「大森さんちの家出」第3話
3、タケオ
テルミはタケオの匂いが好きだった。Tシャツの背中のところの匂い。香ばしい砂糖醤油のおせんべいに、日向の布団ぼこりが柔らかくまぶされたような匂い。嗅ぐのがやめられなくって、離れたら死ぬと思った。タケオが好きなのではなくて、タケオの匂いが好きなのかもしれないと、大真面目に悩んだほどだ。
タケオは、歌っていた。
下北のライブハウスの青い照明のなかで、テルミよりも細いジーンズをはいて、カタカナで「シャンゼリゼ」と書かれたデザインの、首元がだるだるにのびたTシャツを着て、小学校の算数の時間にお漏らしをした、とがなったり、そうかと思えば、8号線を別れ話をしながら彼女と延々歩く、という歌をぽつりぽつりと雨粒を落とすように歌った。
歌い終わるたび、タケオはにやっと笑って、「これは〈マスマティクス〉という歌でした」「今のは〈8号線〉てやつでした」などと言い、MCらしいMCはない。途中、「もっとしゃべってー!」という黄色い声がしたときは、「あー、うるせえ、ですよ」と言って、それからまた、にやにや笑った。不思議なのは声だった。
猫のような少年のような、でもラスベガスで歌っていた晩年のシナトラみたいな、とにかく、妙にざわつく声だった。
「ねえ、さっきの人、いくつくらい?」テルミをここへつれてきた、千秋に聞く。
「〈ダダ団地〉の? あの人たちけっこう長いよ。もう三十二、三じゃない?」
「へえ、全然見えないね」
就職とかどうしたんだろう、とテルミは言いかけて、すごくつまらない質問だと気づく。
「ファンになっちゃいました? タケオさんの」
隣の若い女の子が話しかけてきた。
「彼ら、私の大学のOBなんです! ダダ団地、とくにタケオさんは大阪では超有名人なんですよ。〈いてもた〉っていう老舗のライブハウスがあるんですけど、学生時代からそこの定例ライブやってて。そんなん、ダダ団地だけなんですよ!」
「じゃあ、大阪人なんだ」
「奈良やで」
振り向くと、タケオがにやにや笑っていた。
「奈良の布団打ち直し工場の息子」
テルミは、あ、これはマズい、と思った。マズい、マズい。タケオの実家が「布団打ち直し工場」なんていう変わった家業でなかったら、まだ踏みとどまれたかもしれない。あとからテルミはこのことをたびたび思った。
テルミがアシスタントマネージャーという、えらいんだか下っ端なんだか、よくわからない役職になったある日、仕事中にタケオから電話があった。
「あー、もしもしテルちゃんか。今からデートせん?」
「え、今からって……」
「ちょっと降りてきてみー、びっくりさせたる」
タケオは笑いをこらえた声で言う。テルミは周りを見渡す。みんな眉間にしわを寄せて、パソコンに向かっているか、電話をしている。その真ん中に歩いていって「テルミさんに彼氏さんからお電話です。仕事中なのにどうしても会いたいそうです」と、言いたいのをこらえ、エレベーターも待てずに、非常口から階段で降りていく。エントランスに青いピカピカの車が停まっていて、そこにもたれかかったタケオがにやにや笑っている。
「どうしたの!?」
「テルちゃん、CMってめっちゃもうかるなぁ~」
「え、なに、これ、買ったの!?」
その三か月ほど前に、ダダ団地の曲「ナナナナ」が6PチーズのCM曲に採用された。
「ドライブ行こ!」
「今から?」
「最初に乗せるのはテルちゃんて決まってあんねも」
「二時……、までなら」
「わかった、わかった」
タケオは頼もしくうなずき、ドアを開け、テルミをエスコートする。シートに座ったテルミは、窓から自分の会社を見上げる。灰色の、テナントがすぐ入れ替わる雑居ビルだ。
「そんなにもらえるんだね、ギャラ」
「昨日やっと振り込まれたからな、現金一括で買うたった。車屋さん、おンどろいとったで~。ま、またすっからかんなったけどなあ!」
タケオは愉快そうに言って車を発進させる。
「え、車検とか、駐車場とか、どうするの?」
テルミは思わず腰を浮かせる。車って返品できるんだろうか。
「なんとかなるなる~」
タケオはゲラゲラわらう。
「どうする。会社の周りぐるぐるまわろか。それでみんなに見せびらかす?」
「やめてやめて、それより、なんかレストラン連れてって」
「いいよ。お台場か、箱根か、鎌倉でもええよ。どこなと言い」
テルミは咄嗟に会社からの距離を考えて、「代官山」と言う。
「ハッ、そんな近場っ! ま、ええわ」
タケオは上機嫌でハンドルを切る。結局、テルミが携帯で調べたオーガニックのイタリアンレストランでフルコースを食べることになった。
「アスパラってさ、大仏の頭みたい」
タケオが、アスパラガスをフォークで突き刺して言う。
「あのイボイボ部分? そうだね。あれって奈良のは右巻きで、鎌倉のは左巻きらしいよ」
「へえ、なんで?」
「さあ……。でもなんか、奈良の人が右脳派で鎌倉の人が左脳派だったってことを表してたら、面白いなって考えて、ちょっと調べたことあるの」
「小説に?」
「うん」
「えー! それ、イイ。ダ・ヴィンチコード的な? それいいやん、それ書けばいいやん、テルちゃん」
「うん。まあ、そこから一切、話膨らまなかったんだけどね」
「うー、おもろいなあ。テルちゃん、書けよー。どんどんそういうの書きぃよ」
タケオはテーブルの下で足をじたばたさせて言う。
「うん……」
テルミは思わず涙ぐみそうになり、アスパラガスを齧るふりをして、うつむいた。この人が好きだ、ともうすぐで叫びそうになる。
お会計は二人で一万三千円。現金では足りずに、カードで払う。ちらりとタケオを見ると、タケオは椅子にゆったり腰かけて煙草を吸いながら、テルミが伝票にサインするのをニコニコと眺めていた。それからまた、青い車へ飛び跳ねるようにエスコートし、テルミが助手席に座ると、「ほんまに戻らなあかん?」と上目遣いで聞く。「うん、戻らなアカンネン」とテルミもニセ関西弁で言う。十四時からの会議はアシスタントマネージャーこと、テルミがプレゼンターだ。
「つまらんのぉ。会社員なんかやめて小説家になればいいのに」
「そんな簡単じゃないよ。それに、今の仕事だって、一応時々は文章書く仕事だし……」
「つまらんのー!」
タケオはハンドルに突っ伏す。
「タケオは怖くないの?」
前から一度聞いてみたかった。
「怖いって?」
「わかんないけど、今楽しいこととか、だけど貯金がゼロのこととか、あと年金、」
「一緒に住もっか」
「え、」
「一緒に住んだら無敵やろー」
タケオはそう言って、囃し立てるみたいにプップ、プーとクラクションを鳴らした。
〈つづく〉
