シネマ歌舞伎 『桜姫東文章』
東京・歌舞伎座「三月大歌舞伎」での「仮名手本忠臣蔵」通し上演、片岡仁左衛門演じる大星由良之助を見ようにも昼の部Aプロ・夜の部Bプロチケットは軒並み完売。また、玉三郎はこのタイミングで引退を示唆…。となれば、録画していたシネマ歌舞伎を観るしかない(衛星劇場ありがとう!)。
しかし、それより何より、『『劇的なるものをめぐってⅡ』の第二場が『桜姫東文章』<岩淵庵室の間>であるということが大きい。

第四場、第八場も鶴屋南北『隅田川花御所染』であり、『桜姫東文章』と世界を同じくする話であるから、次にそれも観なければということなのだが、とりあえず1つずつ未見のものを潰していき、鈴木先生の世界に潜っていきたい。
(またやってくれないだろうか…。映像が残っていたのかということも驚き)
ということで、今回の観劇・視聴にて学んだことをメモしていこう。
『桜姫東文章』とは
七幕九場、四代目鶴屋南北ほか作。文化14年(1817年)3月、江戸河原崎座にて初演。今回のシネマ歌舞伎は、”孝玉コンビ”と呼ばれた片岡仁左衛門と坂東玉三郎が多くの熱烈な要望を受け、伝説的な演目『桜姫東文章』で36年ぶりに共演。2021年4月〜5月の上演内容を収めたものである。

恋の因果を描いた、歌舞伎史上最もスキャンダラスでドラマティックな物語
鬼才・鶴屋南北による『桜姫東文章』は、自分を襲った顔も名前も知らぬ男を思い続ける桜姫、あらゆる悪事に手を染める危険な男 権助、かつての恋人と姿を重ね桜姫に執着する僧 清玄を中心に、それぞれの欲望が絡み合いながら、劇的な物語が展開していく。桜姫の辿る数奇な運命、美しく濃密な濡れ場、絢爛豪華な舞台セットなど、見どころ満載の人気演目を上の巻と下の巻の2部作として上映。
wikiによれば、謡曲『隅田川』の世界と「清玄桜姫物」の世界、さらに江ノ島の「児ヶ淵伝説」も取り入れて綯い交ぜにしたお家騒動物とのこと。
清玄桜姫物(せいげんさくらひめもの)とは、歌舞伎の芝居における世界のひとつ。京都清水寺の僧清玄が高貴の姫君桜姫に恋慕して最後には殺されるが、その死霊がなおも桜姫の前に現れるという内容。
その概略としてはおおよそ次のようである。まず清玄が清水寺において桜姫を見染め言い寄るが、それによって寺を追放され、桜姫には逃げられる(清水寺の場)。そののち清玄はさびれた庵室に住む。そこへ桜姫が偶然来合わせ、清玄は桜姫を見てなおも恋慕の情を訴えるが、桜姫の家に仕える者(たいていは奴)に殺される。しかし清玄は死してなお桜姫に執着し幽霊となって現れる(庵室の場)。
しかしこれだけでは当時一日かけて行う芝居の内容にはならないので、たいていの場合、この清玄桜姫に他の芝居の筋を混ぜた。そうすることによって一種のお家騒動物に仕立てたのである。特にその中では隅田川物の芝居がよく使われた。現在でも上演される『桜姫東文章』や『隅田川花御所染』などがそうである
つまり、清玄桜姫物とは、京都清水寺の僧清玄がストーカーとして、死して尚、霊になってまで桜姫に執着する話である。
そして次に隅田川物だが、
隅田川物(すみだがわもの)とは、人形浄瑠璃や歌舞伎における世界のひとつ。能の『隅田川』を原点とする梅若伝説を扱ったものをいう。
おもな登場人物としては、京の公家吉田家の息子梅若丸、それを探しついには物狂いとなってしまう母の班女の前(ただし作品によって名前が違う)、梅若丸をさらうが殺してしまう人買いの忍ぶの惣太。忍ぶの惣太は実は吉田家のもと家臣で、それが主筋と知らずに梅若丸を殺してしまうというパターンが多い。
物語は悪人たちに吉田家を乗っ取られいったんはその家族は離散するが、やがては善人方の家臣たちの活躍によってお家再興を遂げる、というのが骨子となっている。
ちなみに、この梅若伝説とは、失踪した息子を探す母を扱った伝説。
そして、最後に「児ヶ淵伝説」だが、
江の島の稚児ヶ淵は、建長寺広徳庵の自休和尚に見初められた、稚児の白菊が、断崖から身を投げ、自休もその後を追ったという伝説が残されている場所である。
ということで、仏門における同性愛(&小児性愛)→現世においては報われないと身投げをする悲恋。
以上を綯い交ぜにすると、
・建長寺の自休=清水寺の清玄
・自休が愛した白菊(丸)の生まれ変わり=吉田家・桜姫
・吉田家当主&桜姫弟の梅若丸を殺害する忍ぶの惣太=釣鐘権助
の三角関係がここに出来上がり、それがこの『桜姫東文章』ということになる。ここで、2019年に阿佐ヶ谷スパイダースが桜姫に取り組んだ際に公開している『桜姫東文章』のあらすじ動画を見ると分かりやすいだろう。


木ノ下歌舞伎『桜姫東文章』
『桜姫東文章』は、2023年4月には岡田利規演出によるキノカブでも上演されていたようだ。木下氏のコラムを引く。
もともと武士の娘だった桜姫と、高僧だった清玄は、いまや落ちぶれた流浪の身。やがて清玄は執拗に桜姫を追いかけはじめ、さまよえる桜姫は女郎屋に売られ、そして権助も桜姫と思わぬ形で再び出会うことになる……。
この物語の中で、桜姫は身分や生き方、話し方を変えながら生きていく。家族を襲った悲劇を脇に置けば、自業自得と言えるような部分もあり、周囲に流されるまま生きているようにも見える桜姫だが、吉田家の家宝を奪った=自分の人生を奪った真犯人を知るや、“お家の再興”という使命のもと、想像を絶する冷徹さで全てを終わらせもする。単純な解釈を許してくれない人物像だ。
もっとも、鶴屋南北による原文をじっくりと読み込んでみると、桜姫の姿からは「こうとしか生きられなかったのではないか」というもの悲しさが浮かびあがる。歌舞伎上演の美しい印象で知られる『桜姫東文章』だが、蓋を開けてみると内容は抑圧と暴力の嵐。絶望的な格差社会のなか、登場人物は性別や年齢、容姿、障がいなどによる激しい差別にさらされてゆく。桜姫の場合、権助に強姦され、清玄のストーキングを受け、周囲には個人の意志を無視され、身体を売らされ、その後はいったん落ちぶれたからと性的にも軽んじられるのだ。一見ふらふらと世間をさまよっている桜姫だが、視点を変えてみると、あまりに過酷な世界を生き延びるため、じつは彼女なりに必死で足掻いているようにも思えてくる。さながらディストピアを生きる戦士、残酷な決断も厭わないダークヒーローのように。
個人的には"ディストピアを生きる戦士"というより、自らの欲望と運命にも翻弄されながら霊もダメ男も自らの手で葬りサバイブするギャルと表現したい。
木ノ下氏は岡田利規氏との対談の中で、そんな桜姫を演じた玉三郎の演技プランについても言及している。
岡田 さっき、よくわからないと言いましたが、一番わからないのが桜姫なんです。ほかの人は、いい奴も悪い奴も惨めな奴も、わかるんですよね。桜姫は動機に一貫性がない。そういう基準で桜姫というキャラクターやこのテキストに当たろうとすること自体が、つまらないのかなと思っています。
例えば木ノ下くんの話してくれたように、強姦した男なのに惚れているところから始まるから、まずわからないなと思うわけですよね。けれど最後に、権助が自分の御家に危害を加えた人間だとわかると気持ちが翻って、権助を殺して終わる。
木ノ下 権助との間の子供まで殺しますからね。わからないから面白いということですよね。玉三郎さんは、それは桜姫の純粋さだと捉えて演技を作られているそうです。権助が好きとか、その場その場の純粋な感情で。
ただ、その場の純粋さで"桜姫"を表現できていたのかはよく分からない。その純粋さが狂気にも至るようなことも、もっと必要だったのだろうか。
あるいは、『桜姫東文章』を第二場に持つ『劇的なるものをめぐって・Ⅱ』において、最後に森進一「女のためいき」が採用されていたことも思い出したい。※第十場「阿国御前化粧鏡」にて使われていたようだが、歌に流れる感情は全体を貫くものとして捉えられるはず。ちなみに、阿国御前は妾、桜姫は女郎である。
死んでもお前を離しはしない、そんな男の約束が嘘だと分かった女のためいき。惚れているからこそ憎い。….という感情が歌われているが、ここには純粋さだけではない、濃厚な情念がある。
三幕目「押上植木屋の場」「郡司兵衛内の場」
さて、木ノ下歌舞伎『桜姫東文章』で興味深いのは、初演以来、演じられていない三幕目を復活させたということである。
木ノ下 『桜姫』の場合は、桜姫や権助、清玄などの立場が上の人物のほうがアンモラルで、彼らの下にいる忠義の家来たち、つまりモラルを持った人々が振り回され右往左往するという構造になっていて、モラル/アンモラルの力関係が逆転しているんです。その辺がよくわかるのが、三幕目の「押上植木屋の場」「郡司兵衛内の場」です。(中略)
桜姫は奔放な恋愛をしている、清玄は失墜し、権助は行方不明。主役級の人物たちはそれぞれアンモラルに生きている。その下で、忠義に厚い家来たちが犠牲になっているっていう話です。桜姫の身代わりで小雛という娘が殺されたりします。
岡田 なるほど。ではなぜここは一度も上演されていないのでしょうか。
木ノ下 一つは、身替りの話ですから、清玄、桜姫、権助の三角関係の本筋と直接は関係がないということですね。あとは上演時間の制約があります。国立劇場(昭和42年)のときは、郡司正勝先生が「泣く泣くカットした」とおっしゃっていますね。
ただこの場面はかなり重要だと思っていて。あるのとないのとでは物語全体の見え方がずいぶん変わるんですよね。具体的な例を挙げると、四幕目に「三囲堤の場」という、雨の中で清玄と桜姫がすれ違う短い場面があります。原作では「郡司兵衛内の場」の次の場面にあたりますが、雨のしとしと降る夜の隅田川を舞台にしていて、実に叙情的なシーンです。ここで清玄が焚き火をするんですが、湿気ているので火がつかない。ふと見ると都合よく傘が落ちているので、それで雨をしのいで焚き火をする。その傘にはなぜか和歌が書いてあり、その歌を遠くから見た桜姫は「いい歌ね、まるで私の境遇のようだわ」みたいなことをいうのですが、実はそれは小雛が詠んだ歌なんです。

『仮名手本忠臣蔵』を通しで観た際、端役の場面、本筋のストーリーと一見距離のあるような話によって演目全体を貫くテーマが浮かび上がると感じたこともあり、このキノカブ版を見逃したことが悔やまれる。
