ここで生まれました
この第二章は、唯一僕自身の記憶とは一切無縁、生まれてからほんの数か月という人生の最初期にスポットを当てたものである。
生誕地が鹿児島市加治屋町であること、材木屋の二階を借りて住んでいたこと。僕が両親から聞いて知っていたのは、わずかにその二つ。
この二つを手掛かりに、生まれた場所を、ピンポイントで突き止めたくなり、加治屋町を訪ね簡単な取材を行ったことがある。
そのときの事を、書いてみたいのだ。
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鹿児島市加治屋町。

写真中央やや右寄りに「西郷・大久保誕生地」を示す案内板が建っている。鹿児島中央高校正門前から南へ百メートル余り。そのまま直進すると高麗橋が見えてくる。
案内板の矢印から、道路を隔てて右に入った一角に、西郷隆盛生誕地、大久保利通生い立ちの地(生誕地は高麗町)、維新ふるさと館などがある。
そして、この案内板の立っているすぐ左に、「めどう」の生誕地がある。
西郷さんのあだ名は「うどめさあ」。「うどめ」とは「大きな目」の意の鹿児島弁。「さあ」は「様」が変化したもの。
「うどめ」という単語を逆さ読みにすると、僕の通称「めどう」になる。だが、これは意図したものではなく、単なる偶然に過ぎない。
案内看板の矢印に従って、右に行くと“うどめ”さあの生誕地、逆に左に行くと“めどう”の生誕地。偶然とは言え面白い。

駐車場に車が一台停めてある喫茶店。かつてここに材木屋さんがあって、その二階がアパートになっていた。
そこが自分の生誕地だと知ったのは、四十七歳で故郷にUターンして以降のこと。それまで「鹿児島市加治屋町で生まれた」ということだけは知っていたが、それ以上に詳しいことは知らなかった。生後数か月で鷹師町に引っ越したので、そこでの記憶は何も残っていない。
両親の話によると、材木屋の二階の一部屋で、中央高校の正門からやや南に下った場所にあったということだ。
― その場所を正確に知りたい ―
そんな思いを胸に、この町を訪ねた。
取り敢えず周辺の店をいくつか当たってみようと思い、案内板の左側に写っているバイク屋さんを訪ね、問いかけてみた。
「あの、つかぬことをお伺いしますが…」
「はい」
「昔、ここは材木屋さんだったのではありませんか?」
「いえ、隣です。そちらが『浜平材木店』という材木屋さんでした」
「そうでしたか。私はそこで生まれたんです。二階を間借りしてたらしいてす」
「ほう!」
両親の言ったこととバイク屋さんの証言が一致した。期せずして「浜平材木店」という具体名までを知ることになり、若き日の両親に巡り合ったかのような感慨を覚えた。
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話はついでになるが、両親と僕の生誕年に、まるで関連があるかのような一致が見られることについて述べておこう。
父の生誕年は、1924年である。
母の生誕年は、1932年である。
ふたつの数字の下二桁「24」と「32」を合計すると「56」になる。
私の生誕年は、1956年である。
その年の誕生日に、父は32歳になった。
母は24歳になった。
これらはすべて単なる偶然であって、それ以上でもそれ以下でもないことは、言うまでもない。
ついでに言っておけば…。
僕の誕生日は、昭和31年3月13日。「3」と「1」が交互に並んでいて覚えやすい。
