不本意な状態の自分を愛せるかという話
私がこのような状態になったことを、私自身はどう感じているのだろうか。
ふと、改めて思うことがあります。
右腕の自由を失って9年目となるのですけれども、今日も今日とて腕の痛みには苦しんでおります。
しかしこうも毎日痛みと痺れと握力低下に苛まれると、私にとってはそれが日常となるわけですね。
リハビリや服薬でここまで回復したけれど、一日の稼働時間が限られたり、それを越すと激しい痛みに襲われたりするという症状はほぼ改善の見込みがなく、いつしか「治す」とか「元の生活に戻る」という概念を持たないのが私の中で当たり前となっておりました。
それは諦めとは違うのです。
例えば私の怪我がもっとひどく、肘から先を切断するようなものだったとした場合、右腕が再び生えてくるのを祈りますか、って話。
人体には回復できる限度というものがありますから、それを超えたものを望むというのは、時に無謀というか、高望みというか、時間をかけるべき価値のない祈りだと私は思うのです。
それは祈りではなく、嘆きでしかありません。
あきらめ云々の以前に、物理的に不可能なものを望み続けるのはむしろ愚かなことです。
空を飛びたいと願っても背中に翼は生えないでしょう?
無理を悟るのと、希望をあきらめるのとは全く異なるものだと思います。
それよりも、不本意な状態の自分ではあるけれども、そんな姿でもちゃんと生きれるように工夫したり、痛みのパターンを分析して対策を練ったりするなど、痛みを抱えて生きる道を私は選びました。
それこそが私の希望です。
痛みはあるけど、景色の美しさを感じることができる。
痛みはあるけれど、猫に愛情を注ぐことができる。
痛みはあるけれど、笑っていられる。
もちろん、痛みがひどくて眠れなかったり、のたうち回るような苦しみを味わう日もたくさんあります。
だけれども、痛みの和らいだときには、ちゃんと人の心を取り戻すことができます。
それって、痛みから逃げようとしたり、痛みを否定したり、不本意な状態の自分であることを否定するような心情のときにはできないことだと思うんです。
不本意な状態から抜け出そうとするのを一旦やめて、それを受け入れる覚悟が魂に宿った人は強くなれると感じております。
その心の強さは、エセスピリチュアルや巷の自己啓発セミナーなんかでは絶対に育むことはできないとも感じております。
彼らはおおむね、「自分の人生を良くしていくために」というのを軸にした考えをします。
「より良い人生のために自分を変えよう」みたいな。
その考えは私には合わん。
だって毎日生きているだけでめちゃくちゃ頑張ってるのに、それを変えるということは、頑張りを否定するようなものじゃないですか。
より良く?とんでもねぇ。
今のこの瞬間が、私の精一杯の努力の結果なの。
頑張ってる今の自分を認めず愛さずして、何のための人生ですか!
頑張った結果、苦しみは拭いきれてない訳だけど、だからと言って努力が不正解というわけじゃないし、努力や工夫を否定されてたまりますか!
怪我をした、病気をした。不健康な体になった。
でも、だから何だというのです?
それで私の価値の全てがなくなるとでも?
不本意な形になってしまった今の私に、価値はないとでも?
そんなふざけたことを他人が言うのはまだしも、自分自身がそう思ってしまってはダメなんです。
病んだ人にとって、他人の評価なんてただの呪縛でしかない。
不自由な体で、他人のために何かしてやろうなんて考えるのは「背中に翼」と同じ、無価値な希望なんです。
人から評価されなければ生きる意味がないなどというのは、健常者が勝手に言ってるだけの寝言だと思えば良いのです。
不自由な体になったのなら、まずやるべきことはその体を自分自身が嫌わないことだと私は思うんです。
不自由な体では、他の人と同じ生活はできません。
価値を生み出すようなこともできません。
そうなったとき、自分にとって最大の敵は、「自分は無価値な人間だ」と思ってしまう自分自身なんです。
他人の評価の上でばかり生きてきた人にとって、その評価の対象から外されたり、あるいは欠陥品呼ばわりされることは非常に苦しいものでしょう。
プライドも傷つくし、今まで生きてきたことを全て否定されたような絶望感や、これまでの人生が全て無駄な時間だったのだという虚無感にも襲われるでしょう。
しかし、今健康でいられる人も、いずれ年老いて、身体能力が衰えます。
すると、今までできていたことがだんだん出来なくなっていきます。
料理ができなくなり。
洗濯ができなくなり。
テレビのリモコンの使い方が分からなくなり。
自分でトイレができなくなり。
その悔しさ、悲しさはどれだけのものか!
年老いてからのその苦悩は、努力や工夫でどうこうできるものではありません。
なので、能力が衰えた自分を救うのは、「それでもいいんだ」と自分で思えるかどうかという気の持ち方にかかっているのではないでしょうか。
病気や怪我は、「それでもいいんだ」を見つけるためのギフト!
私はそう思うことにしています。
せっかくの休日でしたが、私は腕の痛みのためにほとんど寝て過ごしました。
のたうち回ること以外、なんにもできません。
けどそれは、嵐の日に船を出さないというだけの、当たり前のことでしょう?
何ら罪悪感の対象にもならないし、世間体のために無理をするほうが愚かよ(゜∀゜)
