海の底にある古い劇場
その劇場は、ずっと昔に沈んだのだと言われている。
嵐に呑まれたのか、忘れられたのか、
理由を知る者は、もう誰もいない。
ただひとつ残っているのは、
海の底で、今も“上演が続いている”という噂だった。
——そんな話、信じるはずがなかった。
あの日、私はただの調査員として、
海底遺跡の記録を取りに来ていただけだった。
小型の潜水艇に乗り込み、
ゆっくりと海の底へ沈んでいく。
光は次第に弱まり、
代わりに、深い青がすべてを包み込んでいく。
やがて、視界の先にそれは現れた。
崩れかけた柱。
色あせた赤い幕。
そして、海の中だというのに、
不思議と揺れないシャンデリアの灯り。
まるで、時間だけが切り取られたみたいに、
そこだけが、別の世界のように見えた。
吸い寄せられるように、私は外へ出た。
水の中を進み、ゆっくりと劇場へ近づく。
扉は半ば開いたまま、
まるで誰かを待っているみたいだった。
中に足を踏み入れた瞬間、
音が、消えた。
海の流れも、自分の呼吸音も、
すべてが遠ざかっていく。
代わりに、かすかな“旋律”が聞こえた。
誰もいない舞台の上で、
グランドピアノが、ひとりでに鍵盤を鳴らしていた。
ありえない光景だった。
けれど、怖いとは思わなかった。
むしろ——懐かしい、と思った。
気づけば、舞台の前の席に座っていた。
客席はすべて空なのに、
なぜか満たされているような気配がある。
そこにいるはずのない観客たちが、
静かに息を潜めているような気がした。
音楽は続く。
やさしく、どこか切なく、
忘れかけていた記憶を、ひとつずつ撫でるように。
そのとき、ふと気づく。
これは、誰かのための演奏ではない。
届かなかった言葉が、
水の中でほどけていくような音だった。
ここは——
海の底にある古い劇場。
沈んでしまったあとも、
終わることができなかった“何か”が、
ずっと続いている場所。
ピアノの音が、少しだけ変わる。
終わりに向かうような旋律。
胸の奥が、静かに締めつけられる。
やがて、最後の一音が、ゆっくりと消えた。
その瞬間、
シャンデリアの灯りが、ふっと揺れる。
気づけば、海の音が戻ってきていた。
水の重さも、冷たさも、
すべてが一気に現実へと引き戻してくる。
振り返る。
さっきまで確かにあった舞台は、
ただの崩れた遺跡のように、静まり返っていた。
何もなかったかのように。
それでも、確かにそこに“音”はあった。
潜水艇に戻りながら、
ふと、そんなことを思う。
あの劇場は、今もどこかで、
誰にも気づかれないまま、上演を続けているのだろうか。
もしまた、たどり着けるのなら。
今度は最後まで、
その音を、ちゃんと聴いてみたいと思った。

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