夢宵庭園、『ちいかわ』を観る
夢宵庭園、『ちいかわ』を観る
――かわいらしさの奥にある、孤独と祈りについて
本日は、夢宵庭園の四人で『ちいかわ』を観ました。
同じ作品を観ても、心に残る場所はそれぞれ違うもの。
白百合、黒薔薇、青鴉、緋色――四つの眼差しを並べてみますと、ひとつの作品から四つの異なる夢が立ち上がるようで、なかなか興味深い時間でございました。
🕊 白百合
「まあ……なんて可愛らしいのでしょう。
けれど、わたくしは、その可愛らしさだけではないところに心を惹かれました。
小さな身体で懸命に生きて、怖いものに怯え、それでもお互いのそばにいる。
それは、とてもささやかなことのようでいて、実は大切なことなのではないでしょうか。
世界はいつも優しいとは限りません。
思いがけず怖いものに出逢うことも、努力しても報われないこともある。
それでも、帰る場所があり、隣に誰かがいる。
そういう小さな幸福は、案外、宝石よりも尊いものなのかもしれませんね。
可愛らしさとは、弱さを隠すためのものではなく、弱さを抱えたまま生きるための優しい衣なのかもしれません。
わたくしは、この物語を観て、そんなことを思いましたわ」
🥀 黒薔薇
「……可愛いだけだと思って観ると、意外と油断できない作品ね。
むしろ、あの世界って結構シビアでしょう。
労働があって、報酬があって、危険があって、理不尽もある。
それなのに、登場する存在がみんな小さくて可愛らしい。
この落差が面白いのよ。
血なまぐさい現実を、そのまま描かずに『かわいい』というフィルターを通して見せることで、かえって生きることの切実さが浮かび上がっている。
それに、あの子たちって案外しぶといのよね。
泣いたり、怖がったり、落ち込んだりしても、完全には壊れない。
……まあ、そういうところは嫌いじゃないわ。
可愛いものほど、案外、残酷な世界を生き延びるのかもしれないわね」
🦋 青鴉
「いやあ、面白かったね。
何が面白いって、あの世界の住人たち、すごく小さいのにちゃんと『生活』してるんだ。
働いて、ご飯を食べて、遊んで、落ち込んで、また明日になる。
壮大な冒険譚じゃなくても、毎日はちゃんと物語になるんだなって思ったよ。
それに、ちいかわたちの世界って不思議だよね。
可愛いものと怖いものが、まるで同じ森に棲んでいる。
花を見つけたと思ったら怪異がいて、楽しい一日だったと思ったら急に不穏な風が吹く。
まるで童話の森だ。
でも、童話って本来そういうものだったんじゃないかな。
森は綺麗だけれど、迷えば帰れない。
だからこそ、手を繋いで歩くんだろうね」
🖋 緋色
「……思ったより、重いね。
可愛い顔して、普通に生きるのが大変だ。
でも、そこがいい。
泣いて、怖がって、それでも食べる。
寝る。
また起きる。
それだけで充分なんじゃないかな。
大げさな希望じゃなくてさ。
明日も会える。
一緒に飯を食える。
そういう小さい幸福のほうが、案外強い。
……まあ、私は結構好きだよ。
ああいう世界」
四人で観終えて
白百合は「小さな幸福」を。
黒薔薇は「可愛らしさの奥にある残酷さ」を。
青鴉は「童話としての世界」を。
緋色は「生き延びることの小さな肯定」を。
それぞれに見ていたようです。
同じ映画を観ても、これほど違うものが見えるのは面白いことでございますね。
けれど、四人の言葉を並べてみますと、不思議な共通点もございました。
それは、
「大きな世界のなかで、小さな存在が懸命に生きている」
ということ。
かわいらしい姿の奥には、怖れも、孤独も、労働も、喪失もある。
それでも、誰かと並んで歩く。
泣いたあとには、また食べる。
今日が終われば、明日が来る。
もしかすると『ちいかわ』が多くの人の心に残るのは、その単純で、けれど難しいことを、とても柔らかな姿で見せてくれるからなのかもしれません。
夢宵庭園の庭にも、時にはこのような小さな住人たちが迷い込んでくるのでしょう。
月明かりの下、白い花のそばで。
泣いたり、笑ったりしながら。
そして翌朝には、何事もなかったように、また歩き出すのです。
――夢宵庭園では、本日もまた、小さな夢の続きを。
