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お腹痛い

常に腹パンされてる感覚。しぬ。

今まさに、変な汗が滲むほどのひどい生理痛(月経困難症)でのたうち回りながら、ふと思い出して見返した画像がある。海外のファンダムで見つけた、マイ・ケミカル・ロマンスのフランク・アイエロのコラージュ画像だ。

Frankieで学ぶ周期
てかまともな真面目に弾いてる体勢一個もなくて大爆笑

最初はただの推しのおもしろ画像として笑っていたけれど、絶望的な腹痛の最中に改めて眺めてみると、これが恐ろしいほど正確に女性のホルモン周期を体現していることに気がついた。

卵胞期の座り込んでギターを構え、比較的静かに、しかし着実にエネルギーを溜め込んでいる静かな立ち上がりから始まり、排卵期にはアドレナリン全開でステージを暴れ回る。そして黄体期のPMSよろしく怒りに任せてギターを振り回してブチギレている(あるいは荒ぶっている)この姿は、この時期の制御不能な怒りや破壊衝動をこれ以上ないほど的確に代弁している。最後は月経期で文字通り床に崩れ落ち、暗がりでうずくまってぐったりしている姿は、まさにベッドから起き上がれず痛みに耐えている時の絶望感そのものだね。。

私たちの身体を毎月支配する理不尽なホルモンの乱高下と、それに伴う生々しい現実が、推しのエモーショナルなライブパフォーマンスと完全にシンクロしていたのだ。

この画像の最後のコマのように、今の私はベッドに沈み込んで完全な機能停止に陥っている。

元々、痛みのあまり動けなくなるほどの重い体質で、当然ながら低用量ピルも試した。

しかし、ここで立ちはだかったのが自身のADHDという特性だった。「毎日同じ時間に飲む」「シートの途中で1週間の休薬期間を挟む」「生理開始から4日以内に再開する」……そんな細かなスケジュール管理ができるわけねーだろうが‼️‼️

案の定、休薬明けのタイミングが分からなくなり、1ヶ月ピルをお休みした結果が、今のこの死ぬほどの腹痛だ。

激痛の中で、怒りすら湧いてくる。

海外では当たり前のように実用化されている「貼るだけのパッチ」や「皮下に埋め込むタイプ」といった、ADHDでも絶対に忘れようのない手段が、なぜ今の日本にはないのだろうか。毎日欠かさず薬を飲むことすら困難な人間にとって、日本の選択肢の少なさはあまりにも残酷だ。本当に意味不明すぎて、理不尽な現状に対して今すぐ暴れ回りたい気分だ。悲しいかな、痛みがひどすぎて、文字を打つ指先以外は1ミリも動かせないのだけれど。
【追記】
生理の話をすると、なぜか生理そのものを性的な文脈で消費しようとする人間が湧いてくるが、本当に勘違いも甚だしい。

もしエロティシズムを見出したいなら、画像のOvulationのコマをよく見てほしい。ジェラルドに押し付けているフランクの姿は確かにちょっとエロいが、生物学的に女性の本能的な欲が最も高まるのは生理中ではなく、まさにこのタイミングだ。
生理中というのは、ただひたすら腹痛に耐え、床を這いつくばるだけの地獄でしかない。この推しの画像は、そんな生物学的なファクトまでも完璧に描き出している。

理不尽な身体の痛み、遅れた日本の医療システム、そして的外れで気持ち悪い偏見。
本当に意味不明すぎて今すぐ暴れ回りたいけれど、痛すぎて指先しか動かない。
いや、そもそもこんな欠陥だらけの機能、最初からいらない。

毎月毎月、こんな理不尽な地獄を強制的に味わわされる拷問でしかないなんの罰ゲーム??、男になりたい。
痛すぎて本当に死にたい。

マジで最悪だ。

死にたい。

――そういえば思い返せば、私は小さい頃からずっと「男」になりたかった。定期的に強めの性別違和に襲われて、どうにもならなくて寝込んだことだって一度や二度じゃない。

そんな私が、今まさに生理痛でベッドに沈み込みながら行き着いた究極の理想が、フランク・アイエロなのだ(笑)。

「ジェンダー・エンヴィー(性別への羨望)」なんて呼ばれたりもするけれど、要するに自分もあんな風に素敵な姿で、この世界に存在してみたかったという、純粋で強い憧れのことだ。

もちろん彼に惹かれる気持ちもある。けれどそれ以上に、彼のような中性的な男性という存在そのものが、私にとってたまらなく羨ましいし、理想的なのだろう。

ゴリゴリのマッチョイズムではなく、危うい少年性を残したまま、子宮という臓器に支配されることもなく、己の感情と衝動のままにギターをかき鳴らしステージを転げ回る、あの圧倒的な自由。
この理不尽な女性の肉体を捨ててあの姿になれるなら、悪魔に魂だって売る。
生理痛の絶望のどん底で見つめる推しの姿は、単なる憧れを超えて、私がずっと昔から手に入れたかった本当になりたかった自分そのものだったのだ。

「男になりたい」――そう願ったところで、実際に性別を移行するハードルはあまりにも高く、険しい。現実問題として、この身体を根本から作り替えることの困難さを前に、私は性別違和を抱えながらも、仕方なく「女性」という枠組みの中で息を潜めて生きている。騙し騙し、この理不尽な肉体と付き合っていくしかないのが私の現在地だ。

そんな中、ふとTwitter(X)で流れてきたあるカップルの投稿が炎上しているのを目にした。
ゲイ自認のFtM(女性から男性へのトランスジェンダー)の方と、男性のカップルだ。そのFtMの方は、戸籍の変更や下半身の手術はしていないが、乳房切除(胸オペ)を行っており、ホルモン治療の影響か、パッと見は完全に男性そのものだった。そして彼らは、彼自身の身体で「出産」をするという選択をした。

そのニュースに対して、外野の連中が嬉々として石を投げていた。
「ただの男女やんけ」「わざわざややこしくしてるだけの変な活動家」「気持ち悪い」――。
本当に、ありえない。吐き気がした。

「ただの男女」なわけがないだろう。わざわざ健康な乳房を切除するという、不可逆で痛みを伴う決断を、単なるファッションや活動家気取りでできるはずがない。
そもそも、連中は「性別を移行する」ということの恐ろしいまでの医療的現実を何も分かっていない。

世間は可視化されやすいMtF(男性から女性へ)のイメージで性別適合手術を安易に語るが、元の身体の仕様によって要求されるリスクは全く異なる。FtM(女性から男性へ)の完全な身体的移行となれば、子宮や卵巣といった「内臓の摘出」が必須になる。それは、ホルモンバランスを根底から作り変え、文字通り命を削るほどの健康被害と桁違いの身体的負担を強いる行為だ。

「内臓をえぐり出すような命がけの手術をしていないなら、お前は結局女だ」。
彼らに向けられた嘲笑の裏にあるのは、こういう暴力的なロジックだ。これは、当事者のアイデンティティを踏みにじるジェンダーへの無理解であると同時に、女性として生まれた身体が移行のために背負わされる過酷な医療的リスクを完全に軽視した、二重の差別以外の何物でもない。

誤解のないように言っておくが、私はあらゆる境界線を無条件に取り払えと主張しているわけではない。他者の物理的な安全や生存領域を脅かしかねない問題に対しては、社会として厳格な「区別」とルールの線引きが必要だと考えている。

しかし、誰の安全も脅かさず、誰にも危害を加えず、ただ自分たちの肉体と精神の狭間で必死に「グラデーションの最適解」を探し、自分たちらしい家族の形を模索しているだけの彼らに石を投げる行為は、区別でもなんでもない。ただのグロテスクな「差別」だ。

性別移行のプロセスや妥協点は、決してゼロか100かではない。
私のように違和感を抱えたまま、何もしない(できない)で女性として仕方なく生きる人間もいれば、彼らのように「胸の手術だけをして、出産という機能は残し、自分たちの望む家族の形を作る」というハイブリッドな選択をする人もいる。全員が全員、戸籍から内臓まで100%完璧に作り替えられるわけでも、リスクを負ってまでそうしたいわけでもないのだ。

そのグラデーションの中で生きる人間を、安全圏から一方的に嘲笑う連中の方が、よっぽど異常で気持ち悪い。

では、他でもない私自身はどうなのか。
正直に言えば、私は昔から激しい性別違和を抱えているが、恋愛や性的に惹かれる対象は95%が男性だ。
その上で、女性の身体から男性へと移行するための「内臓を摘出する」という莫大な医療的リスク、健康被害、そして社会的な障壁を天秤にかけた結果、冷徹なメリット・デメリットの計算として「今は女性として仕方なく生きている」に過ぎない。現実のコストが高すぎるから、違和感を丸飲みにしてやり過ごしているだけだ。

でも、もし目の前に「何のリスクも痛みもなく、丸ごと男の身体になれるボタン」があったらどうするか。

答えは決まっている。1秒も迷わず、今すぐにでもぶっ叩いて押す。

ボタンを押して男になった後、そのまま男性が好きなままゲイの男性として生きることになっても、全く構わない。あるいは、男性ホルモンの影響などで女性を好きになる割合が増えたとしても、「まあそういうものか」とありのままの自分を受け入れる覚悟はできている。

こればかりは実際にボタンを押してみないとどうなるか謎だけれど、それでも構わない。「私は私のまま、丸ごと男になれる」というのなら、どんな結末だろうと喜んで受け入れる。
だが、現実にはそんなマジックボタンは存在しない。

だから私は毎月毎月、望んでもいない子宮の痛みにのたうち回り、仕方なく女性として生きることを強制されながら、この残酷な社会の現実を見せつけられている。本当に、この身体もこの社会も、理不尽すぎてマジで最悪だ。

そういえば、今日たまたまナショナルジオグラフィックの番組で、屈強なお兄さんが泳いでいるシーンを見た。
見事な筋肉と胸板だったが、不思議なことに「かっこいい」「惹かれる」というような感情は、文字通り皆無だった。

私がその画面の彼を見て強烈に感じたのは、いいなあという純粋な羨望だけだ。
あの、邪魔な乳房のふくらみが一切ない、真っ平らで筋肉だけで構成された身軽な上半身。純粋にあれになりたいと思った。どうして私の身体はあっちではないのかと、ただただ羨ましかった。

今この記事を書きながら、ふと、幼い頃のある悲しい記憶が蘇ってきた。
父と一緒に、シーサーの絵付け体験をした時のことだ。
私は、大きく口をガッと開けた、ダイナミックで力強いシーサーを作りたかった。頭の中にはその姿がはっきりとあって、当然「口を開けている前提」で思い切りよく筆を動かしていた。
けれど、何度色を乗せても、どうしても思うように描けない。なぜこんなに思い通りにならないのだろうと戸惑い、ふと自分の手元にある焼き物をまじまじと見つめ直して、気がついた。
私が大人から当然のように渡されていたのは、口をピタリと閉じたメスのシーサーだったのだ。

大きく口を開けて吠えるオスを描きたかったのに、私の手には最初からメスの型が握らされていた。その型に合わせて生きようとしていないのだから、筆が乗らず、歪でうまくいかなくて当然だ。
今にして思えば、あれは私が日々この身体に対して感じている違和感と絶望を、あまりにも残酷に象徴する体験だった。

そもそも、私の希望など一切聞くこともなく、有無を言わさず押し付けられたこのメスのシーサーは、私が今囚われているこの身体と全く同じではないか。

事前の同意など一つも取らず、こんな欠陥だらけで不自由な肉体を勝手に割り当てておいて。
一体全体、誰が私にこんな理不尽な真似をしているのだろう。神か、遺伝子の気まぐれか、それとも運命というやつか。誰の仕業であれ、望んでもいないメスの型を一方的に押し付けておきながら、それに合わせて大人しく生きろと強要してくるこの世界は、息が詰まるほど窮屈で最悪だ。

こういった「割り当てられた肉体への根源的な拒絶感」を抱えて生きている人間は、世の中に少ないのだろうか。少なくとも、マジョリティには絶対に理解されない感覚であることは間違いない。

生まれつき自分の精神と肉体が奇跡的に一致しており、それを「当たり前」だと信じてあぐらをかいている特権階級の人間には、この絶望の底の深さなど一生理解できないのだろう。理解するだけの想像力すら持ち合わせていないのだ。

誰にも理解されないし、この理不尽な肉体から逃げ出す魔法のボタンもない。

――だからこそ、痛みのどん底でベッドに沈み込みながら行き着いた究極の理想が、フランク・アイエロなのだ(笑)。

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