「大森さんちの家出」第9話〈完〉
9、大森さんち
大森さんが家に帰ると、奥さんが飛んできた。
「哲くーん、来て来て」
大森さんは仕方ないふうをよそおって、できるだけのっそりとたたきに上がる。そして、奥さんは、やっぱり冷たくなった大森さんの耳たぶや頬をぺたぺたと触り、仕上げに力一杯抱きしめた。
「よかった、家出されたかと思った」
大森さんのセリフを盗って、奥さんは深く深く安堵の息を吐いた。奥さんからは家のあたためられた空気とソースの匂いがする。ソース?
「たこ焼きあるよ」奥さんが笑った。
「ごめん、食べに行っちゃってて。連絡するべきだった」
「え、いいよ。だって、そんなの私しょっちゅうじゃん。ねね、それより、たこ焼きに焼きそばって、お祭りみたいじゃない?」
奥さんはさっきから上機嫌だ。やっぱり奥さんも外に出かけるべきだったんだな。
「そういえば、メダカやっぱ死んだよ」
奥さんは、今、口に入れたたこ焼きを丸のまま口から出し、
「なんで今言う?」
「いや、今日のトピックス? 的な?」
「あやうくたこ焼き、噴くとこだったよ」
そう言いながら、レンジの加熱が強すぎたのか、フウフウと息を吹きかけ、たこ焼きの端っこの皮をリスのようにかじる。奥さんは横目でガラス瓶を見て、
「ま、ふ、私、知ってたんだけどね」
「え、そうなの?」
奥さんはうなずき、
「ほ、出かける前にね。見たよ。でも、はふ。お墓は作ったの」
「作らないよ」
「ふ。そうだろうね。ほ」
は行の合いの手で口内のたこ焼きを冷ましながら、奥さんは言った。
「でも、ふ。そこがいいところだよね、哲くんの」
「そうなの?」
「そうだよ。墓を作らない男・大森哲」
「あ、なんかかっこいい」
「でしょ。勇気があるよ、哲くんは」
「そう?」
「私はお墓作らないと不安になるもん」
青のりのついた歯を見せて、奥さんが満月のように笑う。携帯が震えて、LINEの着信を伝える。時村からだ。【ごちでした。就職したらおごり返しますよ】
「お母さん?」
「いや」
「時村くん?」
二回目であっさりと当たってしまう。
「いや、それより、このたこ焼き、どこの? うまい。やけにぐちゃぐちゃだけど」
奥さんは二個目を用心して、取り皿の上で半分に割りながら、
「野方の」
「野方? って、どこ?」
「ここから遠い駅。真反対の駅。」
「なんでそんなとこ」
「お墓があるんだよ」
「?」
「こないだの小説のモデルにした殺人事件の被害者の。あ、でも、この話、やめとく?」
大森さんはうなずく。そういう暗い話を聞くと取り込まれるようで、苦手なのだ。奥さんは、ウキャキャ、と小猿のように笑って、ビールを飲む。それからまた、笑う。
「今日ね、やっと次の小説が見えてきたの」
「え、よかったね」だから機嫌がよかったのか。
「主人公のモデルは哲くんだよ」
「え、やめときなよ。三行で終わるよ」
「どんな話か聞きたい?」
「いいや」大森さんは文学アレルギーなのだ。奥さんはまた笑う。
「時村君にも出てもらおうと思うんだ」
奥さんは一度も会ったことがない時村のことがお気に入りなのだ。大森さんが思い切って、「そうだ、今度三人で飲む?」と言ってみると、奥さんは目を見開いて喜んだ。奥さんはまた大森さんのスマホを取り上げ、勝手に時村にメールを打とうとする。指の動きでパスワードがばれていたのか、簡単にロック画面を突破し、「あ、そうだ」とメール画面でなく、連絡先を開く。【お】の欄を見て、【つ】の欄を見て、【て】の欄を見た後、【は】の欄にたどり着く。
「私のこと、半田照美のままで登録してあるんだね」
「ああ、そういえば」
有楽町で交換して以来、とくに変えていなかった。
奥さんはじっとその画面を見たあと、スマホを胸に抱きしめて、大森さんを見つめる。
「ねえ、結婚してくれる?」
また何かえらいことを考えてるな、と大森さんは思う。
「だって、もう、僕たちは結婚してしまったでしょ」
「うん」
奥さんは小さくゲップをし、「してしまったー」と、大森さんの言葉を繰り返して笑う。大森さんは、笑っている奥さんのこめかみに白髪を見つけ、あとで抜いてやろうとささやかに決意する。
(完)
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