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もういちど、あの寒い家に住みたい。


寒い家だった、なにをするにも廊下は寒く、トイレにいくのも勇気のいる。そんな家だった。

よくエックスで、子供の写真を載せて「いつかなくなる尊い時間」のような書き添えの投稿を見かける。それを見た瞬間わたしはふと思うのだ。

それは子供にとっても同じことなのだ、と。子供ながらも、いつか終わってしまう尊い時間の中に生きている。そして33歳になった私も、まだ家族との尊い時間を終わらせられずにそこにある。

ふざけたことを言っていると思っていた。

私の父のコウちゃんは、子供の頃に自分の母からもらったずっしりと重い茶色い毛布を、私の父になってからも、その祖母が死んでからも、春夏秋冬かぶりながら寝ていた。汚れようとも、電気ストーブで燃えてチリチリになり、穴が開こうとも、スヌーピーに出てくるライナスのように。いつまでも母親の安心に籠るような生き方に、子供ながら自立心がないのだと哀れみを感じていた。

そんなコウちゃんの大切な毛布を社会人になってからもずっと馬鹿にしていたけど、私が家を出たあと、いつのまにかライナスの毛布を卒業していた。今は清潔な穴の開いていない新しい毛布で寝ている。なのに私が、コウちゃんはあの毛布を捨ててよかったのか、どうして捨てようとおもったのか、と思うようになった。

私の母方の祖母である、アイちゃんの家にはキティちゃんのアルミのお弁当箱がある。そのお弁当箱が決まって登場するのは夜寝る前になってから。炊飯器の電源を切って、その日に残ったご飯をお弁当箱に詰めるのだ。

ごはんを敷き詰めて、鰹節をまぶし、醤油を垂らすとまたごはんを敷き詰める。そしてまた鰹節をまぶし醤油を垂らすと、最後に海苔を乗せたら、蓋を閉めてこういう。

「明日の朝が楽しみ。お母さんがよく作ってくれた、のり弁当。おいしくて、おいしくて、だいすきやった。このアルミのお弁当じゃないとこの味にならへんねんな」

すっかりと関西弁で話すアイちゃんは、北海道のお嬢様で、お屋敷に住んでいたらしい。戦時中に食べる事も貧しかった時代に、芋の蔓を食べる事もなく、白米のお弁当をたべたり、女学院に通っていたと言う。他人の土地をふまずとも家から駅まで通える壮大な土地のお屋敷で、お手伝いさんもいたそうだ。そしてそのお屋敷には、6人の姉、2人の兄がいて、末っ子がアイちゃんであった。兄は戦争にいき、戻ってこなかったが、アイちゃんは空襲の疎開を続けながら、赤紙をもらって出発する日に撮った、軍服を着る兄の白黒写真を大切に守り抜き、自分の子供や孫たちのカラー写真に並べて、ずっと飾っていた。

会うたびに昔話をしてくるアイちゃんに、時代は平成なのだから戦争の話はよしてくれと、私は幼い心で受け流していた。

他人の土地を踏まずに駅まで行けるほどの大邸宅に住み、戦時中でさえ白米を食べていたというアイちゃんが、なぜあんなに小さなお弁当箱を愛していたのか。それは、失われた家族と心の奥で再会するための、唯一の儀式だったのかもしれない。ずっとずっとアイちゃんの中では、今も空襲の警報が鳴り響き、あの戦争が終わっていないのだ。

あのキティちゃんのお弁当箱は、大人になってから、どうしてもお弁当が食べたくなって大阪で似たものを買ったとアイちゃんは言った。兄の白黒写真に見守られながら、アイちゃんは丸くて赤いアルミの蓋を開け、自分で詰めたのり弁をどういう心で食べていたのだろう。「美味しい、大好きやった」と言うあの言葉に、嘘はなかったはずだ。けれど、戦争で家族が簡単に引き裂かれたあの時代、本当にお弁当はただ美味しかっただけなのだろうか。

ライナスのようなことを言うコウちゃんと、戦争が終わってくれないアイちゃんのことも、子供の頃はそんな2人を、少し馬鹿にしていたのに。

今、私はまさにその地平線にいる。

寒い家だった、なにをするにも廊下は寒く、トイレにいくのも勇気のいる家で三人兄弟の末っ子として育った。

母のマミは私たち兄妹をいろいろなところに連れて行ってくれた。家族でお出かけや、運動会などでみんなでたべるときに絶対使うお弁当箱があった。

カラフルなタッパー式のお弁当箱で、赤色のタッパーには青色の蓋がついていて、青色のタッパーには黄色の蓋が、黄色のタッパーには赤色の蓋がついている。お弁当は決まってそれだったが、今思えば、蓋の組み合わせはマミの遊び心か、適当だったのか、組み合わせをかえていたのかもしれない。そんなお弁当に私は文句があった。

「お弁当が地味で恥ずかしい」といって泣いたことがある。令和の今となっては、カラーふりかけや、キャラのおにぎり型が100円均一でも売られている便利な時代だが、平成初期のお弁当はキャラ弁が流行り始めた頃でもあった。マミは料理が得意なタイプではなかったが、真面目で努力家だった。

いつのまにかお弁当は、タッパーではなくなって、ハムのお花や海苔で作られた顔が散りばめられた可愛らしいお弁当になった。ママ友の家にならいにいったのだと私のご機嫌を伺うようにいうマミに、少し申し訳なさを感じながらも、私はとてもうれしかった。

姉も兄も私も大きくなり、運動会もピクニックも、家族で毎年旅行に行くこともなくなった。

今となっては木造の築四十年は経っている隙間風が通り抜けるあの寒い家に、家族全員が揃う事なんて、年に一度くらいだ。

私たち兄妹はそれぞれ家庭を持った。それでもマミはいつまでも私達の母親であることに変わりはなかった。家のリフォームをして、布団を新調して。孫達が泊まりに来れるようにとお風呂やリビングを整えた。そうしてマミは祖母になろうとしていた。

一度里帰り出産で帰った時のことだ。
家の隙間風を「寒い」「赤ちゃんが冷える」と文句を言った。祖母になる準備をしたあの家の文句ばかり言う私に、マミは悲しそうな、それでいて怒ったような顔をして、仕事の昼休みに赤ちゃん用の毛布を買ってきた。
そんなマミに「私は別にもう家に帰ってもいい」とふざけた口をきいた。

その半年後、あの寒かった私の育った家は、ぐるりと全ての窓が二重窓になっていた。そしてタッパーも、いつのまにか戸棚から姿を消してしまった。タッパーを使わなくなって二十年経ち、マミは祖母になり、私は母となった。

家族には二種類あるのだと知った。
「自分で選べない家族」と、「自分で選んだ家族」。

親元に生まれて最初の二十年程度を「自分で選べない家族」と過ごしてきた。その後夫と出会って、娘を産んで「自分で選んだ家族」と暮らしている。

一日でもいいから、またあの寒い家に住みたい。兄弟と喧嘩をしながら、スーパーファミコンをして、姉からハイチュウをもらいたい。兄にされた意地悪を、父にいじらしく言いつけてやりたい。でももう、あの頃の家族はどこにもない。私が不満ばかりいっていた間にも、形を変え静かに通り過ぎてしまったのだと思う。

私が「自分で選んだ家族」でも、娘から見れば「自分で選べない家族」で、娘にとっての二十年がそんなものになればいい。私の口うるさく大きな声を、煩わしく感じても、夫の熱血で暑苦しい愛情表現に、嫌気がさしても。いつか振り返ったときに「ちょっと不自由だったあの場所に戻りたい」と思えるような今を過ごしていたい。

どちらの血のつながりがある家族とも、そんな別れが存在する。娘が巣立ったあとは、夫という他人と暮らしていく不思議と、子供を残して消えていく自分と次は向き合うことになるのだろうか。私は血を分つ家族とは別れ、最後は血のつながりのない「自分で選んだ家族」の夫と終点を目指すことになる。

私はいつか離れていく我が子の成長を寂しくも愛しながらも、いつか消えてしまうあの家に暮らす親を見ている。大人になって終わりに気が付いてしまった自分をとても寂しく思う。いつかなくなってしまう尊い時間の中にいる、あの写真の子供たちも、きっといつか私と同じ地平線に立つことなる。

大人になんてなりたくなかった。もういちど、あの寒い家に住みたい。でも今日も私は、娘とこの家で暮らしている。

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