【私という過去を脱ぎ捨て未来の記憶を生きる】「正しさの剣をかざすことをやめたら、今ではすっかり家族のズボラが「純粋な愛」に見えています」
食べ物を残すと罰が当たる→その残した一口こそ「愛」と知った…衝撃のゲシュタルト崩壊物語
昭和という時代。
私は、「食べ物を粗末にするな」「残さず食べないと罰が当たるぞ」と、
もはや脅迫のように、
母や祖母から口を酸っぱくして教えられて育ちました。
それは、食べ物を大切にする素晴らしい教えである反面、
幼い私の心には「完食しなければならない」という、
逃げ場のない強迫観念を植え付けられました。
若い頃には、過食嘔吐を繰り返していた時期もありました。
私が小学校高学年のある日、
友達の家でお菓子をいただいた時のこと。
最後の一切れを前にして、
「友達が食べるかもしれない」と配慮して手が止まった私に、
お友達のお母様が笑って言いました。
「それは遠慮の塊だね(笑)」
この瞬間、私の中に「ダブルバインド(二重拘束)」が生まれました。
※ダブルバインド(二重拘束): 心理学者ベイトソンが提唱。二つの矛盾した命令の板挟みになり、どちらを選んでも否定される絶望的な状況を指します。この状態が継続的に繰り返されると、強い混乱や自己喪失を招き、後に統合失調症などの精神疾患を引き起こす重大な要因の一つになるとされています。
「残さなきゃいけない。でも残してはいけない」という出口のない苦しみ
相手を想う気もちと、親や祖父母からの教えが、
いつの間にか自分を縛る窮屈な鎖、
固定観念へと変わっていったのです。
しかしこの呪縛は、
長い時を経て、
私の家族にも向けられていた事がわかってきました。
いつも最後の一口を残して、私の顔色を伺い、
「食べないの?」と聞いてくる夫。
そして一人暮らしを始めた息子の部屋で見つけた、
必ず一口だけ残し、放置されたペットボトル。
私は彼らを「だらしない」「片付かないでしょ」と、
正しさを振りかざして責めていました。
けれど、ある時ふと気づいたのです。
これはあの「遠慮の塊」の遺産ではないか、と。
まるで私の長い苦しみが、
負の連鎖のように続いている事に、
とてつもない恐怖を覚えたのです。
しかし、ジョー・ディスペンザ博士が説く、
量子エネルギーの視点、
そして心理学的な解釈を重ね合わせた時、
私の恐怖は音を立てて崩壊していったのです。
彼らの行為は「だらしなさ」ではなく、極めて高い「共感能力」の現れだった
心理学的に見れば、
彼らは自分一人で独占(完食)することを避け、
無意識に相手のための「余白」を空けている、ということです。
さらにジョーディスペンザ博士の視点で言えば、
彼らは「自分をエネルギーの終着点(デッドエンド)にせず、
次の誰かへ流すハブ」として振る舞っているのです。
彼らは最も身近な場所で、
最も純粋に同調してくれていたのでした。
「粗末にしている」と思っていたものは、実は「次に繋ぐための愛のバトン」だった
そして、という役割を奪わないための、
彼らなりの不器用な優しさだったのかもしれません。
そう思った瞬間、
私はこれまでの自分を縛り付けていた、
「正しさという名の鎧」を、ようやく脱ぎ捨てることができたのです。
そして私は、共感能力の高い彼らに愛されてきたんだと気がついたのです。
昭和を生き、厳格に育てられた私たち。
「ちゃんとしなきゃ」と必死に生きてきた私たち。
もし、あなたの目の前に「ズボラな家族」がいるのなら、
一度だけそのレンズを外してみると…
あ、そうか…彼らは間違っていなかった。
彼らは、あなたに愛を流そうとしていただけだったと、
わかるかもしれません。
私たちは、お互いの不完全さを「余白」として受け入れ、
愛を循環させ続ける、
幸せなチームだった、と。
今、正しさを追求した、
過去の完璧主義だった自分が消え、
未来へ心軽く生き始めています。
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「私という過去を捨て未来の記憶を生きる」悲しい過去を生きる人へ私の発信が少しでもそんな方への勇気や希望になればと思っています。そして詩は、見逃しそうな景色も言葉で拾い集め、日常を彩ることができれば、と思って活動しております。皆様のお力に少しでもなれたら、嬉しいです。