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【創作記録】世界でいちばん美しい告白

こんにちは。芽芽斗 守(めめと・まもる)です。
心身を整える日々の中で
昨年の夏から小説を書き始めました。
新人賞にも挑戦しており、
『星新一賞』をはじめ複数の賞に応募しています。
先日、星新一賞の選考結果が発表されましたが、
私の名前はありませんでした。潔く、落選です。

小説を書き始めたばかりのタイミングで書いた作品で、今読み返すと拙い部分も多いのですが、
このまま誰にも読まれずに成仏させてしまうのは淋しいので、せっかくなのでここで公開させていただきます。

数学の美しさと、青春の淡い初恋が交わる短編にしてみました。
読んでいただき、感想をいただけるとすごく励みになります。

世界でいちばん美しい告白

ヌースは二度目の大学生である。一度目はいささか生き急いだ感が否めなかったので、今回の目的ははっきりしていた。今度こそ同学年と同じ速度で青春を楽しむことである。この大学を選んだ理由は二つだ。一つ目は、祖母の暮らす母の実家から歩いて通えること。二つ目は、入ってしまえば案外遊んで卒業できると聞いたからだ。昼になると祖母の家の縁側に麦茶の匂いが漂い、廊下は歩くたび古い木が軋んだ。駅から大学までの道には桜が並び、春には景色を桃色に満たした。そうした変化にまぎれて、彼はもう一度はじめからやり直すことにした。

ただし入学したときに、誤算もあった。遊ぶための種銭がない。そのあたり母の実家が用立てしてくれると踏んでいたのだが、仕事も学問も研鑽を積んでこそ一人前の男であると祖母は味噌汁の湯気の向こうから淡々と諭した。

ヌースは少々癖のある性格で、学友に誘われてアルバイトに勤しんではみたがどの職も長くは続かなかった。コンビニでは棚の陳列の最適化を提案して店長を怒らせ、家庭教師ではカリキュラムを一晩で作り直して保護者を慌てさせ、引っ越し現場では費用対効果の悪さを説いて依頼主の耳をくたびれさせた。本人は続ける意向をいつも示していたが、先方から丁重にさようならを告げられるのが常だった。

そこで彼は小銭稼ぎの相談屋を始めた。彼は数学に強かったらしいという噂が広まり、課題のたびに「解を用意してほしい」という依頼が来た。彼の書いた解は美しく教授は満点を与えた。料金は一回一万円だった。少々値は張ったが、インターネットで答えを探せば一発退場という学則の下ではリスクを考えると割安だと評判になった。蜘蛛の巣のように張り巡らされた講義群から必要だけを拾い、時間割の組み替えの依頼も増えた。最短で効率よく単位が取れるとして好評を呼び、履修の調整、課題の割り振り、実験室の備品表の更新まで、なんでも請け負うようになった。ときには解そのものも書いたが、彼が本当に売っていたのは解き筋であり選べるように並べ直した道筋であった。

相談屋には日々、小さな火種が届いた。寮の共同冷蔵庫の取り違えには棚を色で分け、住人ごとに同色のクリップを配った。各自は自分の色の棚に置き、食品にも同じ色のクリップを挟んだ。誰のものがどこにあるか一目でわかり争いは止んだ。ゼミの小旅行の割り勘が難儀だと相談されると、その場で即席のスマホアプリを作ってみせた。必要事項を入れるだけで各自の負担額が一瞬で出た。
「皆さんは物事を複雑にしすぎです。解は意外にシンプルなことが多いのですよ」彼はそう言った。彼にとってシンプルとは、乱暴に切り捨てることではなかった。余計をそぎ落とし残った芯を誰にでも見えるところへ置くことだった。

大学では母方の姓を名乗っているため周囲は気づかない。世界では、彼の本名がいまも時おり風のように噂にまぎれて流れる。ほんの十数年前、彼にメディアがつけた呼び名は『今世紀最高の天才少年』であった。事実として、彼は六歳で大学に入り、十歳で世界的な名門大学で博士号を取得し、さらに人類未解決の難問を解いてしまった。小さな体で大人の机に座り歴史的な問題を次々に平らにしていく姿は、分かりやすい見出しとなって世界を巡った。取材のライトは熱く、背中の椅子はいつも彼には少し高すぎた。

博士課程のあと、彼は合衆国が管轄する施設に入った。窓のない部屋で定義された「役に立つ」問題だけを淡々と解いた。暮らしは規則正しく、一日中数字と向き合う仕事は彼の肌に合った。そんな天才でもただ一つだけ、やり残したことがあった。同学年と同じ速度で青春というものを噛みしめることである。もっと平たく言えば恋愛をしてみたかった。彼は他の少年たちと平等に思春期がきたのである。ある時、彼は大きな難題を片づけ、その対価として四年の自由を得た。手柄は当局名義、行き先は日本。彼はそれでよかった。

再び大学生に戻った彼は、大学生らしい大学生活に努めた。授業には遅刻もし、居眠りもし、学食で食券を買いに並んだ。名物のカレーを求める列は、いつ来ても長かった。本名を隠しているため教授も学生も、彼がむかしの天才少年だとは気づいていない。彼はそのほうがよいと考えている。自由には条件がついていた。四年が過ぎればもとの施設に戻る。合衆国は最高の才を手放す気はないのだろう。

季節は過ぎて、彼は大学三年を迎えようとしていた。かつての天才少年は二十歳になった。立派な青年だ。勝ち取った青春の期限は、もうあまり長くない。

大学では年相応のふるまいに苦労した。サークルに入ったものの異性に返す言葉が見つからない。知能指数がかけ離れた学友との雑談は長く続かない。なんとかそんな状況を打破しようと大学の図書館に出向くものの、期待していた取扱説明書は見つからない。カウンターの職員は親切だが恋愛の棚はどこかとたずねられても、きっと困るだろう。結果として、彼女いない歴は年齢と同じだった。この点について彼は深く悩まないと決めた。悩むと青春の速度が落ちるからである。彼は、手をつないでキャンパスを歩く恋人たちのように、いつか自分の時間も誰かの時間と同じ歩幅で進めるようになりたいと、心の底でだけ願っていた。

種銭がないとき、いまも時おり連絡を取る当局の知り合いから精子バンクへの登録を勧められた。小遣い稼ぎになるという。だが、女性経験もないまま自分の子どもだけがどこかで増える状況は彼の常識からしてもおかしい。彼は丁重に断った。彼の種には引く手あまたで申し込みが殺到する一方、生身の自分にはなぜ女性の縁がないのか。彼は学友にも聞こえる声量でつぶやいた。
「なるほど、これはパラドックスですね」
窓のない部屋で暮らしていた癖で声量の調整がいささか苦手である。
廊下ではささやきが流れた。
「また何か言い出したよ。ヌース先輩は見た目はいいのに、変だよね」
「付き合ったら不幸になるタイプだと思う」
その声は彼には届かなかった。誰にでも聞こえる声で素数を数えながら、彼は大学のアドレスで相談屋の受信箱を開いた。通学の順路、買い物の順番、課題の配分、夕食の品を何から食べて何を最後に残すか。人の生活には秩序がいる。当局ではどんなことでも数字にした。いまは数字にしない秩序を並べる練習をしている。

そんな彼も、夜、横になっても眠れないことがあった。昔の移動で何度も乗った船の匂いを思い出したからだ。彼は飛行機が好きではなかった。確率の話を始めると長くなるので誰にも言わなかったが可能なら海を選んだ。
潮の匂い。甲板の風。短い航路のあいだに並んだ横顔。誰かが笑い、誰かがうなずいた。思い出は色褪せず、言葉は短く、終わり方だけがきれいに残った。記憶はいつもそこで切れた。切れた先には、汽笛の音がいつも置かれていた。

ある昼さがり、いつものように機嫌よく素数を数えながら、大学のアドレスで運営する相談屋の受信箱を開いた。新しい依頼が一通。差出人は当局のアルス所長だった。ヌースにとってアルス所長は合衆国での親代わりといえる存在で、その声の温度だけで遠い部屋の匂いを思い出すほどだった。

所長が大学のアドレスを知っているのも不思議ではなかった。日本の実家に着いて玄関をまたいだ瞬間、電話が鳴ったのだ。
「無事に着いて何よりだよ」第一声はそれだけだった。所長は期日を守る。連絡はいつも一行。
「午後一時、大学正門前の喫茶店で待つ」

レトロな喫茶店に、場違いな英国紳士のような装いの男が珈琲の匂いの中で平然と座っていた。グラスの氷が小さく音を立て、窓枠に切り取られた日差しがテーブルの端に四角く射している。ヌースが入ると所長は手を軽く上げて促した。
「進学は順調かね」
「遅刻は減りました。単位もそこそこ取れています」
「それは良い。ところで、君はこの大学で何を学んでいるのだね」
アルス所長は窓の外の大学正門に目をやりながらたずねた。
「もちろん、数学です」
所長は首をかしげた。
「君は世界最高峰の大学で数学の博士号を取っているではないか。なぜまた数学を選んだのだね」
「数学以外に学ぶものはありません」
「なるほど。君はそうだったね。よく分かった」

しばし世間話ののち、所長はテーブルにタブレット端末を置いた。画面の白い光が所長の顔色をわずかに冷たく見せた。
「では、本題をはじめるとしよう」
画面には若い女性の顔が映った。世界でいちばん美しい顔に三年連続で選ばれ、多くのメディアを通じて誰もが見覚えのある横顔だ。
名はマドモ・アゼル。二十歳で、歌でも映画でも賞を重ねる人だ。長く伸びた髪は光をはじき、大きな黒い瞳は吸い込まれそうだった。ヌースはためらいなく言った。
「この美しい方はどなたでしょうか」
所長は一瞬、目を見開き、それから小さく笑った。
「君にはいつも驚かされますよ。ヌースくん」

続いて、端末の動画が再生された。彼女は透き通る声で告げた。
「期間は三か月だけ。私は待つのが苦手なのです。成人を迎えた独身の紳士限定です。私に世界でいちばん美しい言葉で告白してくれた人に、私のすべてを捧げます」
たった数分の動画であったが再生数は十億を超えていた。ヌースは数字欄だけに目を細めた。
「到達率の推定誤差は……」と言いかけたところで所長が再生を止めた。「それ以外に、言うことは無いのかね。ヌースくん」
「それ以外は彼女自身が説明しています。しいていうなら、期間は三か月ということですよね」
「いや、これを彼女が告げたのは三か月前だよ」
「なるほど、というと、残りの期間は」
「あと三日だよ」所長は指を三本立てた。
「なるほど。解を証明するには、ちょうどいい時間ですね」
「参考までに。応募は数万人、通過は数百人。いまのところ全滅だよ」
「ヌースくん。この世界一の難問に挑んでみないか。ちなみに当局とは関係なく、私個人の相談だ」
「またですか。前もそういう口調で、世界一の難問と諭され、解かされました。所長と話すとパラドックスを感じます」
「解けたら私の権限で自由を一年延長しよう。君も学生生活が折り返し地点に入り、少しそわそわしているのではないか」
ヌースは少し考えた。
「三年はどうでしょう」彼は交渉を学びつつあった。所長はうなずいた。「よいだろう。三年だ。喜び給え。これで君は修士号も取得でき、さらに一年のお釣りが来る」
「修士号って、いまさら必要でしょうか」
「いまの君は当局で留学扱いだ。そう書かないと延長申請は通らないのだよ」
「わかりました。問題に挑むことは決まりましたが、ぼくはいまから書類選考かと思います。間に合いますか」
「段取りはこっちで持つ。三日後の生放送に君を置く。君は言葉だけ用意すればいい」所長は短く区切った。
「なぜそれが叶うのかも含めて、解を導き出しなさい」
声を落として締めた。

このとき既に所長は番組に「告白直後から拍手までの静けさを測る」小さな実験枠を持ち込んでいた。礼儀の名目で、客席には
「告白直後は一拍置いてください」と周知された。
彼に青春をもう少し渡す口実をつくるためでもあった。

番組はこの無音を独自指標「Mu(ミュー)」と名づけ、声が止んでから拍手が立ち上がるまでを秒で測る。告白中はBGMも効果音も切り、生放送でうそのない静けさだけを拾う。長い告白は無音を途切れさせ、短く言い切った言葉だけが同じ間を生む。合図のない合奏が同時に止む一拍の静けさに似ていた。名は所長が付けた。無音の「無」と平均を示す記号μ、さらに mute の頭二文字を掛けてある。所長は匿名で出資もしていた。過去の挑戦者のMuは四秒台が天井だった。

「所長さん、日本に来てるんだね。さっき挨拶に寄ってくれたよ。久しぶりに会ってどうだった?」
「特に。変わらずです。彼とぼくの関係は差し引きゼロといったところでしょうか」朝と夕餉はいつも祖母と一緒だ。今日も味噌汁の湯気がゆっくり揺れた。祖母は言った。
「あんたは思考と口が同時に出るみたいだね。言葉はね、ときに刃にもなる。だから言い切る前に、少し間を置きなさい」
「いい言葉ほど、相手が言い終えたあとにも余韻として残るんだよ」
彼はうなずき、台所の柱時計の秒針で一拍を測った。
「いまのは、良い言葉として判断します」
扉の向こうで風鈴が鳴った。祖母は小さく笑った。
「やれやれ、所長さんにもこの話を伝えておこうかね」

一拍の重みだけが胸に残った。
部屋に戻ると、古い黒板に一行の数式が残っていた。

「イーのアイパイたすいちはゼロ(e^{i\pi}+1=0)」

無数に散らばる刻み違いの鍵と鍵穴が、偶然ではなく必然でぴたりと噛み合い抵抗なく静かに回る。一行の数の言葉でそれを示せるから美しい。

今回の課題は生放送の一発勝負。しかも三日後である。
ヌースは椅子を引き、机の角を四度たたいた。思考に入る合図だ。

思考に沈む。前提はひとつ。世界でいちばん美しい言葉で告白すること。
世界一というのは主観だ。誰もが納得する世界一ではなく彼女にとっての世界一。美しい言葉は短く、うそがないと彼は信じる。聞き終えたあと、静けさだけが残り、余韻が生まれる。それを「美しい」の基準にして、さらに沈む。三日前、偶然か意図か彼は呼ばれた。おそらく後者。所長の言葉がよみがえる。
「段取りはこっちで持つ。三日後の生放送に君を置く。君は言葉だけ用意すればいい」
彼はつぶやいた。
「そうか。ぼくは何かしらの解を持っている。女性と縁がないのに」
そう仮定して手を止めた。そうだとすれば情報が足りない。

彼はマドモ・アゼルを調べた。数万人の群衆の歓声の中で歌う動画が並ぶ。いくつか再生し、さらに遡ると古い一本に行き当たった。十代前半の彼女が港を背に、小さな舞台でフォークソングを素朴に歌っている。風に混ざって、声は澄んでいた。

マイクに彼女の唇が近づき、息が触れた瞬間、さっきまで場を満たしていたざわめきがすっと引いた。彼女の声は空気に溶けず一滴の水のように芯を保って震えた。拍子にはきちんと乗るのに等間隔では刻まない。二つにも三つにもきれいに割れないまま、まっすぐ耳に届く。その割り切れなさが、かえって澄んで彼には聞こえた。港の空は薄い雲を透かし、遠くの汽笛が少し遅れて追いかけてきた。

「美しいですね。まるで素数のようだ」
ヌースは小さく言った。
無理に割らない潔さが、静かな余韻として胸に残った。

歌が終わった。港のざわめきと風の音が一瞬だけ互いを打ち消し、残りがゼロになったように感じた。うそのない終わり方だった。もやに覆われていた横顔が像を結ぶ。短い航路の午後が、まるごと戻ってくる。潮の匂い。甲板の風。ロープの擦れる音。あのときも彼女はフォークソングを歌っていた。少女は音楽の話をし、少年は空を見て数の話をした。記憶はそこで止まり、汽笛の音だけが置かれていた。

当日のリハーサル。音響の係がマイクを渡した。
「では、声をお願いします」
ヌースは口を近づけた。「二、三、五、七、十一」係は首をかしげた。
「数字が飛んでますよ」
「一は素数ではありません」
係は楽しそうに笑いつまみを回した。
「はい、十分に出ています」
背面の小さな数字が一度だけ点滅し、Muは0.00で待機に入った。
係は親指を立てた。

スタッフは、目の前の大学生がかつて『天才少年』と呼ばれた人物だと知っている。だからこの手の妙な癖も、天才ゆえの流儀として受け止められた。廊下には黒いケーブルがゆるく伸び、床は白い照明でむらなく明るい。

本番。会場は広い。客席がいったんざわめき、すぐ静まった。背後の幕には薄く「世界でいちばん美しい告白」の文字。司会が台本を閉じる。
「本日は一発勝負、いよいよ最終回です。これまで、『世界でいちばん美しい顔』と謳われた俳優、若き大富豪、各賞を総なめにする映画監督、トップアスリートまで、名だたる紳士たちが挑み、ことごとく散っていきました。では本日の特別招待枠の挑戦者を紹介します。覚えていらっしゃいますか。
『今世紀最高の頭脳を持つ』ヌースさんです。さて、この難問も、天才は解いてしまうのでしょうか」

ヌースは観客ではなく、ただ一人を見た。
マドモ・アゼルに体の向きを合わせ、マイクを少し下げる。
彼女は光の輪の真ん中にいて、ドレスの布が呼吸に合わせて静かに揺れた。

「マドモ・アゼル」
「皆があなたの出した問いに注目しすぎていました。あなたが求めていたのは、問いではなく解だったのですね」

「告白は一行で」
「イーのアイパイたすいちはゼロ」
「マドモ・アゼル。あなたの求める解は、ぼくでいいですか」

会場は息を呑んだ。余韻は長く、十分だった。彼女はまっすぐに彼を見た。目からきれいな涙が流れ、声は小さかった。

「はい。私の解はあなたです」

背面の数字は滑り、Muは5.00で張りついた。

「ブラボー」「おめでとう」「お幸せに」。拍手は少し遅れて膨らみ、一度高まってから、ゆるやかに引いた。場内は一拍、音が消え、空気は元の温度に戻る。甲板のあの午後を思わせる間に、袖の奥で誰かが深く息を吐き、照明の熱が、ほんの少し和らいだ。

彼が舞台に立った瞬間、彼女の瞳に解がすでに宿っていると悟った。だからその解を奪わぬよう、ひと言だけ選び一輪の花を手渡すように差し出した。余韻が場を満たすなか、彼はやっと同い年の列に歩調が合い、歩き出せると感じた。

放送が終わると、アルス所長から短い連絡が来た。
「三年の自由は約束どおりだ。書類に記しておく。青春を楽しみ給え」
通話はそこで切れた。延長の書類の提出者欄は「当局」ではなく所長の私名義だった。

二人でスタジオを出た。夜風に触れると、夢見心地のまま頭のどこかが冷え、さっきの自分の台詞を思い出して頬がわずかに熱くなる。そんな彼の気持ちを知ってか知らずか、彼女はやさしく手を取った。指先から伝わる体温が、現実の位置をそっと示す。証明は終わり、解は彼女が選んだ。二にも三にも割れない素数のようなその声と瞳に、いつのまにか彼も惹かれていた。歩くたび、その体温は途切れず、二人の歩幅は自然に揃った。

彼の目線での物語はここで終え、ここから先は、彼女の物語である。

マドモ・アゼルは海で育った。両親は小さな旅客船の乗組員。決して裕福ではなく、物心つくころから生活のため甲板で歌い、小銭を受け取った。白い航跡。潮の匂い。生活の調子はいつも一定だった。朝はカモメの声が目覚まし代わりとなり、昼は乗組員の掛け声がどこからともなく重なり、夜は星空が静かに船を包んだ。

短い航路の午後、客の一人が隣に立った。小さな体で、空を楽しそうに見ていた。同年代は航路ごとに一定数いたが、彼はどこか違っていた。ふと思い出したようにノートを開きうれしそうに何かを書きはじめる。鉛筆の先は減り、ページの角は折れていた。

「ねえ、何を書いているの?」
彼女はたまらず聞いた。少年は顔を上げ、うれしそうに言った。

「世界でいちばん美しい言葉を書いているのです。『イーのアイパイたすいちはゼロ』って知ってるかい。世界でいちばん美しい数式なんだよ」

彼女は首をかしげた。

「君の好きな音楽でたとえるとね」と少年は続けた。
「ロックもジャズもフォークも、みんな勝手に鳴っているのに、合図もないまま、同じところでストンと終わる。気持ちよくて、余韻だけが残る、うそのない終わり方だよ」

「指揮者もいないのに、どうして同じタイミングで終われるの?」

「すごいだろ? それが数式ってものさ。ぼくは、いつか自分の手で、世界でいちばん美しい数式を書きたいんだ」

波が船腹を二度打ち、遠くでカモメが短く鳴いた。彼は笑って、空を見た。

それだけの会話だった。けれど、終わり方がきれいだった。名前は聞きそびれた。ただその少年の笑顔を思い出すたび胸が熱くなった。初恋だと気づくのは、少し先になってからである。

ほどなくして、彼女の生活は一変した。港の小さなステージで歌ったフォークソングの短い動画が拡散したのだ。舞台も画面も増え、歌は遠くへ届いた。楽屋の鏡は明るく、花はいつも新しく、移動の夜は長い。けれど記憶の中でいちばん長いのは、甲板で彼と言葉を交わしたあの一日だった。終わり方がきれいだった日だけは、色褪せない。初恋は、色褪せず続いていた。

あの人にもう一度会う方法を考えた。彼が誰かは、テレビの特集で見た
「天才少年」の姿で知っている。連絡を取る手段はいくつもある。だが、それでは意味がない。

彼女は別の道を選んだ。気づいてもらう道である。ワンクールのテレビ番組。期限は三か月。商品は私。挑戦は一発勝負、参加資格は成人の独身紳士のみ。計測する数字は参考にすぎず最終判断は自分が負う。彼女の提案にスタッフは首をかしげたが、彼女は笑って言った。
「うそのない終わり方にしたいのです」
スタッフはしばらく黙り、それからうなずいた。

番組が始まる。冒頭、カメラの前で彼女は宣言した。
「期間は三か月だけ。私は待つのが苦手なのです」

その夜、海の向こうで誰かがその動画を見た。別の日には教室の後ろで、また別の日にはレトロな喫茶店で。コメントは増え、賛否が混ざり夜ごと熱は高まっていく。彼女は画面を閉じ、窓を開けた。潮の匂いがわずかに入った。

必然か、誰かの段取りか彼は番組の最後の最後に呼ばれた。彼は言った。

「イーのアイパイたすいちはゼロ」

甲板で一度だけ聞いた、一行のことば。彼女はそれを忘れなかった。彼はその一行を自分の告白の核に置いた。

この告白は、彼ひとりの言葉だけでは成り立たない。彼はこれまで答えを置かず道筋だけを整えることで火種を鎮めてきた。

最後の一歩は、解を選ぶ彼女に託す。
彼女にとっての解が彼かどうか、その証明は彼女の返事に委ねられている。彼は自分が信じる「世界でいちばん美しい言葉」を手前に置き、
その証明を待つ。言葉と返事がそろったとき、彼女にとっての
「世界でいちばん美しい告白」は完成する。

「マドモ・アゼル。あなたの求める解は、ぼくでいいですか」
彼女は答えた。「はい。私の解はあなたです」

あのとき船で交わした会話の終わり方に似ていた。
合図もないのに、同じところで、ストンと終わる。

ふたりの物語は、互いに相手の余白を残したまま同じ静けさに着地した。
この実験結果を受け、合衆国はMuを公的指標に採用した。
根拠には当夜の計測ログと所長が黙って撮った一枚の写真があった。

この美は偶然ではない。彼女は念入りに舞台を用意し、賭けに出て勝った。彼女にとって世界は合成の和音だった。その中でヌースだけが単音で立っていた。彼女はその単音を「解」とした。割れば割るほど形を失うものが多い中で、彼だけは二でも三でも割れない素数のまままっすぐに響いていた。

そして、想い人が想像を超える奇人だと彼女はこれから知る。〈了〉

最後に

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

『星新一賞』の結果は残念でしたが、
この物語を誰かに読んでもらえたことで、
ようやくこの作品の「証明」が終わったような気がします。

他の賞の挑戦結果についても、
また適切なタイミングでお話しさせてください。
もし何かを感じていただけたなら、スキやコメントでそっと教えていただけると、今の私にとって大きな大きな救いになります。

まだ時間があるよ、という方は、他の記事も覗いてみてください。

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