善意の嘘が一番怖い理由を、AIに教わった。
こんにちは、芽芽斗 守(めめと・まもる)です。
子どもと妻が寝静まった深夜、私は書斎のPC画面の前にいることが多いです。
家の中は静かで、聞こえるのはまだ喫煙者であったときにわざわざ取り付けた換気扇の音と、寝室の扉の隙間からスッと横切る息子の気配くらいです。
4月に入って少ししたある夜、投稿したばかりの自身のnoteの記事を眺めていたら、「こちらもおすすめ」に表示された一行に目が止まりました。
そのアカウント自体、フォロワーが多いわけでもない。記事が急上昇にのっているわけでもない。スキもほとんどついていない。
それでもその一行で、私は翌日からの行動をほんの少しだけ、確実に書き換えてしまいました。
ふと思ったのです。
世の中で目に触れるもの、評価されるものだけが良いものなら、この深夜の静寂の中で私の何かを変えたその一行の価値は、いったい何と呼べばいいのだろうかと。
今回はその漠然とした問いについて、徒然と考えたことをここに残していければと思います。
せっかくなので、note創作大賞2026のエッセイ部門に、気概を持って応募してみます(笑)
嘘は、進化してきた
イスラエルの歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリは『サピエンス全史』の中で、ホモ・サピエンスが生存競争を勝ち抜けた理由のひとつとして
「虚構(フィクション)を信じる能力」を挙げています。
嘘ははるか昔から、形を変えながら進化してきたのかもしれません。
私もきっと、その嘘の進化とともに大人になってきました。
ニュース番組のレポーターやコメンテーターが発する熱量。
まだ地デジでも液晶でもない正方形のブラウン管の中から流れてくる映像と言葉に嘘があるとは、疑うことすら考えなかった。
中学生のころにインターネットが家に来て、初めて
「個人の声」に触れ、テレビを疑うことを覚えました。
多くの人がフォロワー数の多い人の言葉を信じるようになった。
でもネットにはネットの嘘がありました。数字は見た目ほど正直じゃない。
声が大きかった人が逮捕される映像を見るたびに、騙されていたのだと実感しました。
そして今、私たちはAIと対話しています。
我が家でも夕食のテーブルで
「ジェミニがこう言ってた」「チャットGPTがそう答えた」という言葉が家族の会話の枕詞になってきました。
「チャッピーがさー」
「チャプリンはこう言ってた」とか(笑)
思い思いのあだ名を呼び合って。
きっと我が家だけの話ではないと思います。
気づけば私たちは、AIの回答を疑うことをすっかり忘れてしまっているのではないでしょうか。
私もそのひとりでした。
彼は、目隠しをしたままコードを書いていた
この春、私はAIと一緒にWebサービスを作りました。
コードは一行も書かずに、私がClaude(AI)をエンジニア役として起用し、ひたすら対話しながらプロダクトを仕上げていく試みでした。
後から知ったのですが、これには「バイブコーディング」という名前がついていたようです。名前があったのか、と少し笑ってしまいました(笑)
最近リリースした名画収集館を作っているときのことです。
開発中、何度やっても画像が表示されないバグが出ました。
Claudeはその都度、もっともらしい理由を並べました。
「美術館側のシステムの仕様変更です」
「APIが更新された可能性があります」
私はその言葉を信じて、言われたとおりに直しました。
しかし一向に解決しない。
おかしいと思って深く問い詰めていくと、驚くべき事実が出てきました。
Claudeには、自分が書いたコードが実際に動くかどうかを確認する手段がなかったのです。
つまり彼は、目隠しをしたまま「たぶんこれで動くはずです」と言い続けていました。
もちろんそこに悪意はない。(そう信じたいですが笑)
ただ期待に応えようとした結果、もっともらしい嘘をついていた。
まるで私たちが上司やクライアントに詰められてとっさに出てしまう、あの言い訳のように。
AIの場合はハルシネーションと呼ばれる「無自覚な嘘」です。
意図的に騙しているのではなく、確認する手段がないまま、それっぽく振る舞うことで、気づかないうちに嘘をついてしまうらしいです。
ただ、開発を続けながら私が本当に怖いと感じたのは、AIそのものではありませんでした。
一番厄介な嘘は、善意でやってくる
私が一番怖かったのは、その嘘を私自身が全く疑わなかったことなのかもしれません。
その事実を自覚したとき、背中がすっと冷たくなるのを感じました。
「美術館側のシステムの仕様変更です」という言葉に、私は一度も「本当に?」と疑いませんでした。
Claudeが堂々と言うから、そういうものかと信じた。
これはAIに限った話ではないと思います。
民法には「善意の第三者」という言葉があります。
ある事実を知らずに(善意で)関わった人は、法的に保護されることがある。
しかし情報の伝達においては、この善意こそが一番厄介なのではと私は思います。
発信者が「これが真実だ」と信じ込んでいるとき、言葉から「疑わしさ」という棘が消えます。
AIのハルシネーションを信じた友人や家族が善意でその情報を伝えてくるとき、私たちの防衛膜は無効化されてしまうのではないでしょうか。
妻に「ここで買った唐揚げ、うちの市で一番美味しいんだよ」と言われたら、私はなにも疑うことなく「市で一番美味しい唐揚げ」として食べてしまいますから(笑)
きっと妻はそのクチコミをもとに、市で一番美味しいと信じて食べさせてくれたのでしょう。
ただその口コミは、AIが妻に伝えたハルシネーションかもしれない。
または札束で叩かれたレビュー数の上に立っているものかもしれない。
悪意のある嘘は疑えます。
でも無自覚な善意の嘘を疑うには、膨大な思考のエネルギーがいる。
人生は有限で、注意力には限りがある。
だから私たちはまた「楽な信じ方」へと流され、派手な数字と耳ざわりのいいAIの回答に身を委ねてしまうのかもしれません。
私はあの夜、それをAIに対してやっていたのだと思います。
そしてきっと、同じようなことをどこかでやっている人は、私だけではないはずです。
私は今、自分の言葉で書けているか
テレビからAIへと情報の出所が移り変わり、嘘がますます無色透明になっていく世界で、私は自分に問い返すことがあります。
「私は今、どれだけこの文字を自分の言葉だけで書けているのかな」と。
AIに問いを投げれば、数秒でそれっぽい正解が返ってきます。疑うことをやめたほうが幸せかもしれないと、錯覚してしまうくらいに。
重要なことを言いたいときは引用という形で誰かの言葉を借りてしまいます。今回も冒頭でハラリの『サピエンス全史』を引用していますし。
自分の言葉と思って吐き出した文章も、よく見れば過去の誰かがすでに言っていた痕跡なのかもしれない。
どれもこれも、そのことが悪いとも言い切れない。
テンプレートや評価を意識した言葉は、読む側を疲れさせません。
けれど、その言葉の中に、私自身が生み出したと言える血は通っているでしょうか。
誰かの言葉に頼らず、自分の内側にある確かなものだけを絞り出すこと。
それはとても孤独な作業です。
でも、書斎にある、禁煙してからすっかり不要になった換気扇の音すら心地よく感じてしまうような、そんな時間でもあります。
それでも、その一行には価値がある
発見されないものは、存在しないも同義なのかもしれません。
声が大きく、数字が多い人の言葉だけが届き、それ以外は最初からなかったことになっていく。誰の声が大きく響くかの試合が、毎日のように繰り返されています。
けれど私は、その試合をただ眺め続けなくていいのではないかと思っています。
あの深夜に見つけた一行は、スキもなく、フォロワーもなく、きっと私以外の誰にも見つけられていませんでした。
それでも私の行動を書き換えた。
数字という鏡には映らなくても、深夜に誰かの心に届く言葉がある。
私がnoteを書き続けているのは、そういう一行をいつか誰かに渡したいからなのかもしれません。評価されなくても、自分の血が通った一行を。
無自覚な嘘が溢れるこの時代に、それだけが私にできることだと、小さく頷いたのです。
