今日社員が帰ったあと渡そうと思っていた。きっと退職理由とか色々聞かれて時間がかかるだろうと思って、咲子達との食事会を断ったと言うのに。
「あの、すみません」
人の声に咄嗟に『退職届』をポケットにねじ込んだ。誰もいないと油断していたせいで、ドア付近に立っている人物の名前がすぐ出てこなかった。夕方に来た人だ。田中さんが次期常務取締役になると言っていた人。確か、秋吉さんだっけ。
「すみません急に。僕は広報課の秋吉です。カードキーのやり方わからなくて聞いてもいいですか?」
「はっはい!もちろんです」
物腰の柔らかい口調で正直驚いた。役職がついている人は大抵普段の口調も厳しくなる人が多かったから。
「ここにルーム番号入れて、社員証かざせば施錠できます」
「ルーム番号?」
「はい。ここはマーケ課なので広報課とは違うんですが、ご存じですか?」
「そういえば、帰る時に言ってたな。ちょっと待って」
秋吉さんが河辺に挨拶しに来たのは先月だった。「こちらでしばらくお世話になります」と秋吉さんが軽く頭を下げると、河辺が珍しくおどおどしていたのが印象的だった。
「おっできた!助かりましたー。ありがとう」
「いえ、これくらい・・・」
「今から帰るところ?えっと」
「ご挨拶が遅れて申し訳ありません。マーケティング課の清野です」
「清野さんね!じゃ駅まで帰ろう」
「あの・・・それが私、中央線なんですけど今雪で運転見合わせしているみたいで」
「えっ!?そうなの!?僕も中央線だ。参ったな」
エレベーターに乗り込むと、ガラス張りの窓から外が見える。思っていた以上に雪が降っていて、地上が白くなっていた。隣で秋吉さんがスマホで電車の状況を確認していると数秒後「あちゃ」とため息交じりの声が聞こえた。
「本当にすごい雪だな。清野さんはどうするの?帰れる?」
「もう少し運転再開待つか、ホテルに泊まろうかと思ってます」
「そうか、雪はあまり降らないと思っていたのに油断したな。僕もどこか泊まるか」
一階に着いたところでエレベーターのドアが開いた。冷気が素早く入り込んでくる。体に力が入り、これから更にくる寒さに備えた。案の定、雪が降る外はかなり冷え込んでいる。
「うぅわっ寒っ!こっちの冬はこんなに冷えるんだね」
「寒いです。寒いですがここまでの寒さは滅多にないです」
「ねぇ清野さん。電車止まってるし、せっかくだからご飯食べに行かない?僕単身赴任で、最近来たばかりなんだけこないだ美味しいお店教えてもらったんだ」
正直、会社の人とご飯を食べに行くのは苦手だった。気を遣うのももちろんある。だけど、結局は仕事の話しかしないから。ただ、今日はこの寒さと空腹の方が勝っていた。多分そう思えたのは、先月会った時も今も私は秋吉さんに悪い印象を持たなかったからだ。
次第に積もっていく雪の中、飲食店をいくつか通り越した。てっきり居酒屋に行くのかと思っていたが、やってきたのは落ち着いた雰囲気の洋食屋さんだった。こんなお店が会社の近くにあったんだ。秋吉さんが店内のドアを押すとカランカランと鈴が鳴った。店内に入ると、冷えた体がゆっくりと温まっていく。コートについていた雪もすぐに解けていった。雪のせいで足止めを喰らっていた人は多いらしく、テーブル席が埋まっており私たちはカウンター席に案内された。
「ここのナポリタンがすごく美味しかったんだ。また食べたいと思っていたから来れて良かった。清野さんはナポリタン好き?」
「あまり食べたことないです。すみません」
「どうして謝るの?僕もナポリタンあまり食べたことなかったんだよね。嫌いじゃないけどメニューにあっても中々注文しないというか、そういうのない?」
「あっ私もそんな感じです」
「だよね~でもこの間来たときに隣の人が食べてたんだよ。それが美味しそうで僕も食べてみたら、美味しかったんだよ」
メニューを見ると、秋吉さんがオススメしたナポリタンが一番上に載っていた。昔ながらのナポリタンの上にお店の特性チーズをトッピングしたナポリタンだ。
「お先にお飲み物をお持ち致しますが」
「清野さんはお酒、飲む人?」
「え、とウーロン茶でもいいですか?」
「もちろん。じゃ、ウーロン茶二つ下さい」
「かしこまりました。メニューもお決まりでしたらお伺いしますが」
秋吉さんがこちらを見たので私は直ぐにオススメされたナポリタンを注文した。カウンターで注文を受け取ると、店員はドリンクサーバーがある厨房へ入って行った。
「もしかして僕が強制しちゃったかな」
目を細めて笑う秋吉さんと目が合った。あまり気を使わせてしまわないように私も微笑み返した。
店内にかかるジャズミュージックがレトロな感じを漂わせ店内の装飾に馴染んでいた。壁に掛かる柱時計もノスタルジックな演出を手伝っている。
「それにしても雪で電車が止まるなんて思ってなかったな」
「東京だと電車たくさんありますもんね」
「そうなんだよね。一本止まったとしても次、次、次最悪タクシーってなるけど・・・ここだとタクシーで帰ると万越えするから経理に煙たがられるんだよな」
「秋吉さんでもそうなんですか?」
「そうだよ。こっちは仕事しているのにね」
すると「お待たせしました」と隣の席の人にナポリタンが出された。ほかほかの湯気が立ち昇るのと一緒に甘いトマトケチャップソースの甘酸っぱい香りに鼻腔をくすぐられた。確かに美味しそうだ。ウィンナーには香ばしく焦げ目がついていて野菜もたくさん入っている。その上にまん丸のチーズが乗っている。つい注文してしまった秋吉さんの気持ちもわかる。
「美味しそうですね」
「だろ?」
隣に聞こえないように秋吉さんに耳打ちをすると、今度はちゃんと笑ってくれてほっとした。部署違いとは言え上司には変わりない。先ほどポケットにしまった『退職届』が頭の中の記憶をかすめた。見られてはいないはず。
「はい。お待たせしました」
「おっきた!」
私たちの前にナポリタンが置かれた。秋吉さんはジャケットを脱ぐと腕まくりをし、再度おしぼりで手を拭いていた。そういえば男の人と二人で食事をするのは久しぶりだな。しかもカウンター席で食事なんて。あれ、もしかしたら初めてかもしれない。隣にいる秋吉さんとの距離は近いはずなのに威圧感がない。フォークにくるくるとパスタを巻き付けて口に含む一連の動作に無駄がなかった。私もフォークを手に取り、おすすめのナポリタンを食べた。
「美味しい」
「だろ?よかったー正直あれだけオススメしたから好みじゃなかったらどうしようって思ったよ」
「美味しいです本当に。ナポリタンってこんなに美味しかったんだ」
お腹が空いていたせいもあるかもしれない。でもお世辞抜きでここのナポリタンは絶品だった。フォークにパスタを巻き付け口に運ぶ秋吉さんも美味しそうに食べている。秋吉さんが顔を上げた拍子に目が合った。
思っていた以上に至近距離だったことに驚いた。
「どうかした?」
「あっいえ、ここのお店のこと全然知らなかったので教えて貰えてよかったなって。ありがとうございます」
「そんなたいしたことないよ。清野さんは入社してどれくらい経つの?」
「十年目です」
「長いね。もうベテランだ」
「そんなことないです。最初の四年間は事務課で、そこからマーケ課になったので、まだまだ分からないこともたくさんありあます」
「真面目だね、僕もわからないことだらけだよ」
次期常務取締役候補がわからないことだらけなわけないだろう、と突っ込みを入れたい。けれど秋吉さんの顔を見ると冗談でもなさそうな顔をしていて、私はまたナポリタンを口に含んだ。今まで一緒に仕事をしてきた異性は『自分はできる』という自信が滲み出ている人がほとんどだったから、なんと言っていいかわからなかった。
「仕事は楽しい?」
秋吉さんは既に完食していた。やっぱり男の人は食べるのが早いな。またメニューを見ながら私に質問した。入社して三カ月後、この会社では新入社員面談というものがある。勤務内容や対人関係、今度どういうビジョンを持って仕事に打ち込んでいきたいか、など採用面接で聞かれたことを入社してからもう一度聞かれるのだ。そのときに全員聞かれるのがこの質問だった。むしろ面接以外で聞かれたことはない。あの頃は即『楽しい』と答えなければ不合格通知、又はやる気がない給料が上がらない。そういう傾向にあった。だから即座に『楽しいです』と答えていた。だけど、今聞かれている『楽しい』はなんだろうか、むしろ『楽しい』だけでやっていける仕事なんてあるんだろうか・・・
「マスター、プリン二つお願いします」
「かしこまりました」
薄いメニューをパタンとしまうと、また秋吉さんと目が合った。丸い二重の奥にある黒い瞳に、間の抜けた自分の顔が写っていそうだ。簡単な質問になにをためらっているのか。深い意味はないのだから、楽しいですと適当に言ってしまえば良かったのに。
「あっゴメン、仕事の話ばかりヤダよね」
「いえ、そう言う訳じゃ」
「雪まだ降ってるよね。電車の状況見ておかないと」
ポケットからスマホを取り出すと、素早く電車の運休状況をチェックし始めた。上司に気を使わせてしまった。煽てるのは得意ではないけど、気を使わせないようにとは思っていたのに。秋吉さんがスマホをタップすると画面のライトが変わっていく。気遣いが早い。こういうところからも仕事ができる感じが伝わってくる。
「SNSとかはやってる?」
「やってないです。あまり得意ではなくて」
「そうなんだ。若い子はみんなやってるイメージだったけど」
「私は若くないので」
「えーそんなことないでしょ、だって・・・あ、ゴメン」
「・・・?」
「上司が年齢聞くのとかって今セクハラになるんだよね。ゴメンゴメン今のなし」
顔の前で手を左右に振ると、秋吉さんがスマホをテーブルに置いた。そして背を伸ばしながら、私の後ろにある窓を見た。私も振り返り、外を見てみるが曇るガラス窓からは雪がどれほど降っているのかわからなかった。同じものを食べて同じものを見ている時間に満たされていく気がした。
「電車動きますかね・・・」
「まだ電車止まってるみたいだけど、さっきよりは雪弱まっているっぽいんだよな」
ハンカチで口元を拭いていると、マスターがプリンを二個持ってきた。そういえば秋吉さんさっきなにか頼んでいた。
「秋吉さん、来ましたよ」
「あっうん。ありがとう。清野さんも食べてみて。ここプリン絶品だから」
「いいんですか?」
「そのために二つ頼んだんだよ。僕が二つとも食べると思ったの?」
秋吉さんの言葉に思わず笑ってしまった。気が付けば自分の肩の力が抜けていた。いや違う。
「ありがとうございます。いただきます」
「うん」
「おっ電車徐行運転で動き出すってよ!」
「マジか!早く行こう!お会計お願いします」
店内が急に慌ただしくなった。ガタガタと椅子を引く音があちこちでしていた。店内の壁にかかる時計を見ると時刻は0時を回ろうとしている。私のお皿にはまだプリンが残っていて、秋吉さんは既に食べ終えていた。
「秋吉さん、電車動いたみたいです。よかったら先に」
「急がなくても大丈夫だよ。今動いたってことはここから先動く見込みがあるからだと思うから」
この人ともう少しだけ話してみたい。なぜだかそう思った。そう思える異性に出会えたのは何年振りだろう。周りが結婚していく中、一人で生きていくと決めたわけでもないけど、このまま一人で生きていく道もあるのだと選択肢に加わった。それは、仕事を一生続けていくイメージはできても、誰かと一緒に一生を添い遂げるイメージが私には上手くできなかったからだ。他人から心から愛されるような存在でもない。
「もしまた運休しそうになったら直ぐ言うよ」
「ありがとうございます」
私は再びプリンをスプーンに少しだけのせ口へと運んだ。マスターと秋吉さんが話してる横顔を記憶に刻むように見つめた。最後にコーヒーを飲んで私たちは店を出た。
外に出ると風は治まり雪はまだ降っていた。足元に気をつけながら駅へ向かうと電車が発車する音が聞こえてきて安心した。二人で並んで駅まで向かった。他愛もない話は尽きることがなかった。急に鼻の頭が赤くなってることに恥ずかしくなった。
ホームに列車が入ってくる。徐行運転だけど動いている。
「電車来ましたよ」
「良かった。僕反対方向だから、清野さん先に乗ってね」
秋吉さんの鼻の頭も赤くなっていた。肩をすぼめながらわざわざポケットから手を出して小さく降ってくれた。きっとこんなにお近づきになれるのは今日で最後だろうと思った。私はマーケ課で秋吉さんは広報課。しかも秋吉さんは常務候補。それに・・・。
「今日はありがとうございました。こんな日で最悪って思ったけど、秋吉さんのおかげでとっても楽しかったです」
一礼して電車に乗った。私の言葉に少しだけ目を丸くしてすぐに口角を上げた。寒さが続く中、電車のドアがしまった。窓越しに手を振る秋吉さんに、私もそっと手を振ってみようかと迷ったけど、さすがに上司にそれはと思いもう一度軽く頭を下げた。駅の街灯がパチパチと点滅すると、秋吉さんの左手薬指の指輪もそれに伴い反射した。
遠ざかっていく人影が秋吉さんだとわからなくなるまで見ていた。
この日から、私の平均的な感覚に亀裂ができた。人が人を好きになる瞬間はあっけない。けれど、一度進みだした気持ちは簡単には止らない。
【第二話】最低な女
「清野くん。少しいいかね」
椅子に緩く腰掛けていた河辺が私を呼びつけた。ワイシャツが左右に引っ張られ、かろうじてとめられているボタン。異動してきてからどんどん締まりのない体型になって良いることをこの人はどう思っているんだろう。白髪混じりの髪はセットされるこはなくなった。それでも家に帰れば妻子がいる。私にとっては嫌味な上司でもこうして働いているのだからわずかながらに敬意を持てる。さて今日はどんな嫌味を言われるのだろうか、そう構えていた。
「なんでしょうか」
「実は次の朝光商業の企画案件なんだが、君に任せたいと思ってね」
「えっ・・・もしかして朝光商業ですか?かなり大手ですよね。私で良いですか?」
「先方から今回の企画は女性が良いと言われてね。頼めるかね」
「はい!ぜひやらせてください」
思わず声が大きくなってしまった。朝光商業とは、私たちの業界で知らない人はいないほどの大企業だった。私は河辺から企画資料を受け取った。
「よし。決まりだな。連絡入れとくからあとは任せたよ。今、受け持っている仕事が忙しければ他の人にまわしてもらってもいい。朝光商業を優先してくれ」
「はい」
昼休み、コンビニに行こうと廊下に出ると隣のオフィスにいる秋吉さんの姿を見つけた。パソコンに向かい仕事中のようだった。左右に分けた前髪を指先で直していた。気づいて欲しいような欲しくないような。心臓の奥がくすぐられる。食事をした日から、秋吉さんを見つけると目で追っている。
「清野くん、先ほどの件だが先方とのスケジュール見といて」
「あっはい。今行きます」
最後に恋をしたのはいつだっただろうか。意識をして思い出さなければいけないほど前だ。街中に溢れる色恋の音楽も、イベントも次第に遠のいていった。遠のいていたはずなのに近頃の、多種多様を利用してみんなで盛り上がろうというコンセプトが気持ち悪いほどの勢いで広まっていた。理解し合える世の中、認め合う世の中、でも心の内で、いや遺伝子レベルで根付いている思考はそう簡単に取っ払えるものじゃない。実際、私を見る世間の視線はなにも変わっていないように思える。
確認を終え休憩に出る頃には昼と呼べる時間帯を越えていた。エレベーターが来るのを待っていると窓の外に飛行機が見えた。
「お疲れ様。今から休憩?」
「あっ秋吉さん!お疲れ様です。はい。もう少し早く出る予定だったんですが、先方から電話が入って、今から休憩です」
「そうなんだ。頑張ってるね」
恐いくらい緊張して話すのが早くなってしまった。秋吉さんは仕事柄か、元からなのかわからないけど穏やか優しい耳障りの良いトーンで話してくれている。頑張ってるね、なんて言われたのいつぶりだろう。
「河辺さんって癖強いって聞いてたけど清野さんはわりと平気?」
「えっ・・・。そうですね。職場では色々な方がいますから」
「あっごめん。これ調査とかじゃないから気にしないで。ただ、清野さんは周りとのやりとりが見ていて上手だから。逆に疲れすぎないか心配かな」
エレベーターがゆっくりと上がってくる。緊張が増して行くなかで早く来て欲しいと思う一方で、まだ止まらないで欲しいと願っていた。
「私は、意外とそういうの慣れてますから。秋吉さんこそ上層部とのやりとり大変ですよね。常に緊張感のいる役職ですから」
秋吉さんを見上げると、丸くしていた目を細めた。息をついた表情が今までの秋吉さんと違っていて胸が締め付けられる。この人が好きだと激しく自覚する。頭と胸が対極の反応を繰り返す。自分の顔が緩んでいないか唇を軽く噛んだ。
「おっエレベーター来た!休憩行ってらっしゃい」
「はっい。ありがとうございます」
ありがとうございます?とはなぜだろう。会話が成り立ってない。慌ててエレベーターに乗り込み一階のボタンを押した。秋吉さんは扉が閉まるまでそこに居てくれて、あの日と同じように手を振ってくれている。
「はぁぁ・・・」
大きく息を吸い込んでゆっくりと吐き出した。体が熱い。胸って本当に痛くなるんだ。誰もいないエレベーターで脱力した。こんなにも、話せなくなるものだっただろうか・・・好意を抱いた異性と。
好きになるだけなら罪にはならない。誰にも言わなければ誰も知らないし傷つけたりしない。
□□□
「ハイボールと生で、あっあとポテサラも!」
メニューを復唱すると店員は威勢の良い声を出しながら厨房へ戻って行った。金曜日の夕方を向かえた飲食店は慌ただしい。この時期は新年会あるから通常より忙しそうだ。現に店内はほぼ満席で、あちらこちらから人の話し声やどっと笑い声が沸き起こった。
「あっそういえば咲子、クリスマスパーティー行けなくてごめんね」
「良いよ、別に気にしなくて。年末年始って仕事忙しいよね。あれ仕事まだ続けてる?」
「あーうん。一応今のところは」
「そうなんだ。続けられそうならそれもありだって」
「今度面白そうな仕事の案件任されてさ、それが終わったらまた考えようかなって」
「うんうん。ありだよ。あっやば!これめっちゃ美味しそう!これ食べよう!あっあとこっちの味噌バターも美味しそうだな」
咲子がニッと笑うと八重歯が出るのは中学の時から変わらない。車で遠くまで遊びに行ったり、こうやってお酒を飲んだり結婚して大人になる咲子を隣で見ていても根本の物はあまり変わっていないような気がした。
「私も最近バタバタしててさ~」
「離婚の話は順調に進んでる?」
「そうっその話聞いてよ!もう手続き色々面倒でさー相手の親も納得してないみたいだし」
「納得もなにもそもそも向こうの責任でしょ」
「そうなのよっ親バカなんだって!本当腹立つのっ!おまけに義姉さんまで出て来てさ」
話している中、注文したメニューがテーブルに運ばれてきた。フライドポテトの味噌バター味と明太豆腐ステーキに若鳥の柚子胡椒のせ、シーザーサラダどれも鉄板メニューだ。付き合いが長いからこそお互いの嗜好を把握しているからメニューの決め方が楽で良い。
「うわっなにそれ、弟の離婚の話に出てきて恥ずかしくないのかな」
「今思えば結婚式の時から色々世話焼いてたよ。両親が共働きで小さいときは私が良く面倒みてましたっていう典型的なタイプ」
「そういえば言ってたね」
三年前に咲子が結婚した。正直、寂しかったけど交友関係の広い咲子にしては思っていたよりも遅めの結婚だなと感じて誰よりも祝福した。だから一年前離婚するかも、と話をされたときは少し驚いた。驚いたけど、夫婦の関係に私が口を出すことなんてなにもない。仮にそこにどんな理由があったとしても、私が咲子の味方でいることに変わりはない。
「へい!お待たせしました!」
「私スパークリング追加で」
「はい」
テーブルの隅にあった灰皿を咲子が自分の方へ寄せた。黒のエナメルの化粧ポーチから煙草とライターを取り出すと、慣れた手つきで煙草に火を付けた。結婚して以来、子供が欲しいからとやめたと聞いていたけど。やっぱりこっちの方がらしいな。
「はぁー…やっぱさ慣れないことはしないもんだよ。我慢は長く続かない」
「そういえば、かすみは今日来なかったんだ」
私の問いかけに、咲子が思い出したかのように『あぁ』と低い声を出した。灰皿に灰を落すと、落ちた灰を見つめながらため息も落とした。
「どうしたの?」
「かすみは誘わなかった」
「そうだなんだ。まぁ三人予定合わすのも大変だもんね」
「・・・」
「なんかあった?」
咲子は眉間にシワを寄せるともう一度煙草を口に咥えた。言いづらい内容なのか、もしかしたらかすみに口止めされているのかもしれない。若鳥のからあげに柚子胡椒をのせ口に運ぶと、ぴりっとした刺激と柚子胡椒の香りが鼻に抜けた。
「もうあの子とは二度と会わない」
喧嘩でもしたのか、私は口の中にある鶏肉を咀嚼しながら続く咲子の話を待った。咀嚼するたびに肉汁が染み出てくる。うん。これも美味しい。
「かすみ不倫して慰謝料請求されてるらしいよ」
「なぅ」
いつ?誰?かすみとは、あのかすみで合っているだろうか?なにから聞けばいいかわからず、口を開いたが口の中に肉が入っていることを忘れ、飛び出そうになった。ゴメンと頭を下げ顔の前で手を挙げた。私が口の中を空にする間に咲子はもう一本煙草に火を付けた。私の聞きたいことを察した咲子が昇っていく紫煙を見つめながら再び口を開いた。
「大学の同じサークルだった人みたいだよ。相手はもう結婚してて、奥さん妊娠してるって。大きいお腹抱えて一人でマンションの前にいたらしい。『学校には言わないから金輪際、夫には会わないでくれ」って。探偵雇って撮らせた写真渡されたってさ」
咀嚼しても噛みきれない塊をそれでも口の中で咀嚼しようとした。いつしか味がなくなっている。塊を無理矢理のみ込むと、上がってきそうなのでハイボールで奥へ沈めた。異物が食道をぬるりと通って行く。
「かすみ、その人のこと好きだったの?」
「別に、特に好きでもなかったみたいだよ」
「えっ?どういうこと?」
「さぁ?ただヤりたかっただけなのか、寂しかったのか正直わかんない。ほら、あの子昔からプライド高かったし。私もさ、かすみが大学の頃から好きだった相手とか不倫して落ち込んでたらまだ・・・まだ庇いたい気持ちも沸いたかもしれないけど。久しぶりに会ってすぐ『慰謝料どれくらい請求してる?百二十万って多い?』って聞かれたらそんな気もわかなくなるよ。そんな人が今も教師やってるって気持ち悪いし世も末だわ」
かすみの両親は教員でかすみも教師になるって必死に勉強してた。高校二年のとき、かすみが隣のクラスに好きな人がいると恥ずかしそうに打ち明けてくれた。サッカー部のわりに大人しそうな人だった。顔は全く覚えてないけど、どうしたら連絡先を聞けるかみんなで作戦を立てたっけ・・・あの頃の思い出が急に突き放されたように遠ざかった。
「私が最後に会ったのは去年だったかな、そのときは良い感じの人がいるって言ってたけど」
「その彼氏とは別れたらしいよ?不倫相手とは大学からずっとそういう関係だったって」
「・・・はぁー世も末だね」
残りのハイボールを一気に飲みほした。そういうことをしながら、私たちと会って普通の恋愛話をして、かすみはなにを思っていたんだろう。実際、高校時代の友達と言っても大学に行って社会に出てたら変わっていくことの方が多いのかも。むしろたった三年間の学生生活で知った気になっている方が間違いなのかもしれない。
「なんか空気悪くなっちゃったね!ゴメン切り替えよう。美月は最近良い人いた?」
頭の中に浮かんだ人を直ぐにかき消した。私はなにもやましい事なんてないのに。
「いないよ、そんな人。相変わらず仕事だけの生活」
「だよねー。中々いい人いないよ」
今まで誰かの物を奪いたいと言う願望は一度もなかった。だから、あの人が結婚しているならそれを壊してまで自分の幸せを掴み取りたいとは思わない。かすみは一体どんな気持ちだったのだろう。考えてもそれはかすみと、相手にしかわからない。ただ、止めなきゃいけない思いが止まらないっていうところはほんの少しだけわかるような気がした。もし、出会うのが少し遅れただけで相手を本気で好きになったら人は止められるんだろうか。
その日以来、かすみから私に連絡が来ることはなかった。
【第三話】最低な男
「清野先輩のネイルかわいいですね。新しくしましたよね?」
私のデスクを覗き込んできたのは、一カ月前マーケ課に配属された花崎さんだった。愛らしい仕草で一躍マーケ課のアイドル的存在となった。若いのに仕事も早いし、みんなからの評価も高いけど・・・。
「いいな~私もそういう色が良いです。パープル?ピンク系ですか?」
「う~ん、どっちだろう。家の近くに新しくネイルサロンが出来て広告が入ってたから行ってみたんだけど。向こうの人に全部任せたから」
「えっ先輩広告見て行ったんですか?今時そんな人いるんですね」
「まぁ近くだったから」
「普通SNSとかで調べてから行きません?口コミ見て。失敗したくないし」
「へぇそうなんだ。次からはそうしようかな」
正直言うと私は苦手だ・・・。仕事面では差し障りないにしろ、年上をちょいちょいバカにする物言いと雑務はほぼ他人任せ。なにより私が苦手なのが返事や挨拶をしない。田中さんに聞いたら、今の若者はあまり挨拶や返事に慣れてないとか言ってたけど。
「これ頼まれていた書類まとめて置きました。後でメールで送りますね」
「さ、さすが早いね」
「これくらい簡単ですよ」
得意げに言うと、彼女は自分のデスクに戻って行った。そりゃ簡単だよ。できる範囲で頼んでるんだから。最近の社会は若者に甘すぎないか?私が入社したころは・・・ってこういう言い方、本当に年取ったよなぁー。
「おっ清野くん丁度いいところにいた」
「河辺部長。なにかご用でしょうか?」
「次回の研修報告会だけど、君に行ってもらっていいかな」
「本社のですか?」
「そうそう。あ、あと花崎くん二人で行って欲しいんだ」
「二人ですか?花崎さんにはまだ報告会は早くないでしょうか?」
「花崎くんは報告会に参加と言うより、顔合わせだよ。彼女マーケ課になってから本社に挨拶行けてないから」
「わかりました」
そう言うと河辺は奥にある接待室に入って行った。
最悪だ・・・よりにもよって花崎さんと一緒に行くなんて、絶対に疲れる。それに本社の人に失礼がないか心配。河辺の奴また私に厄介ごと押し付けたな。
広報課を見ると秋吉さんの姿はなかった。今日は外回りなのかな・・・。誰かにこんなに会いたいって思えるなんて不思議だな。
□□□
「我社は、今後もっと上を目指すべく今なにを成すべきか考える帰路に立たされている」
都内の一等地にあるホテル。そのホールを貸し切り研修報告会は年に二回行われる。この話は入社以来なにも変わってない。年に二回も開く必要あるのだろうか。その度こんな大きなホールを貸し切り、社員や取引先の人を招いて自己満足な会議をするのが勿体ないと思うけど。立食会の料理も大したことないし。まぁ社員の方向性を明確にしたいのはわかるけど・・・。
円卓テーブルの向かい側に座る花崎さんを見ると半分寝かかっている。その姿にため息が零れそうになるのを堪え気づかないフリをした。壇上に視線を移すと本社のお偉い様の見慣れない顔が並んでいる。その中に秋吉さんに似た人を見かけた。背丈が似ている。まさか研修報告会に来てるのかな。
「うぅ~やっと終わりましたね。私めっちゃダルイです」
「後は下のフロアで会食だから行こう」
「えーそれって絶対出なきゃダメですか?」
「顔だけでも出さないと。一応仕事だから」
「面倒くさいですね。あっ私今日近くにホテル取ってあるんで先輩は先帰っていいですよ」
「えっでも河辺さんには日帰りって言ってあるけど」
「宿泊がいいですって言ったらすんなりOKしてくれたんで私は泊ってきまーす」
泊まってくなら尚更顔出さなきゃダメでしょ。というか泊まるならまず同伴する私に言うはずでしょ。沸いてくる苛立ちをぷつぷつと潰しながら平常心を保った。今日は二人だけだし顔に出てないか心配。
「あっ清野さん!」
無言のまま二人で立食会場へと向かおうすると、背後から名前を呼ばれた。
「やっぱり清野さん参加してたんだ」
「秋吉さん!お疲れ様です」
「参加者名簿見たら、清野さんの名前があったからもしかしてと思って」
「はい。私もさっき秋吉さんに似た方がいらっしゃるなと思っていました」
秋吉さんに会えるなんて思ってなかったので、いつも以上に声が大きくなってしまった。秋吉さんが隣にいる花崎さんを見た。紹介しなくてはと、花崎さんを見るとすでにスイッチが入っているのがわかる。
「半年前にマーケ課に異動になりました花崎です。よろしくお願いします」
「こちらこそよろしく」
「秋吉さんそろそろ時間です」
「そうだった。じゃ清野さんまた。今回の料理はおいしいから期待してて」
「はい」
秋吉さんの隣にいた男の人が耳打ちをすると、なにか思い出したかのように慌てた様子を見せた。足早に去っていく秋吉さん。その背中はあっという間に人込みに紛れて行く。
「先輩!さっきの人誰ですか?」
「秋吉さん?広報課の---」
「秋吉さんは知ってますよ。そうじゃなくて隣にいた人ですよ!!」
前のめりになる花崎さんに驚いた。いつもクールを装っているのに。珍しい。隣?隣に誰かいたっけ?あっ秋吉さんに話しかけた人?
「めちゃくちゃかっこよかったです!!あんな人うちの会社にいたんですね!?」
「ゴメン。名前わかんない。私も初めて見たから本社の人かな」
「えっそんなっ・・・どこの部署の人だろう。一緒にいた人超イケメンでしたよね!?」
正直、秋吉さんしか見ていなかった。まさか会えるなんて、しかも話かけてくれるなんて思ってなかった。胸の奥がまだドキドキしているのがわかる。隣の人どんな人だったかな。
「見てなかった」
「ウソ!!もったいないっ」
すごいテンションが上がっている。さっきまで寝かかってたのに。階段を下りて立食会の会場へ入っていく。堅苦しい挨拶も簡単に雑談が始まった。各部署名刺を渡す人もいるけれど、私たちは研修会メインなのでその必要もなかった。
「でも花崎さん彼氏いなかった?」
「いますよ」
「じゃぁさっきの人の部署がわかってもアプローチできないじゃない」
「いや、しますよ」
「・・・でも彼氏さんは?」
「彼氏とはいつ別れても良いと思ってるんで。良い男がいたらすぐ乗り換えます」
「うまくいってないの?」
「そういうわけでもないですけど・・・つまらないんですよね。今の彼氏」
フルーツトマトを口に運びながらどこか遠くを見ていた。すると、会場のライトが薄暗くなり壇上が照らされた。『つまらない』だけで切り捨てられる彼氏とはどんな人なんだろう。それならさっさとわかれればいいのにと思うけどこれもひとつの形なのかな。私にはそんな器用なことできそうにない。前の彼氏とは六年付き合った。学生のときに出会ってそのまま社会人になった。どこが好きだったのか当時も今もよくわからない。ただあの時は好きになってもらえたことが嬉しくて付き合っていた。私と別れた後、彼は半年足らずでデキしたらしい。不思議と涙はなかった。昔憧れたていた、燃え上がるような恋愛は現実にはないと大人になるにつれて理解していった。
「では続きまして、前年度の成績優秀者の発表に移りたいと思います。レクリエーションも兼ねておりますので皆さまそのままでお願いします」
持っていたお皿をテーブルに置き拍手の準備をした。これも毎年恒例で、業務成績の良い人が発表され表彰されるのだ。発表されるのは毎回本部の人たちだから、私たちには関係のない催し物。
「続きまして、企画部門での優秀者は秋吉さんです」
聞き覚えのある名前に心臓が高鳴った。秋吉さんってまさか秋吉さん!?壇上に現れたのはやっぱり秋吉さんだった。挨拶する秋吉さんはいつもより少し緊張した声だった。照れながらも賞状を受け取っている。すごい。やっぱり本当にすごい人だったんだ。
「花崎さん、秋吉さんす―――」
後ろの花崎さんに声を掛けるとその姿がなかった。どこにいったんだろう?お手洗いかな。近くには空いた食器を片付けるウエイトレスさんだけ。
「あの、ここにいた人ってどこに行きましたか?」
「こちらに見えたお客様なら、タクシーを手配して欲しいと言われ先ほど帰られましたよ」
「えっ・・・?」
うそでしょ?私になんの断わりもなく黙って帰ったの?そのときカバンの中に閉まってあるスマホの振動に気がついた。画面を確認すると花崎さんから連絡が届いていた。『お疲れ様です。今日は色々とありがとうございました!お先に失礼します~(^▽^)/』
「あいつ・・・」
宇宙人だ。なにを考えているのかさっぱりわからない。というかやっぱり花崎さん苦手だ。表彰式も終わり場内が明るくなっていく。テーブルに残っているワインを一気に飲んだ。どこ産のワインかもわからない。ぬるくなった白ワインは美味しいのかそれすらもわからない。ただこのイラつきを抑えたかった。
「おおーすごい飲みっぷりだね」
振り返ると秋吉さんが立っていた。式も終盤になり、周りも和やかな雰囲気で談笑し始めていた。誰も見ていないと思ったのに。よりにもよって秋吉さんに見られるなんて恥ずかしい。
「えっあっ、いやこれはそのっ」
「いいっていいて明日お休みでしょ?」
「はい」
「前にご飯一緒にした時、ウーロン茶だったからてっきり飲まない子なのかなって思ったけどそうじゃなかったんだ」
クスリと笑う秋吉さんの顔が壇上で挨拶をしていた緊張感から解放されているようだった。高揚していく思いを抑えようとしたけど、今は周りに私を知っている人はほとんどいない。花崎さんだって帰ってしまった。抑える必要はないかもしれない。
「お酒は嫌いじゃないです。そんなにたくさんも飲めないですけど」
「へぇそうだったんだ。あっじゃぁこれどうかな?」
近くでワインを運んでいたウエイターを呼び止めると二つグラスを取った。
「大きな声では言えないけど毎年報告会の料理微妙だろう?せっかく社員が集まる会なんだから美味しい物を食べる方が誰だって嬉しいと思って今回は僕が色々提案させてもらったんだよ。はい。これ飲んでみて」
「そうだったんですね。いただきます」
秋吉さんからワインを受け取ると指先が微かに触れた。一口、口に含むと先ほど飲んだワインよりもフルーティーな香りがした。秋吉さんが私の反応を待っている。緊張する。緊張するのに二人で話せるこの空間が特別なものに感じた。
「美味しいです」
「だろう?よかった。」
「あ、そうだ秋吉さん。受賞おめでとうございます。本当にすごいですね」
「いや、そんなたいした賞じゃないよ」
「そんなことないですよ。凄い賞です」
「そうかな。ありがとう」
「そうかな。ありがとう。あれ?そう言えばさっき一緒だった新人さんは?」
「さっ先に帰りました!かっ彼女は宿泊で少しホテルが遠いみたいなので」
「へぇそうなんだ」
なんでかばっての私・・・。勝手に帰ったって言ってもよかったのに。どうして私が焦る必要があるの。
「清野さんは?時間大丈夫?」
「私もそろそろ新幹線の時間があるので帰ろうかと思います」
「そっか。じゃあ僕も一緒に出るよ」
「えっでも秋吉さんはまだいた方が」
「大丈夫だよ。僕が抜けても誰も気づかないだろうし。実は本社での仕事がまだ残ってて片付けたいんだよね」
そう言って秋吉さんにと二人で会場を後にした。外に出ると今夜は月が綺麗に出ていた。都心でもこんな綺麗な月が見えるのかと驚いた。タクシー乗り場まで隣同士で歩いていると急に胸がしめつけられてきた。
「そういえば河辺さんから聞いたよ。朝光商業の件任されてるんでしょう?すごいね」
「はい。正直やりきれるかとても心配だったんですが。周りの方のサポートもあって何とか順調に進んでます」
「心配することないよ。清野さんならできるよ」
「そんな・・・私は」
「謙遜することないよ。見ていればわかる。」
「・・・以前、秋吉さんに仕事は楽しいかと聞かれたとき、改めて考えてみたんです」
「えっ僕そんなこと言ったかな」
「はい。仕事が楽しいかなんて入社以来考えたことなかったので新鮮でした。本当はもう辞めたいと思っていたんです。色々考えてみて思ったんです。大変なこともありますけどそれよりも少しだけ楽しいが勝っていれば続けられるなって。だから朝光商業の件が上手くいっているのは秋吉さんのおかげでもあるんです。ありがとうございます」
思ったよりも素直に言葉が出た。本当はあの日、秋吉さんに『退職届』を見られたんじゃないかって思った。そんなことはないかもしれないけど。そんな今にも辞めそうな社員を引き止めるのも上司の務めと感じ私にその言葉をかけたのかもしれない。
違うかな?違うよね・・・。でも秋吉さんは他の女の人とは話していないけど私には話しかけてくれてそれが単純だけど嬉しくて。少しだけ、少しだけでいい。秋吉さんが私のことを話しかけやすい存在で見てくれているだけで私は特別だと思えるから。
「お礼を言うのは僕の方だよ」
「秋吉さんが?どうしてですか」
「どうしてって・・・。転勤したばかりでわりと緊張してたんだけど清野さんのおかげで早くなじめたからさ。転勤が多いのにこればかりは慣れなくてね。特に女性とは話すのが得意じゃなくて」
少しだけ照れたように笑みを零す秋吉さん。恋愛経験が豊富な人なら、これを誑しとか演技とか言うのだろうか。こんな他愛もない手口に簡単に揺さぶられる女は単純で馬鹿だろうか。
それなら私は馬鹿でも良い。これが演技なら騙されたっていい。
ロータリーに着くとタクシーが何台か止まっていた。背中に触れられた手に体がドクンと音をたてる。二人で後部座席に座ると、普段よりも距離がぐんと近い。さっき入れたワインが体を巡っている。
「駅までお願いします」
「はい」
運転手はそっけなく返事をするとすぐに車を発車させた。隣に座る秋吉さんを見るとふっと息を抜き緊張が少し緩んだ気がした。どことなく頬が赤いけど、秋吉さんもお酒飲んだからかな。
「あの、本当に大丈夫でしたか?出てきてしまって」
「うん。大丈夫。それにまた清野さんと話したかったし」
重なった瞳がそらせなくなる。息がつまるように苦しくなる。体が熱くなるのはお酒のせいだけじゃない。私は、この人が好き。今まで見つめ合っただけでこんなに胸が高鳴ることなんて一度もなかった。もしかしてこの人は気づいているんじゃないだろうか、私の気持ちに。私は気づかれてはいけない、と思いながらどこかで気づいて欲しいと思ってはいなかっただろうか。
「清野さんは?」
「私も・・・できたらお話したいと思ってました」
「そう。ならよかった」
秋吉さんはネクタイを緩めた手で私の手に触れた。あぁ、やっと触れてくれた。好きな人に触れられるというのは、こんなにも心地の良いものだっただろうか。初めてのような感覚にくすぐったくなる。私は初心な演出をしながら秋吉さんを見つめた。その距離が次第に短くなっていき、私も誘われるように近づいて行く。一度確かめ合うように触れるだけのキスをした。秋吉さんは私の手を握ってくれている。
「申し訳ないですが、場所変更してもらえますか?」
秋吉さんが運転手にそう告げた。私は黙ったまま隣で手を握っていた。
私は、たった一回のキスに舞い上がった。そして車内で何度か唇を重ね合った。秋吉さんからさっき一緒に飲んだワインの匂いがする。きっと私からも・・・。繋がった手はずっと繋いでもらえていると馬鹿みたいに喜んだ。秋吉さんの手が腰に回され引き寄せられた。その行為に、私は応えるように秋吉さんの首に手を回した。好き、胸の内に押し殺していた気持ちが防波堤を突き破って溢れてくる。秋吉さんからもその気持ちが伝わってくるのがわかる。だからその指にある銀色の輝きを見て見ぬふりをした。
「初めて会ったときからずっと気になっていた。だからあの日、あの日雪が降っていて良かったと内心思っていた。清野さんと話せる口実ができたから。気がついたらこんなにも君を好きになっていた」
そこは夜景が綺麗なホテルだった。秋吉さんと二人きりで過ごせる夜を幸せに感じた。なによりも特別な時間。ふわふわした朧気な目の前の現実にただ酔いしれた。秋吉さんからの温もりが体に染み込んでくる。ひとつひとつ優しくて丁寧で、私を大切にしてくれた。
かすみのことを最低だと心の中で軽蔑しながら私も同じ女だったということを自覚した。
□□□
いつもと違う質感のシーツと香り。体に残る疲労感と鈍い痛み。微睡んでいた思考が現実に戻って来た。
朝、目が覚めると秋吉さんの姿はなかった。仕事があると言っていたから本社に出社したのかもしれない。重い体を動かしながらスマホを見ると誰からも連絡はない。時刻はすでに昼近かった。ベッドにはまだ微かに秋吉さんの香りとぬくもりが残っている、離れたくない。
ソファに掛かっている服を着ながら覚めない夢の中にどっぷりと浸かっていた。鏡に移った自分と目が合った。体に残っている秋吉さんの存在にまた体が疼く。重い体すらも心地よく感じている。『好き』と何度も言われて私も必死になって伝えた。支度を終え私は部屋を出た。
新幹線の切符を取り直してようやく一日が始まった。昨日と今日まるで全てが違って見えた。気持ちが晴れやかで、早く秋吉さんに会いたい気持ちでいっぱいだった。電車の窓から見える景色は本当に美しく思えた。
翌日、出社するまで私は浮足立っていた。秋吉さんにどういう顔をして会おうとか、なにから話そうとか考えながら頭の中で予行練習を繰り返した。あの一夜を経て、自分は特別な存在だと確信していた。誰にも言えないけど、誰にも言わなければ誰も傷つかない。その日の仕事は驚くほど捗り、ストレスの現況だった河辺の小言や花崎さんのこともなにも気にならなかった。
昼休み、廊下に出ると秋吉さんの姿を見つけた。心臓が今までにないくらい大きく跳ねあがった。秋吉さんはスマホを触りながらひとりでエレベーターが来るのを待っていた。
廊下には私と秋吉さん以外誰もいない。話しかけようと一歩二歩と近づいた。なにを話しかけるかなんて考えていなかった。ただ、前とは違う関係に心が躍っていた。秋吉さんは私に気付き視線をこちらへ向けた。彼のハッとした顔と同時に私は微笑んだ。あの日の甘い一時に、私は魔法にかけられた少女のようだった。けれど、秋吉さんは私を見ると開いたエレベーターにすぐに飛び乗ってしまった。
「・・・?」
取り残された私は、浮かれた表情のまま立ち尽くした。背後で聞こえる同僚の声。気づかなかった?ううん。そんなことない。目は合っていた・・・。
よくわからない思考のまま気がつけばデスクに戻っていた。目の前の書類をみながら、先ほどの秋吉さんの表情を必死に読み解ことうした。きっと急いでいたんだ・・・。
「あれ?清野さん休憩にでたんじゃないの?」
「あ、・・・えと。この書類の締め切りが近づいていたのを思い出して。これを終わらせてから行きます」
「そうなの?相変わらずまじめだな~」
私は仕事に戻った。急ぎの仕事でもないのにすぐに片付けてまた次の仕事に取り掛かった。隙が出ると秋吉さんの存在が入り込んできて恐かった。余裕ができると、先ほどの秋吉さんのバツの悪そうな表情が脳裏に蘇る。カチカチとタイピングの音がやたらと響く。思い出すな。思い出すな。そう唱えるながら仕事に向かった。そうしなければ魔法が消えていきそうだった。一気に現実に引きずり戻されそうになるから・・・。
「・・・」
大人になってからの恋愛や失恋、男女の色恋沙汰は実に面倒だ。咲子とも話したことがあった。その傷か癒えるまで相当な時間が必要になる。わかっていたのに・・・。自分が傷つくことなんて明白だった。自分の浅はかな行動がバカすぎて涙もでない。でないのに、ひたすらに苦しい。ベッドの中でどんなに甘く囁かれたって、そんなのその場を盛り上げる演出にしかすぎないのに。馬鹿だ・・・自分が選ばれることなんてないのに。傷つく準備をしなければ。次に秋吉さんに会った時にどんなことになっても受け止められるように。
□□□
重い気持ちを引きずったまま数日たったある日。残業を終えて、帰る支度をしていたころ。隣で話していた同僚たちの声が耳に入って来た。
「えっ田中さんそれ本当になの!?秋吉さんが!?」
「本当だってば!さっき河辺部長に挨拶してたの」
「えーだって常務の話は?」
「一先ず保留なんじゃないの?わからなないけどさ。とにかくびっくりだよね」
聞き耳をたてていたわけじゃない。ただ、秋吉さんの名前に自分が必要以上に反応してしまうだけ。結局あれから秋吉さんとはなにもない。前までは廊下ですれ違ったり、オフィスで見かけたら声をかけてくれたのに。
「まさか海外転勤だなんて」
「でも奥さんいたんでしょ?なんで海外なんていくんだろう」
「志願したらしいよ。海外情勢も把握しておきたいとかなんとか」
「すごっ。ねぇ清野さんは知ってた?」
「清野さん?どうしたの?」
「・・・いえ、知りませんでした。秋吉さん海外赴任されるんですか?」
「そうなのよ。しかも来月から行くらしいのよ。急に決まったもんだから、送別会とかもなしだって」
海外転勤?秋吉さんが・・・?
仕事が捗らずに結局終わらせる頃には定時を越えてしまっていた。まだ社員が残る中私は一人でオフィスを出た。
冷え切った帰り道をぼんやりと歩いた。数分前の同僚の会話を、とても遠い出来事のように感じながら。建ち並ぶ飲食店を通り過ぎ、『あの店』も通り過ぎていく。
踏切の青いライトに包まれる線路はとても不気味だった。カンカンカンとまた夜を切り裂く音が響いた。何本目かの電車がやってくる。青色のライトの地面に、赤色のライトが無遠慮に光り出す。カンカンカンと脳内を叩き付ける音。
退職届を握りしめながら、私はその場に崩れ込んだ。辞めるべきだった、あの時・・・。退職しておけばよかった。この歳にまでなってなにをしているのだろう。できかけた傷を抉るように罪悪感が襲い掛かってくる。なにも言わずにいなくなるなんて。秋吉さんにとっての自分なんてその程度の存在だった。それでも懲りずに込み上がる恋情はもう自分ではどうしようもできない。真横を電車が過ぎ去っていった。凍てつく強風が肌を叩き付けるゆっくりと踏切が上がっていく。すると、線路の向こう側に人影があった。
「・・・秋吉さん」
薄暗い線路の向こう側に秋吉さんが立っていた。思わず口を押えた。
「清野さん」
「・・・どうして、ここに」
「海外赴任が決まったんだ。本当は黙っていくつもりだった。けれど、どうしても君に、君に・・・謝りたくて」
「謝るって・・・なんですか?私は秋吉さんのなんだったんですか」
「悪いのは僕だ。清野さんはなにも・・・なにも悪くない」
「謝らないで。私は・・・私は嬉しかった」
謝られる度に石を投げつけられている気分だった。私は秋吉さんにとって一夜の過ちで汚点に過ぎないのだろうか。だったらいっそ泣き続ける私を突き放して欲しい。秋吉さんを見上げると、あの時と同じ様に抱きしめられた。
本当にこれが最後だと痛感した。この人に触れられるのも、触れていいのも。だから最後にもう一度だけ、秋吉さんの背中に手を回した。
「最低なことをして申し訳ない。本当に・・・。でも、こんなこと信じてもらえないと思うけど、初めて会ったあの日から君のことが好きだった」
震えている秋吉さんの声に、私は腕の中で首を横に振った。冷たい身体が、お互いの熱で温かくなっていく。腕の中で見上げた空は真っ暗だった。
好きな人ができた。ただそれだけだった。もし私がもう少しだけ秋吉さんと早く出会えていたら、私を選んでくれただろうか。そんなたらればの話をしたところでなにも変わらない。自分の首を絞めるだけなのはわかっているけれど。最後に目を閉じてそのぬくもりに酔いしれた。
「私も・・・好きです。本当に秋吉さんのことが好き」
私の頬に流れた涙を、指先で器用に拭いながら。秋吉さんは眉間に皺を寄せた。その胸中を私は勝手に解釈していいだろうか。『好き』ともう一度告げようとした時、濡れた指先が唇に触れた。そしてあの日とは違う、触れるだけのキスをすると、秋吉さんは私から離れた。
「こんな最低な男だけど、君の幸せを誰よりも・・・誰よりも祈っている。だから、僕は君に二度と会わない」
離れていく秋吉さんに私は何も言えなかった。『行かないで』と走って追いかければどうするだろう。『離さないで』と悪女になり切ればどんなに楽だろう。
この許されない恋情は、世間では薄汚い感情のように扱われ、私は罵られる立場なのだろう。他人が人の恋愛に土足で入り込んできて踏み荒らし、なにも知らないまま多感して袋叩きにする。二度と這い上がれないように。
それでも私は秋吉さんが好きで、彼も一時でも私を好いてくれたのだとしたなら・・・私はもう、それ以上は望まない。好きになれたことを憎しみや懺悔の言葉に変えたくない。そして私も彼の幸せを誰よりも祈っているから。
気が付けばあの日と同じように、空からちらほらと雪が舞っていた。誰もいない線路の向こう側を見ていると、ゆっくりと遮断機が下り始めた・・・。
(終)
