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西山麻由子の執筆三昧⑦青の時代

⑦青の時代

作:西山麻由子
 

沈黙への畏敬の念を抱いた時、私の人生が始まった。
あの春、世界の狭間で何かが溶け出した。
裂けた時空、したたる血、大地がその下に孕む悪魔たちの饗宴。
私はそれを口の端をちょっと吊り上げて、かすめ取っていった。
 
学校の回廊を通り抜け、真昼野の草むらで風の愛撫を受ける時、禁断の実を持つエヴァが僕に笑いかけた。
赤い唇がパックリとひび割れて、深い闇を覗かせ、やがて黒い闇がひっそりと僕らを包んだ。


そして、声がしじまを切り取っていった。
獣のしなやかな叫びが僕らを優しく溶かし、世界の波間を揺らめきながら、僕らは少しずつ足跡を残していった。
 
 私は物静かな大人びた少女で、10代の通過儀礼とでも言うべき一つの恋愛を経て、人生を達観し、未来に自立すべき道を模索し、思索と探求に満ちた精神生活を送っていた。
 社会は未知なる驚きの世界として捉えていて、与えられた四年間の自由な大学生活を有意義に過ごそうと、授業を何とかこなしながら、深夜中、夜を徹して読書や執筆に励んでいた。
 学友は真面目で理想を追い求める若人たちであった。ドイツ語の格変化に四苦八苦しながら、とりあえず国際人として世界に通用する人間になろうと勉学し、友情を育んでいった。
 尊敬できる教官のもと、果たしてこれが社会に役に立つのかと一抹の疑問を抱きながら、アカデミックな学問の世界に魂を飛翔させた。
 
 青春とは惑いと不安と自信のなさなのではあるまいか?
 自分が美しくはないと知った私は、女として生きることを既に諦めていた。女ひとりでどうやって将来生活していけるのか、不安に苛まされながらも、乾いた土が蘇生していくように勉強の面白さに目覚めていった。
 
 誰も私と他人を比べることもなく、誰も私に立ち入ってこなかった。幸せだった心の平穏に満たされ、心の赴くままに世界の謎の解明に眦を決していた。
 現実はまだ容赦してくれていた。社会は、将来有望な学生さんとして、距離をおいてくれていた。
 アルバイトといえば家庭教師。これでは、社会との接点はまるでない。私はこの時限つきの環境に甘え、プラトンかソクラテスかもどきの禅問答のような毎日を送っていた。
 自分で呼吸できる喜び。自然を愛し、人生の傍観者として人々を眺め、平和が保たれていた。
 元来、思索好きで、哲学を究めたくてドイツ語を専攻した。念願かなって哲学書を紐解いたものの、何か物足りなかった。そこには思想があるものの、人間が足りなかった。人生の影を知り、美しさだけではなり得ないこの人間社会というものを認知していた私は、止むに止まれぬ人間の哀しさや惨めさや、不条理や葛藤を描く文学や美術に心惹かれていった。
 人生を生きることは当面やめて、内省的な感覚器、つまりは詩人となり表舞台からは遠ざかり、深遠な人生や人間の哀歌を詠う魂の放浪者となっていた。
 しかし、そこには喜びがあった。周りはそんな人間以前の私に理解を示し、放っておいてくれた。将来を渇望される未完の大器として、いくらかの距離を保っておいてくれていた。
 
 だが、私はあまりに未熟だった。周りの友達が、男友達とまともに付き合って、人間としても女としても成長していっている横で、私は打ちひしがれた子猫のように人生に怯え、頑なにちっぽけな自我の中で生きていた。
 
 不思議なことに私はモテた。デートに誘われたり、ラブレターをもらうことも多かった。日本文学を研究している先輩から和歌をしたためた恋文をもらった時にはさすがに驚いたが、私はつかず離れずに、友達として男性とは関わり、女を生きることを拒んだ。
 
 一人の人間として交友することは楽しかった。男の子たちの暗黙の了解のもと、手を出されないという安心感の上に、ゼミの合宿に参加したり、映画を観に行ったり、カフェで談笑したりと、それなりの青春を謳歌していた。
 
 私はしかし自分に苦しんでいた。いまさら神の道に入れないと悟ったからには、現実を生きていかねばならなかったからだ。
 いかに精神を高く生きていたとはいえ、私は俗物だった。アイドルや有名人に憧れ、自分もそうなれたらどんなにいいだろうと思い、自分の高望みに呆れて反省し、自分の殻に閉じこもった。
 当時の私は、技術を磨かなければ、プロにはなれないということがわかっていなかった。精神の渇望のままに書を読み、文章を編んでいたのでは、ただの世捨て人になってしまう。ただいくらかのコモン・センスは持っていたので、とりあえず語学を習得し、生業にしようと考えていた。
 
「登美子、10日後からの一週間、空けてくれる?」
「いいけど、何?」
「ピンチヒッターで、バイト引受けてくれないかな?」
「だけど、私、早苗みたいに通訳できるほど完成されていないから、それは難しいわ」
「原宿にある画廊のお手伝いよ」
「それなら大丈夫」
「オッケー。じゃ、これ連絡先」
 
 私はあながち苦手ではない社交性を発揮して、バイト先に電話した。
「私、アルバイトの件で、牧早苗さんにご紹介された東京外国語大学の乾登美子と申します」
「はい、伺っております。オーナーにおつなぎ致します」
「代わりました。オーナーの石田です。乾さんですね」
「はい。はじめまして」
「早速なんだけど、今日、うちに来れる?」
「何時にでしょうか?」
「16時くらいでどうかな?」
「大丈夫です」
「場所、わかる」
「はい。牧さんから伺っております」
「じゃあ、お待ちしておりますので、宜しく」
「宜しくお願い致します」
 
 原宿の表参道をちょっと入ったところに『ギャラリー・ヒュペリオン』はあった。
「こんにちは」
「あ、乾さんですね。少々お待ちください。オーナー」
「ようこそ、乾さん。およびたてしてすみません」
「はじめまして。乾登美子です」
「オーナーの石田です」
 名刺を渡された。表が日本語、裏が英語表記だった。私も簡単な名刺を渡した。
「ところで、私は何をすれば宜しいのでしょうか?」
「まあ、そう慌てず。まずはコーヒーでも」
 先ほどの女性がコーヒーを持ってきてくれた。
「ブラックでも大丈夫ですか?」
「ありがとうございます。大丈夫です」
 コーヒーは美味しかった。ロイヤルコペンハーゲンのコーヒーカップも美しく、ここは一等地にあるギャラリーなのだ、と認識させられた。
「乾さんはドイツ語専攻してるよね。青騎士って聞いたことある?」
「ブラウエ・ライターのことですか?」
「さすが」
「カンディンスキーが好きなもので」
「ドイツ表現主義を勉強している新進気鋭の画家がいて、青山茂って聞いたことある?」
「残念ながら、ございません」
「日本ではまだ有名じゃないからな。青山はドイツに留学して、あっちで花開いたんだ。今じゃあちらでは百万円単位で絵が売れている。その凱旋の個展になるんだ」
「凄いですね」
「個展は一週間。その間、アシスタントの中条と一緒に受付や、簡単な案内をしてほしい。できるかな?」
「はい、できると思います」
「あと、ドイツ人や大使館関係者、他にも外国人が見に来ると思うんだけど、英語とドイツ語話せる?」
「日常会話程度でしたら」
「そんな難しいことは要求しないので安心してください」
「はい」
「じゃ、これ。今度の個展のチラシと案内文」
「ありがとうございます」
「あ、それと。別にスーツじゃなくてもいいから。ここに相応しいお洒落な恰好をしてくれたら、それでいいから」
「かしこまりました」
「じゃ、そういうことでお願いします。最初の日は一時間前の午前九時に来て。何か質問があれば、いつでも電話して」
「かしこまりました。それではおいとま致します。コーヒー美味しかったです。ごちそうさま」
 
 私は大塚のワンルームマンションに帰った。夕食前にシャワーに入り、ルームウェアに着替え、ビールを飲みながら、もらったチラシと案内文を見てみた。青山茂の経歴を見ると、1990年東京生まれ、東京芸術大学卒業となっていた。登美子より10歳以上年上だ。受賞歴も数多い。なるほど、ブラウエ・ライターの影響を受けている。カンディンスキーやフランツ・マルクやアウグスト・マッケの作風に似ている作品が載せてあった。
 スマホで検索すると、たくさんの紹介が出てきた。クリックして読み始めたが、疲れたので、まずは夕食を食べようと、料理を作った。オムライスにきゅうりとワカメの酢の物ができた。無性にお腹がすいてきたのですぐに食べ終わった。すると携帯が鳴った。早苗からだった。
「どう?行ってみた?」
「ええ、とってもいい画廊ね。仕事もそんなに難しくなさそうだし」
「この間、家の兄貴があそこで個展してね、そのご縁よ」
「早苗がすればよかったのに」
「私はアシスタント業務は向かないのよ。それに通訳の仕事が入ってるしね」
「早苗はすごいわ。学部2年生でもう通訳として稼げてるんですから」
「だって、私、帰国子女だから」
「とにかくありがとう。頑張ってみるわ」
「こちらこそ引受けてくれてありがとう。兄貴の株も上がるわ。じゃあね」
「ありがとう。またね」
 
 それから10日後、当日がきた。六時に目を覚まし、朝食を食べ、歯磨きをし、念入りにお化粧をした。ZOZOTOWNで購入したRe:EDITの黒のワンピースを着た。髪を整えて、コーチのシグニチャーのトートバッグに必要なものを入れてマンションを出た。
 9時15分前にはギャラリーに着いた。
「おはようございます」
「おはよう。お洒落してきたね。合格だよ。あと、給料のこと言ってなかったね。一日一万円で、最終日に七万円渡すけど、いいかな?」
「はい」
「お休みなしだけど大丈夫?」
「大丈夫です」
「じゃあ、掃除をお願いしていいかな?ギャラリー前を箒ではいてちりとりで取ってゴミ袋に捨てておいて。それが終わったら、ガラス拭きとテーブル拭きをお願いするね」
「はい。わかりました」
 私は一生懸命掃除した。
 中条さんも手伝ってくれた。
 掃除が終わると、一人の男性がギャラリーに来た。
「お世話になります」
「おはよう、青山君。こちら会期中に手伝ってくれるアルバイトの乾さん」
「乾さん、宜しくお願いします」
「青山さん、こちらこそ宜しくお願い致します」
 青山茂はアーティスト然としていた。整った顔立ちと細身の身体。コム・デ・ギャルソンのTシャツにズボンを着ていた。
「あと20分ほどあるから、コーヒーを飲もう。ついでに中条さん、乾さんにコーヒーの淹れ方教えておいて」
 私はコーヒー好きなので、簡単に淹れ方を覚えた。
「大丈夫です。覚えました」
「じゃあ、青山君の個展の成功を祈り、乾杯」
「乾杯」
「乾杯」
「ありがとうございます」
 
「さあ、オープンだ」
 コロナ禍のせいもあって、午前中は二、三人ほど来ただけだった。
「ご記帳をお願い致します」
 
 昼がきたので、順番に休憩をとりご飯を食べた。お客さんが増えてきた。青山もお客さんへの説明におわれている。どうも契約に至りそうな雰囲気だ。オーナーの石田も私に、
「コーヒー持って行ってあげて」
と指示した。
「やっぱり、青山さんの初期の作品がいいですな。この白い馬はやはり、フランツ・マルクに影響を受けていらっしゃるのですか?」
「はい」
「じゃ、200万円で買い取りましょう」
「ありがとうございます」
 石田が出てきて交代した。
 
「青山さん、おめでとうございます」
「ありがとう」
 
 美大生とおぼしきお客さんが、熱心に一点、一点、絵を眺めている。おずおずと青山に話しかけた。
「ファンです。どうしても一点ほしいんですが、やはりお高いのでしょうか?」
「いくらくらいなら大丈夫なのかな?」
「50万円くらいです」
「じゃあ、小さいけど『青の貴婦人』なら50万円にするよ」
「ありがとうございます」
 
 お客さんが少なくなったのを見計らって、テレビ局が取材に来た。青山が一生懸命取材に応じている。石田も説明に応じている。
「これでまたお客さん増えるわよ」
「青山さんてすごい人なんですね」
「本人はマイペースだけどね」
 中条さんと小声で話した。
 
 ドイツ大使と大使館の人たちが来た。日本語が話せるので、緊張がほぐれほっとした。大使館に飾る大作がほしいというので、今回の出品の中で一番大きい『コンポジション』という抽象画を購入したい、ということだ。結局500万円で話がついた。
 大使たちと青山は日本語とドイツ語を交えて話をして、また、お会いしましょうと言って、帰って行った。
それからは、終了までは多忙で、最後のお客さんが帰るまで休憩はなかった。
「今日はお疲れさん。明日は30分前に来て掃除頼むね」
「かしこまりました。では、今日はこれで帰ります」
 
 結局、最終日まで頑張ってアルバイトした。貴重な経験だった。青山の絵はすべて売れた。「お世話になりました」
「乾さん、ちょっと待って。打ち上げしよう。大丈夫でしょう?」
「はい」
 
 四人は近くの居酒屋に行った。
「青山さんはどうして画家になろうとお思いになったのですか?」
「小さい時から絵を描くのが好きで、芸大に入ったんだ。自分の様式を確立してなかったので、とりあえず、ヨーロッパに旅行に行った。そしてミュンヘンのレーンバッハ・ハウスに行き、衝撃を受けたんだ。これだ、と思ってミュンヘン美術院に留学し、さまざまなワークショップに参加し、自分の様式を確立した。それからあちらで絵が売れるようになり、今に至っているんだ。乾さんは将来の夢ある?」
「私は語学が好きで外語大に入ったんですが、元来内省的で、文章を書くことが好きなので、作家になりたいと思っています」
「作家で食べていくのは難しいよ」
「はい、わかってます。ですから、第一義的な職業として、通訳にでもなろうかな、と考えています」
「それもいいけど、学芸員やキュレーターなんか向いていると思うけどな。今回のアルバイト、良かったよ」
「学芸員ですか。それは考えたことなかったです。いいですね。何か将来に希望の光が射しこんだみたいで嬉しいです」
「僕もいいと思うよ。何なら、この先もうちでアルバイトして経験を積めばいいよ」
 石田が言った。
 その後はよもやま話をし、おひらきになった。
「じゃあ、青山さん、お元気で」
「君も頑張ってね」
「また連絡するから、今後とも宜しく」
 石田が言った。
「こちらこそ宜しくお願い致します」
「私も宜しくね」
 中条さんが言った。
 
 家に帰ると、私は早速アマゾンで、『学芸員になるには』という本を注文した。
 アルバイトで将来の目標まで見つけることができた。早苗に感謝した。やはり私は通訳より、アカデミックな職業の方が向いている。
  未来の私よ、乾杯。
 一番搾りを飲み干した。
                          (完)

#創作大賞2026 #コミックエッセイ部門

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