『桃太郎』ってセレンディピティの話だったの?〜桃を拾うだけでは始まらない
先日7月23日は、『TALK NIGHT in 高松』というイベントで、セレンディピティについてお話をしてきました。

満員御礼ということで、嬉しい限りでしたが、お一人お一人の表情がわかる近い距離で、ご飯や飲み物を堪能しながら、楽しい時間を過ごさせていただきました。改めて関係者の皆様、ご参加いただいた皆様、貴重な機会をありがとうございました。
このイベントでの登壇を通じて、何点か気づきがありました。
・セレンディピティに存在する階層
・投稿の文章が長い
・noteの発信だけでは不十分
・直接お話しできる機会を増やす必要がある
などなど
なので、まずは今回から、投稿の文字数を、従来の約1/3から半分の2,000〜2,500文字前後に減らし、シンプルにすることを心がけます。
今回、味を占めたわけではないですが、直接皆さんのお顔を見ながらお話できる機会が改めて特別&格別だと分かったので、一緒にイベントやろうというお誘いには、積極的にお応えしていきたいと思います。
それでは、本編です。
「運がいい人って、どんな人だろう?」
今回のイベントでセレンディピティについて解説するにあたり、運がいい人との違いを示すために、何か良い例がないかをずっと考えていた。その時、偶然、Xで『桃太郎』のエピソードを見かけた。
昔話として何百回も語られてきた、みんなご存知のあの物語には、実は「運が良い」人の行動がはっきりと描かれているという話だった。
「なるほど」と。でも、強い共感とともに、僕は、違和感も感じた。そして同時に思ったのは、『桃太郎』の昔話を活用すれば、「運がいい」と「セレンディピティ」の違いすらも解説できるのではないか、ってこと。
そこから、僕の『桃太郎』の分解実験が始まりました。
なお、僕のnoteは、AIによる音声解説も用意しているので、文字が苦手な人は、まずは耳で楽しんでください。(※ちなみに、音声解説とnoteは若干内容が違うので、セットで楽しんでもらえると、より理解が深まる、そんな設計になっています。)
桃を拾うまでは、まだ運の話
今回フォーカスを当てるのは、実は、主人公:桃太郎ではなく、おばあさんのほうです。
おばあさんは川へ洗濯に行き、大きな桃が流れてくるのを見つけて拾う。よく知られたこの場面、当たり前に読み飛ばしてしまうけれど、少し立ち止まって考えてみたいと思うんです。
まず、妄想の域を超えないけれど、あの川で洗濯をしていたのは、きっとおばあさんだけではなかったと思うのね。もしそうだとして、その中で、桃を拾ったのは、あのおばあさんだった。
毎日のように川へ通うという、何気ない日常を続けていたから、「いつもと違う」に気づけた。しかも大事なのはその後で、気づいて、「あら、不思議」で終わらせず、実際にそれを拾うことにした。
おばあさんには一苦労だったと思うし、普通なら、不気味に思ってそもそも手を出さないかも知れない。妄想に過ぎないけど、もし他にも人がいたとしても、おそらく誰も手を出さなかったんじゃないかな。
ここまでは、まだ「運が良かった」の範囲の話。
偶然に気づき、それを逃さず動く・・・それだけでも十分に「運がいい人」の特徴だと思うんだけど、でも、僕はまだそれを、セレンディピティとは呼ばない。
割ってみるまで、わからなかったこと
おばあさんが桃を持ち帰ったのは、きっと「今日はご馳走だ」とか「美味しそう」という、ごく自然な、桃への期待からだったと思う。珍しい食べ物が手に入ったという、ある意味それだけの出来事のはずだった。
ところが、帰って、桃を割ってみたら、
なんと、中から赤ん坊が出てきてしまう。
・・・これは完全な想定外だ。
食べようと割った桃から、子どもが生まれてくるなんて、おばあさんに限らず、誰にも予定できない展開。普通なら、ここで「期待外れ」として処理してもおかしくない。赤ん坊が出てきて、不気味に思う人がいたとしても、おかしくはなかった。
現実なら、簡単に捨てるなんて選択はできないと思うんだけど、そうだとしても、この状況を「どう受け止めるか」には、いくつもの分かれ道があったと思うんだ。
「これはきっと、神さまがくださったにちがいない」
おじいさんとおばあさんには、もともと子どもがいなかったから、長年、心のどこかに抱えていた欠落みたいなものがあったと推測できる。だからこそ、目の前で起きた「想定外」を、ただの異物としてではなく、自分たちの積年の願いに重ね合わせることができた瞬間、このセリフが出てきたのだと思います。
「桃を食べたかった」という期待が、
「子どもが欲しかった」という願いへと、書き換えられた瞬間。
出来事が変わったのではなくて、出来事の意味が変わったのです。
セレンディピティとは、
偶然を"意味ある発見"へと変換する営みだと僕は考えている。
桃太郎の場合、おばあさんが桃を拾った瞬間ではなく、割って、想定外のものを自分の物語に組み込み直したその瞬間から、この物語は「運の良い話」から「セレンディピティの話」へと変わっていったと思うのです。
書き換えられたのは、意味だけじゃなかった
もうひとつ、見落とされがちなことがあります。前章で書いたのは、「桃を食べたかった」という期待が「子どもが欲しかった」という願いへと書き換えられた、ということでした。
でも、書き換えられたのは、出来事の意味だけじゃない。その意味を受け止めた、おじいさんとおばあさん自身も、確かに変わっている。
それは何かと言うと、
夫婦だった二人は、この瞬間から、親になった。
偶然に出会い、それに新しい意味を見出すという営みは、出会った出来事の解釈だけでなく、それを受け止めた人間の輪郭そのものを書き換えていくことでもあります。セレンディピティは、何かを「手に入れる」話であると同時に、手に入れた側の何かが「変わる」話でもあるのだと思います。
さいごに
今日は、桃を拾っただけでは、まだセレンディピティじゃない・・・そんな話でした。それは、あくまで偶然との出会いに反応したというだけのこと。もちろん、それだけでも十分に価値があるし、運がいい人には共通する行動だと思う。
でも、おばあさんが桃を割り、その想定外を「自分の物語」として引き受けた瞬間、出来事は単なる偶然ではなく、人生を動かす意味を持ち始めた。
だから僕は、『桃太郎』を「運が良かった話」ではなく、「セレンディピティの話」として読むことができるのではないかと考えたのでした。
そして、この物語には、もう一つ面白い続きがあります。
桃太郎はやがて鬼退治へ向かい、村を救います。あの鬼退治も、実は桃を拾ったことから始まる、もう一つのセレンディピティとして見ることができるのではないか・・・そう考えると、セレンディピティは一度起きて終わるものではなく、人を変え、その変化がまた新しいセレンディピティを生み出していくものなのかもしれません。
その話は、また次回に。
093.
『桃太郎』ってセレンディピティの話だったの?
〜桃を拾うだけでは始まらない
Fin.
🔗 この記事と、糸がつながっている話
セレンディピティは"人をどう変えるのか" 「拾う」と「割る」の分岐、そして意味の書き換えが人を変えるという今回の話は、この記事で立てた「セレンディピティは、人をどう変えるのか」という問いを、桃太郎という具体を通して初めて解いてみた回にあたる。
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