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いろは歌の意味を、40歳でようやく知った。早期退職後の私が考えた人生の使い方

こんにちは、芽芽斗 守(めめと・まもる)です。

GW、皆様はいかがお過ごしでしょうか。

私は妻の実家に滞在しており、そこから小旅行で島根県へ足を延ばしました。向かった先は、安来市にある足立美術館です。

米国の専門誌で長年「日本一」に選ばれ続けている日本庭園と、近代日本画や陶芸のコレクションで知られる美術館です。

見事な庭園を眺めながら館内を進むと、横山大観(明治から昭和にかけて活躍した近代日本画の巨匠です)をはじめとする数々の作品が展示されていました。

そのなかで、ただ一つ、今も頭から離れない作品があります。

北大路魯山人の「いろは屏風」です。

魯山人という人

魯山人は、大正から昭和にかけて活躍した芸術家です。

書や陶芸にとどまらず、希代の美食家として「美と食」をとことん追い求めました。妥協を許さない性格から自身が育てた料亭を追放されるなどの波乱も経験しています。

それでも生涯を通じて己の美学を貫き、やりたいことをやり切った人物です。

その彼が70歳のときに書き上げた六曲一双の大作が、私があの日に見た「いろは屏風」でした。

ケイドロと、いろは歌

「いろはにほへと」の並びは、私の記憶が確かであれば小学生の頃に休み時間の「ケイドロ」で覚えました。

泥棒と警察に分かれて追いかけっこをする、あの遊びです。

足を出して円になり、靴を指差しながら「い・ろ・は…」とカウントして役を割り振っていました。

当時はただの音の羅列でしかありませんでしたが、改めて現代語訳を確認すると、そこには子どもの頃には思いもしなかった深い意味がありました。

色は匂へど 散りぬるを
(どんなに美しく咲く花も、いつかは散ってしまう)

我が世誰ぞ 常ならむ
(この世に、永遠に変わらないものなど一つもない)

有為の奥山 今日越えて
(迷いや困難が絶えない人生の山を、今日も越えていく)

浅き夢見じ 酔ひもせず
(儚い夢にすがったり、何かに酔って現実から目を背けたりはしない)

いろは歌(作者不詳・平安時代)

意味を知るだけでも、十分に深い歌です。
ただ、その終わり方にも不思議な余韻があります。

「浅き夢見じ 酔ひもせず」で、いろは歌は言葉としては終わります。

けれど全文を読んでも、不思議とどこか途中で切れているように感じます。

だから私は、その先を知りたくなりました。

有為の奥山を越えた人は、どこへ行くのか。
夢にも酔いにも逃げなかった人は、そのあと何を見つめるのか。

いろは歌は、そこまでは教えてくれません。
読む人が自分の人生で続きを考えるしかない。私はそう思っています。

会社を離れた今、私もその続きをどう書くのかを考えるようになりました。

年表を「自分の年齢」で切る

以前は、歴史上の人物の年表を見ても「何歳で亡くなったか」をさっと確認する程度でした。

今は「私と同じ40歳のとき、この人は何をしていたのか」という視点で見てしまいます。

偉人と呼ばれる人々の道のりも、決して順風満帆ではなかった気がします。

日清食品の創業者、安藤百福が信用組合の破綻で無一文になったのは47歳です。スティーブ・ジョブズが自ら立ち上げたAppleを追放され、苦境を経て復帰を果たしたのは42歳でした。カーネル・サンダースに至っては、事業の失敗や火災を経て、60代半ばからKFCのフランチャイズ展開に本格的に踏み出しています。

40歳なんて、まだ序章なのかもしれませんね(笑)

ポスター1枚の人生

人生は短いです。自身の体調よりも、親の老いや同世代の友人の変化を見たとき。そういうときに有限性をより実感します。

古代ローマの哲学者セネカは著書『生の短さについて』でこう指摘しています。

人生は短いのではない。我々が多くの時間を浪費しているから、短く感じるのだ

セネカ『生の短さについて』

時間は十分に与えられているのに、自らそれを手放しているという警鐘です。これは時間に限らず、お金との向き合い方にも同じことが言えます。

ベストセラーになった『DIE WITH ZERO』が説くのも、まさにこの点です。

時間もお金も、限りある資源をどう「今を生きるため」に変換するかが問われているのだと思います。この考えには、私も大いに賛成です。

さらに欲張るなら、ここに「後悔もゼロで終える」というルールを加えたいと思っています。

もちろん後悔を一つもしない人生などありません。
その瞬間には悔やむことがあっても、最後に振り返ったとき、それも自分にとって必要な糧だったと思えること。

私にとっての「後悔ゼロ」とは、たぶんそういう意味です。

いつか本当にそんなふうに人生を全うできたらという、自分へのささやかな期待を込めて。

偉大な人物の生涯であっても、年表にすればポスター1枚に収まるほど、人生は短いものです。

もし手渡された紙がその1枚きりなら、黒いインクで事実だけを几帳面に書き連ねる必要はありません。

時間を浪費せず、資産も後悔も残さない。
事実の羅列ではなく、経験で多彩に塗りつぶす。

私は、そういう一枚にしたいです。

少し余談ですが、私のペンネーム「芽芽斗 守(めめと・まもる)」の元は「メメント・モリ」というラテン語の言葉です。

死を想え
自分がいつか必ず死ぬことを忘れるな」。

忘れがちな感覚を思い出すために、この名を借りました。

儚さに、少しだけ抗う。

有為の奥山を遊び尽くしながら、そういう時間の使い方をしていきたいと思っています。

ちなみにこの記事を書き終えたところで、息子が「今日はぼくの日だ!」と叫びながら起きてきました。こどもの日です。

兜を頭に乗せた息子と過ごす今日は、私の人生年表に文字では残らないかもしれませんが、きっと塗りつぶす色の一つになるような気がします。

最後まで読んでくださった方、ありがとうございました。もし少しでも何か感じるものがあったら、スキを押してもらえると嬉しいです。