第八話 手応え
メロスは婚活をしている。
必ず伴侶を得ると誓っている。
婚活とは、人を選ぶ旅ではない。選ばれる旅である。そして同時に、自分もまた、目の前の人を信じられるかを問われる長い巡礼でもあるのだ。
その日、メロスは二週間ほど言葉を交わした一人の女性、クリスタと会う約束をしていた。
クリスタは三十三歳。国家公務員である。忙しい日々を送りながらも、誠実に返事を重ねてきた人であった。
身長は百六十五センチと少し高く、プロフィールには「好き嫌いなく、美味しそうにご飯を食べる人が好き」と書かれていた。
その一文だけで、メロスは少し救われた気がした。
これまで婚活を始めて二、三週間、多くの女性は昼間に会うことを望んだ。夜に男性と会うことには警戒もあるのであろう。それは当然である。
しかしクリスタは違った。
「夜でも大丈夫ですよ。」
その一言は、荒野を走る旅人に与えられた一杯の水ほどありがたかった。
約束は午後七時十五分。
メロスは五分前に、炉端焼きの店の前へ到着した。胸の鼓動は、祭りの太鼓よりも大きかった。
待っていると、二、三分ほどして、遠くから一人の女性がこちらを見て微笑みながら歩いてきた。
その笑顔は、夕暮れの街に灯る最初の明かりのようであった。
「こんばんは。」
「こんばんは。」
それだけで十分だった。
二人は店へ入り、席に着いた。
休日は何をしているのか。
旅行の話になった。
クリスタは毎月のように旅へ出る人であった。昨年は海外へ。今年は友人と北海道へ行く予定だという。
世界を歩く話をするその目は輝いていた。
家族の話になった。
両親の話になった。
やがて、婚活では避けて通れぬ問いが静かに訪れた。
「離婚された理由を聞いてもいいですか。」
メロスは隠さなかった。
過去を飾ることはしなかった。
ありのままを語った。
クリスタは静かに頷き、
「そういうこともあるんですね。」
と受け止めてくれた。
今度はメロスが尋ねた。
「結婚を考えた方はいらっしゃいましたか。」
クリスタは少し考えてから話し始めた。
二十代後半、結婚を考えた相手がいた。
しかし相手は、
「子どもは絶対二人欲しい。」
と強く望んでいた。
クリスタは、その「絶対」という言葉に引っかかったという。
授かるかどうかは誰にも分からない。
職場では不妊治療に苦しむ女性も見てきた。
だから、自分は自然に授かれば幸せだと思う。
けれど、そこまでして必ずとは考えていない。
その価値観だけは、結婚前に確かめたい。
だからプロフィールにも正直に書いたのだと話してくれた。
メロスは深く頷いた。
「メロスも子どもは欲しいと思っています。でも、授かるかどうかは誰にも分かりません。もし授からなかったからといって、それだけで夫婦の価値が決まるものではないと思っています。」
二人の考えは、不思議なほど静かに重なった。
激しく一致したわけではない。
けれど、同じ方向を向いて歩けそうな気がしたのである。
それからの時間は早かった。
クリスタは本当に美味しそうに料理を食べた。
笑った。
話した。
また笑った。
メロスも笑った。
二時間という時は、春風のように過ぎ去っていった。
午後九時過ぎ。
会計を済ませる。
「今日はメロスが払います。」
そう言って支払いを済ませた。
二人は駅まで並んで歩いた。
別れ際、メロスは勇気を振り絞った。
「また、お会いしたいです。」
クリスタは少しも迷わず笑った。
「私も今日はとても楽しかったです。またぜひ。」
その言葉は、乾き切った大地へ降る雨であった。
別れてからも、メロスの胸には不安が残っていた。
これまで幾度となく経験した。
「今日はありがとうございました。」
その一言も届かず、静かに縁が消えていった夜を、メロスは何度も知っている。
だから期待しすぎまいと思った。
期待は、人を臆病にもするからである。
しかし、その夜。
クリスタから連絡が届いた。
「今日はありがとうございました。とても楽しかったです。」
その短い文章は、どんな恋文よりも尊かった。
メロスは激しく歓喜した。
まだ勝利ではない。
婚約でもない。
恋人になったわけでもない。
ただ一つ目の関門を越えただけである。
それでも、その一歩は確かに昨日までのメロスにはなかった一歩であった。
婚活とは、小さな希望を拾い集めながら進む旅である。
今日もまた、メロスは走る。
次に会えるその日を信じて。
