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徒然

最近は、あえて何もしない時間を設けている。

徒然な時間は貴重な時間である。

私たちは、少しでも暇な時間ができるとそれを潰そうとする。
テレビをつける、Youtubeを開く、Xを見る、そのようにして可処分時間を減らそうとする。

だから、「暇な時間」というのは貴重な時間になるのである。
暇なときには考え事をする。何かに思いを馳せることができる。

思いを馳せるというのは、俯瞰して考えるということである。
シャワーを浴びながら、その日起こったネガティブな出来事の反省をする人がいるだろう。
それは、思いを馳せることで俯瞰して考えることができ、結果として客観的に自分をとらえなおすことができるようになるからである。

俯瞰して考えることの何が良いか。客観的に自分をとらえなおすことができるようになるというのは些か抽象的すぎる。

一番には、自分の中にある他の思考と連結することができることにあるように思う。
主観的なのか客観的かは眼鏡をかけるかそうでないかの違いに似ている。
眼鏡をかけると、レンズを通して見える箇所はより見やすくなるはずである。一方、レンズ外の箇所は見えづらいままである。
ここでの見えづらいというのは「視力が悪いから見えづらくなる」という意味での他に、「見やすくなる箇所が出てくることで、そちらに集中してしまい、見えにくくなる」という意味がある。

要約すると、主観的であれば、視野が狭く、その視野内の事物に集中する。客観的であれば、視野が広いが、細かくは事物に集中できないということにある。

通常、私たちは主観に生きる。
だが、徒然な時間を作ることで、主観から客観に近づく。だから、主観に生きていれば、連結されることがなかった事象同士が連結され、全く新しいアイデアを生み出すことができる。

アイデアと聞くと、ひどく実利的に考える人がいるかもしれないが、そうではない。
「こういう時はこういう風に考えると良いのか」
「こういう人もいるもんだ」
「この場ではこういう対処をしよう」
といった、自分の人生における処世術・常備薬のようなものがアイデアである。

別の記事でも述べたが、同じ時間を生きている人同士でも思考の水準が違う理由は、思考の量が違うからである。
思考の量を担保するためには、考える時間、つまり暇な時間が必要なのである。