【短編】「ア」→「イ」
浅田サヤカ:
頭から落下やったな。あたた…。
まさかや。やっちゃった。頭ん中ガチャガチャやわ。
石井シンジ:
長い間、意識が無かったらしい。
たしか、馴染みな喫茶、柱に近い上がり場、温かいダージリン・ティーが来たんだが、いきなり意識が。
頭がハッキリしだしたら、傍らには喧しい関西訛りが。
「アタシは浅田。浅田サヤカ。にーちゃんは?」
いや待った。何がなんだか。
周りは見渡した限り真っ新だし、彼方は光だか闇だか定かじゃないし、位置は北か東か南か西かハッキリしない。
まあいい。名は…
…舌がまわらない。マジか。
浅田氏が笑いながら言った。
「ははは。しゃあない。意味わからんわな。…まあ、『私』か『ワシ』なら良いんかな?…あ!『ミー』にしたら?」
…『ミー』はまんまイヤミじゃないか。却下だ。『ワシ』は爺さんみたいだから無し。まぁ社会人だし『私』がいいか。
「…わ、私は石井シンジ。」
「やっぱり!」
「やっぱり?私は貴女なんか知らないんだが…」
「アタシな、さっきは"ア段"しかアカンかったんやんか。ただ、にーちゃんが意識ハッキリしたあたりから"イ段"が解禁になったんやわ。だから、にーちゃんは名にイ段が…」
いやいや、待った待った。話が長いし速いし意味がわからない。
…まぁ、確かに今はア段かイ段以外は、舌が回らない。
「イーシーイー、アーサーダー、…あ!」
発したら実感した。
「わかった?にーちゃん、見た感じまだ若いんやから、しっかりしいや。」
浅田さんは…いや言わない。
「ア段な貴女が、イ段な私に会い、会話(かいわ)が成り立った、か。」
「頭いいやん!なら話早いわ。アタシらさ、脱したいやん?意味わからん場から」
「…場?あぁ、hereから。」
「なんや、"ピー何柴"みたいやな。まあ察したならいいわ。hereから…」
生きた時代が違ったからか、"ピー何柴"が何かはわからなかった。
ただ、浅田さんが指した先には、穴か闇みたいな塊があった。
「いったんな、名は“闇穴”にした。」
安易だが分かりいい名だ。闇穴は、私たちから見たらやたら高い位置に鎮座したまま、右や左に雷みたいなギザギザがにじり出した形だった。
「アタシらが闇穴にタッチしたら良いらしい。」
私に意識が無かった間にさんざんリサーチしたらしい。まだ頭ん中にア段しかなかった時期にだ。難儀したに違いない。ありがたい限りだ。
「しかし、あんな位置じゃあ…」
「な?アカンやん。まだ、台か何かあったら…」
"台"…浅田さんが発したら、実際に台が!
「実体化した?」
「やった!言ったらいいんやな?」
しかし、闇穴から稲光が露わになり、バッサリ真ん中に刺さり、直ちに台はバラバラになった。実体化は禁忌らしい。
「ああ!いまいましい!大体アタシが何したんや!闇穴かなんか知らんが何様や!アンタが放った禍々しさなんか、大した力やないんやからな!」
浅田さん、いきなり怒り出した。
「…実体があったらあかん。なんか無いんか…」
…ハッ!『会話』や『怒り』には実体が無い。なら…
私たちは"羽ばたい"た。
うえを見ながら。
気が付いたらダージリン・ティーは冷めていた。
浅田さんは大丈夫だったかな。
ンッン・ンーンーン:
本名に加え、偽名も有効だったとは知らなかったぜ。
地球人のオスを捕まえて観察用の空間に放り込んだまでは良かったんだが、俺様も一緒に落ちちまった。なんとか誘導して一緒に脱出できたけど焦ったな。
次に地球に潜るときは、もっと母音の多い名前にしておくか。
