感銘を受けたので、アンサー記事を書くざます、の話
こちらの記事をご覧ください。
生きた哲学というんでしょうかね、よくある「観念論」とか「理想論」ではなく、たくさんの中身のこもった、心のある言葉が綴られています。
私、感激です。
こんなふうに言語化していただくと、なるほど自分にも当てはまるなぁ、と、これまでの自身についてを再考するきっかけとなりました。
結論を先に述べると、「不幸の種は私も持っていました。けれど、その種から全く違う花を咲かせることができました!」という話を、紹介した記事の私なりのアンサーとして書かせていただきます。(コメント欄では文字数が足らんのです)
wakuさんは文中で、不幸の三原則を仰っていました。
責任転嫁、自己憐憫、依存心
右腕を怪我した頃の私は、完全にこの3つに感情を支配されて生きていました。
『なぜこんな目に遭わなくちゃいけないんだ。あのとき、あれに手を出さなければ怪我をせずに済んだのに!』
と、怪我をした状況を恨みました。
『どうして、真面目に生きてきた私がこんな目に!そして、誰もこの苦しみを分かってくれない!』
と、自身の不幸をアピールしても周りに通じないことで苦しみました。
『親なら、こんなときもっとしてくれることがあるでしょう!なぜしてくれないんだ』
と、支えてくれている家族に対し、「してもらう」ことばかりを求め、それが満たされずに悲しみました。
不幸の種、おそるべし。
けれど、本当にこれは幸運というか、当時の私を今でもえらいと撫でてあげたくなることがあります。
それは、『ここがどん底!絶対に、苦しみ以上の何かが近づいてるはずだ!それを掴んでやるざます!』と、『不幸に負けてなるものか』という闘争心を持ったことです。
なので、今までの自分は絶対にしなかったような選択肢を積極的に選んで行動するようになりました。
腕が痛む!→よし、アロママッサージというものに行ってみよう!→の流れから、マッサージのお姉さんと仲良くなって「前世占い」の話をきく。
前世占い?→よし、今まで受けたことなんてなかったけど、受けてみっか!→の流れから、今の前世探究に繋がり。
そうして、責任転嫁の矛先が自分の前世に向いて。
責任を追求するためだから、すごく情熱を持てて。
アレシュの生い立ちを知るほどに、彼への尊敬と、彼の受けた苦しみの辛さを知り。
不幸の原因を前世のせいにする、などとはもう思わなくなり。
気がつけば、あれから7年が経って、Q太郎はすんごく変わっておりました。
怪我のせいで不幸、とはもう思わず、『怪我をしたからこそ出会えた様々な宝物に感謝!』の人生となっているのを感じるのです。
あと最後の壁は、「親」。
Q太郎が怪我の不幸を克服して、めきめきと前向きになって行っても、親からの評価が得られなくて悲しくなる、というのは今も変わらず。
やっぱりね、いまだに天気が変わると右腕が焼けるように痛むし、重いものを運んだあととかも、のたうちまわるような痛みに襲われるし、そんな姿を見せられるのは、親にとってどんだけ心を痛めていることか。
だから、箸やペンを持てるようになったところで、痛みにもがく息子の苦しみが無くならない限りは、親は安堵しないんだろうな、とは、頭では分かっているのだけど。
チェコ行きも、親はあんまり喜んでくれていない様子。
飛行機が落ちやしないかとか、前世の幽霊に魂を持って行かれやしないかとか、そんな心配のほうが優っているよう。
それも親の愛なのかしら。
とまあ、こんなふうに、自分や周りについて再考するのに、とっても良いきっかけとなったwakuさんの記事のご紹介、でした。
