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◉昭和100年記念【名古屋・戦後意外史 その3】「知と熱」が生んだ20年ぶり優勝~昭和49年のドラゴンズ(前編)


●ハッスルプレー

 中日ドラゴンズが初優勝から20年ぶりにセ・リーグ優勝を果たした昭和49年から半世紀。その軌跡を名古屋タイムズの記事を参考に2回にわたり振り返る。
 このシーズンは与那嶺要監督3年目。ハワイ移民の日系2世の与那嶺はアメフットから野球に転向。ハワイのマイナーリーグチームから昭和26年に巨人に入団。首位打者3回など走攻守そろった選手として活躍したが、川上哲治が監督に就任後、追い出されるような形で自由契約。昭和36年から2年シーズン、中日でプレーして引退した。中日でのコーチを経て昭和47年、監督に就任した。
 指揮官となった与那嶺が掲げたスローガンは「ハッスルプレー」。監督就任まで2シーズン、水原茂監督の下でヘッドコーチを務めた与那嶺はチームを熟知、現役時代に激しいスライディング技術を日本に持ち込んだ与那嶺は、選手たちに足りないガッツの注入を図った。そして「英雄はいらない。チームワークね。一生懸命やれば実績のなくてもチャンスを与える」と訓示した。
 選手も応えた。名タイによると選手のシーズン中の外傷は1年目が31件で、その大半が打席でボールに食らいついた死球事故が大半。2年目は41件で、こちらは走塁による事故が大半だった。

●機動力でチャンスを呼び込め

 当時の日本野球は長嶋茂雄、王貞治を擁する巨人の天下。昭和40年から日本一を続けていた。優勝するためには巨人を倒すしかない。当時の中日のメンバーは野手陣が円熟期を迎えた高木守道を筆頭に、谷沢健一、島谷金二、大島康徳ら伸び盛りの若手とクラッチヒッターの井上弘昭、マサカリ木俣達彦、投手陣は、星野仙一、松本幸行、三沢淳、鈴木孝政ら。
その後、タイトルを獲るレジェンドが名を連ねるが、当時は成長過程。「個の力では勝てない」と分析した与那嶺は機動力でチャンスを呼び込み、守り勝つ野球を目指した。
 1年目、2年目ともに3位。巨人に迫ったが最後は失速というシーズンが続いた。3年目、昭和49年のキャンプではベースランニング、スライディング、エンドラン、バントの基本を繰り返し、内外野の守備練習にも時間を割いた。
 当時の中日はオーダーがころころ変わる貧打線で打撃練習に時間をかけないキャンプに番記者たちは首をひねった。これに対して与那嶺はこう解説した。「もちろん、それは肝心なことよ。しかしバッティングはタイミングがポイントなんだよ。バッティングマシンじゃ難しいね。キャンプではどんどん数を打って腕っぷしを鍛えておけばいい。勘を取り戻すのはオープン戦からだよ」「盗塁の練習、スライディングのコツ、バント、エンドランの技術を磨くのはオープン戦の段階ではもう遅い。それをみっちりやれるのがこのキャンプなんだ」

●コンちゃん

 投手陣を任されたのが近藤貞雄だった。愛知県岡崎市出身の近藤は戦前に西鉄を経て巨人に入団。昭和21年に23勝を挙げるが、進駐軍のジープにはねられそうになり逃げた際に溝に右手を突っ込んで指を負傷。これがもとで巨人を首になり、中日に入団。ケガした指を使わずに投げたパームボールを武器にカムバック。映画にもなった。
 引退後に中日、ロッテの投手コーチを務め、昭和47年に監督に就任した与那嶺の要請で古巣に復帰した。巨人を追われた2人の男がコンビを組む。
近藤は投手養成のパイオニアだった。「肩は消耗品」と考え、キャンプでは「投げ込み」を抑え、基礎体力をつける「走り込み」を重視、シーズン中は「投手分業制」を打ち出した。ロッテ時代に反対されたこの練習法を中日で初めて取り入れ、昭和47年は防御率3・29、昭和48年は2・98と向上した。与那嶺は「もしコンちゃん(近藤)がいなかったら、ボクはどこまでやれたか」と後に振り返っている。
昭和49年シーズン開幕まで1か月の3月、大砲候補の外国人選手の獲得が決まる。3Aハワイアイランダースで4番を打ったトーマス・マーチン、27歳。この男が竜の福の神となる。

次回後編に続く


次回の名古屋・戦後意外史は
<「知と熱」が生んだ20年ぶり優勝~昭和49年のドラゴンズ(後編)>
お楽しみに

◉昭和100年記念【名古屋・戦後意外史 その1】🔽

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◉昭和100年記念【名古屋・戦後意外史 まとめ読み】🔽

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