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おばあちゃんと踊る

35歳の冬、会話がとぎれない話し方の本を買った。本屋で買うのが恥ずかしかったので、電子書籍でこっそりと。営業の仕事がうまくできない。もっと正確には、そもそも私は人と会話ができてないんだと改めて気がついたからだ。

商談先で「あの資料を印刷して持ってきてくれん?」と頼まれた部下の方が応接室を出ていく。扉が閉まる。そして、部屋には商談相手の社長と私だけが残る。こういう不意にできてしまった微妙な待ちの時間に、私は何を話せばいいのかわからない。

天気の話は浅い気がするし、家族とか趣味の話を聞くのは踏み込みすぎな気がする。「どうせ興味もないのに間を埋めるためにプライベートなことを聞いてくるなよ」とか思われないだろうか。そういうことをぐるぐると考えて結局、「あはは」と意味もなく笑って、お茶をひと口飲む。社長もお茶を飲む。沈黙がお茶の湯気みたいに部屋に漂う。もはや商談ではなく茶会だった。けっこうなお手前で。

夕方、人事部との面談があった。
「中途入社して半年経つけど、仕事には慣れた?」
そう聞かれて、「仕事には慣れました。特に困っていることもありません」と答えた。嘘ではない。仕事は少しずつ慣れてきた。社内のルールも覚えてきたし、誰に相談すれば話が早いのか、誰に逆らわないほうがいいのかもわかってきた。

ただ、個人的に遊んだり飲んだりするほどの仲の人はいない。そういえば、大人になってから友達ができた記憶がほとんどない。会社でも営業先でも知り合いは増える。「最近あのコピー機調子悪いんですよね」とか「なんかエアコン効きすぎじゃないですか?」とかあたりさわりのないことは話す。でもそこから先に進まない。みんなはどうやって友達になっているんだろう。私はその方法を知らないのかもしれなかった。

人事部との面談を終えて、その日の仕事も片付けて退勤。どうしようもなくひとりになりたかった。駅へ向かいながら妻に「今日、飲んで帰ってもいい?」とメッセージを送ると、すぐに「こどもたちの寝かしつけはしとくから好きにしておいで」と返ってきた。私は普段まっすぐ家に帰るので、それだけで少し疲れていることを察してくれたのだろう。

あたたかいおでんが食べたい気分だった。スマホで調べると、最寄駅の近くに古い立ち飲み屋があった。写真には年季の入ったカウンターと短冊のメニュー。おでんをつまみながら一、二杯飲んで帰ろうかと思ってその店へ向かった。

お店に入ってみると、カウンターの向こうから女将さんの「いらっしゃい」という優しい声が聞こえてくる。店内はカウンターとその背中合わせにもカウンターがあるだけのシンプルな感じ。なかなか古いけどきちんと掃除されていて、そのお店が長く愛されている歴史が見える。お店に入った瞬間にもう居心地が良くて「あ、当たりのお店だ」と思った。

とりあえずビールとおでんを適当に頼む。「はーいおでんね」と私の前に皿が置かれた時、優しい出汁の湿気がもわーんと顔にかかる。このはじめのときめきがなんともいえない。おでんはもう湿気からおいしいんだな。これを吸い込むためだけの器官が人間にあってもいい。

煮崩れ寸前のごぼう巻きをはふはふ齧っていると、隣から「あんた立ち飲み屋ではおしゃべりば楽しまんばいかんよ」と知らないおじいちゃんが話しかけてきた。げっ、と思う。おじいちゃんはお店の常連さんという雰囲気で、先ほどから他のお客さんと話していたんだけど、私が見慣れないので話しかけるタイミングを伺っていたのかもしれない。私は知らない人との会話につい身構えてしまう。

おじいちゃんは「あんた出身はどこね?」「学校はどこばでたと?」「今はどこに住んどっとね?」「仕事は?」と矢継ぎ早に私の個人情報を聞いてくる。まあ悪い人ではなさそうなので正直に答えると、「そうね、そうね」と何がそんなにうれしいのか、いちいち大きく頷いてくれた。楽しそうに聞いてくれると、こちらも悪い気はしない。でも履歴書一枚分くらいの情報を話したので、もしかすると明日にはどこかの闇バイトに申し込まれているかもしれない。

おじいちゃんはたまに後ろの方を振り返り「お兄さん長崎の出身だって!」とか大きな声で話している。なにかと思ったら、おじいちゃんの体に隠れて小さいおばあちゃんが奥にいた。この人もこのお店の常連さんという雰囲気だった。

おばあちゃんは私に全国のいろんな温泉に行った話を聞かせてくれ、「私はそこで芝居を見るのが好きと。私も踊るけんね」と言ったかと思うと、「こ〜んな感じよ」とその場でゆらゆらと踊ってみせた。それは民謡にもフラダンスにも見えるなんとも言えない不思議な動きだった。踊っているというより、揺れている。音のない場所で、ひとりだけ音楽が聞こえているみたいに。両手をひらひらさせながら身体を左右に揺らし、ときどきこちらへ「ほらほら」という顔を向ける。

「ほら、お兄さんも一緒に」

ええ、一緒にもなにもこの踊りを?と思ったけど、でもおばあちゃんがあまりにも楽しそうだったので私も見よう見まねで適当に腰を振ってみた。右へ左へ、ぎこちなく。自分でも驚くほどぎこちない。それでもおばあちゃんは楽しそうに笑う。私も笑う。ふと、いったい私は何をしているんだろうと思ったけど、まあどうでもいいかという気がした。狭い店内の真ん中で謎のダンスを踊るふたり。ここはもはや立ち飲み屋ではなくステージだった。

おばあちゃんは少し顔が赤くなっていた。ケタケタと笑い、それから「お兄さんいいねえ。私のパートナーになってくれんね。ほらこれあげるけん」となぜか朝の定食に出てきそうな海苔の袋を私にくれた。まさかおばあちゃんからナンパされる日がくるとは思わなかった。ノリではなく、海苔で。

その後も私の机には頼んでもない焼鳥などが来て、これは?と聞くとおばあちゃんがご馳走してくれたものだった。会計をするとびっくりするくらい安かったので、それも少し出してくれたのかもしれない。

帰り道、あれは何という踊りだったんだろうともう一度考えたけど、やっぱりわからなかった。ひとりになりたかったのに、変なことに巻き込まれてしまった。でも、楽しい夜だった。あのおばあちゃんは私の出身も仕事のことももう忘れているだろうなと思う。でも紛れもなく、あの瞬間に私たちは友達だった。私もあのくらい素直になってもいいのかもしれない。今度会話に困ったら取引先の社長の前で踊ってみようか。踊るな。

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