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質問箱への回答㉗『運命における学びとは?(未来から考える)』

※6月28日 記事のタイトルをちょっと変えました。

このあいだ母がテレビで観たか人から聞いてきたかで、羊羹にきな粉を掛けて食べると美味しいらしいというので一緒に試してみたんですが、たしかに美味しかったです😋 不思議なんですが、羊羹なのにわらび餅を食べているような気がしました。ちょっとなにを言っているか分からないかもしれませんが、みなさんもぜひ試してみてください。

さて、またご質問をいただきました。

ご質問の内容はこの通りです。学びやなにかを練習してできるようになることについて、辞書に書いてあるような答えを求められているのではないようですが、正直いうともうすこし情報が欲しいところです。もちろん、これだけでもお答えすることはできますが、質問者さんが聞きたかった話をわたしがするとは限りませんからね。

こういう場合、「わたしはこう思っている(考えている)のだが、どうだろうか?」というような感じにしてもらえると質問としての精度が上がるかもしれません。今回は、後半に「自由意志はない」ということに触れられているので、それと絡めたことを書いてみたいと思います。

それではさっそくはじめましょう。

おそらくですが、質問者さんをはじめ、これをお読みのみなさんはいわゆる探求者である可能性が高いと思います。なかには非二元を学んでいる人もいれば、わたしが勧めてもいるホーキンズ博士の意識のスケールを学んでいる人もいるでしょう。あるいは奇跡講座の学習者もいるかもしれません。ここではみなさんそれぞれ、なんらかの教えを学んでいることとしましょう。

みなさんはなぜ学んでいるのですか? 人によって答えはさまざまかもしれません。目的としては悟りたい、生きるうえでの苦しみから開放されたい、あるいは愛の意味を知りたい、などなど、まあこれらは結局のところではどれもおなじものを目指しているのですが、そんなところではないでしょうか。あるいは、単に知的好奇心から学んでいるだけだ、という人もいるかもしれません。

さて、これらは確かに目的といえば目的なのですが、これらの目的で学ぶことによって実際にみなさんが期待しているのは、一言でいえば「変わること」です。もうすこし具体的にいうと、「いまの自分とは違う自分へと変わること」です。

ジュニャーナ(智慧の道)を行く人は真理についての教えを知識として学び、それを腑に落とすことによって真理を知覚できるひと(覚者)へと変わりたいと思っています。意識レベルを学んでいる人はそれによって自らの意識レベルを「今よりも高く」変えたいと願っているはずです。

みなさんの顕在意識が望んでいる変化とはそのような具体的なものになるはずです。もちろん、それでなにも問題ありません。

しかしながら霊的な観点でいえば、みなさんが実際に望んでいるのは「可能性の変化」です。そもそも自分というものは幻想です。この世界から分離独立した個人などいません。ですから、いまの自分という観念も、その自分がいまとは違う自分へと変わるという観念も、ただの観念でしかありません。

自由意志がないということに触れられていましたが、ここであらためてこれまでとはすこし違った観点から述べると、自由とは他のなににも依存しない、影響や制約を受けないということです。つまり、ほかのどんなものからも分離独立した意志のことを自由意志というのですが、エゴが分離独立していないのですから、そのエゴが持っているつもりの意志もまた分離独立していません。つまり、自由ではありません。自由意志のなさについての他の観点からの説明はこれまでの記事をお読みください。

補足すると、人の意志は必ずなんらかの人、モノ、状況といったものから影響や制約を受けざるを得ないから自由意志がないと言っているわけではありません。そうではなく、自由意志がないからこそ、人が持っていると思っている意志はまったく自由なものではないのです。

さて、自由意志がないということからなにが導かれるでしょうか? それは運命です。自由意志があるのであれば、運命は切り開くことができるのでしょうが、切り開けるものであればそれを運命と呼ぶ必要はないでしょう。

人には自由意志はなく、それゆえ人は運命には逆らえません。しかしながら、運命は、例えば運命の書とでもいうべきものがあって、そこに書かれている一字一句のとおり正確に辿らなくてはならないものではありません。人はあらかじめ生まれてくる前に、今度の人生においてなにを経験するか、なにと向き合うか、なにを達成するかといったことを決めていると言われていますが、もしそうであるのなら、それが運命の青写真です。

実際の人生において、なにかを達成する運命なのだとしても、その達成の仕方はある程度まで自由です。自由というより幅があるといったほうがよいかもしれません。あるカルマを克服する運命なら、克服できるまで何度も同じような出来事が人生に起こってくるでしょうが、何度目で克服できるかにも幅が用意されています。こうした幅のなかでなにを選択するかは確かにエゴの自由です。その点で、人には見かけ上の自由意志があると言うことはできますが、それはあくまで見かけ上のものであって、本当の自由意志ではありません。

そもそも、見かけ上の自由意志を行使しているときでさえ、エゴは自分で思考していません。思考はメンタル体を通してコーザル体の意識からやってきます。このことは意識レベル500の上部になると知覚できるようになるのですが、つまり例えば「転職するか、それともこのままいまの職場にいるべきか」という思考はエゴにとっては自由意志による選択の局面ですが、実際には自由意志によって選択しているかのような思考が降りてきているだけなのです。

ですので、いずれにしても自由意志はなく、人は運命に従うしかありません。ただし、ほとんどすべての人は自分の運命を知ることはできませんから、運命が決まっていようがいまいがどうでもよいことですし、自由意志にしてもエゴにとっては自由意志はあるとしか思えないのですから、これもまたどうでもよいことではありますね。

さて、ここで話は戻りますが、人が何かを学ぶのは可能性を変えるためだと述べました。もしあなたが弁護士になる運命なのであれば、弁護士になる可能性を自分自身に付与するためには法律を学ばなくてはならないでしょう。もしあなたがいずれ覚者になる運命なのだとしたら、あなたの人生にはあなたが覚者となる可能性がどこかでもたらされるはずです。それは非二元や意識レベルを学ぶことであるかもしれません。でも、もしかすると、あるとき「呼ばれたような気がして」どこかの神社に行ったらそこで雷に打たれ、突然に覚醒するかもしれません。その場合は、あなたが覚醒する可能性は別のところで用意されていたとみるべきでしょう。

一般的な進学や資格取得のための学びの場合は、それがもたらしてくれる可能性の変化は分かりやすいもので、基本的に努力次第です。しかし、スピリチュアルな学びが望んでいる結果を生み出す可能性をどれだけ高めてくれるかは保証されません。ただ、雷に打たれるというような奇跡的な事象とは違って、それは自分で選択できることですね。もちろん選択といってもそれは見かけ上の選択なのですが、ということは同時に、もしあなたが学ぶのであれば、学ぶことはあなたの運命だということも言えます。

この物質的な世界においては、物事は時間に沿って順序だてて起こります。そして、あることが起きるには、それが起きるために必要な条件を満たしていなければなりません。必要な条件とは言い換えると可能性のことです。つまり、なにかが起きたとしたら、それは起こる可能性があったというわけです。

つまりこういうことです。人がなにかを学ぶのは、運命において起こることになっているなにかが起きる可能性を用意するためです。運命が決まっているということは、未来はすでにあるということです。つまり、いま起きていることの原因は、未来に起きる別のことにあります

あなたが弁護士になる未来が原因となって現在のあなたに法律を学ばせ、あなたが覚醒する未来が原因となって現在のあなたにスピリチュアルな教えを学ばせます。もちろん、先に述べたように学びとはまったく関係なく雷に打たれるかもしれません。ですが、この場合も覚者になるという未来が原因で、現在において雷が落ちるのです。

そして、これは残念なケースですが、あなたの運命が「覚者になりたいと思ってひたすら学んだけれどもなれなかった」というものだったとしたら、あなたの学びは「学んだけどなれなかった」という結果を実現するための可能性を用意する行為であったということになります。

ここまでを読まれて、それでもあなたは学びますか? 先ほども言いましたが、運命を知ることはできません。学んだからといって、実際のところあなたが操作しているのがいったいなにを起こすための可能性なのかは分かりません。ただ言えるのは、あなたの運命に「教えを学んで覚醒する」ことが決まっているのであれば、あなたは学び、学び続けるでしょうということです。

個人的なアドバイスですが、わたしは学び続けることを勧めます。やや辛辣なことを言いますが、わたしがいままで見てきた数多くの探求者で、この人は本当によく学んでいるなあと感心するような人は一人もいません。といっても、みなさん読書家ですし基本的に知能の高い人が多いと思います。でも、言い方はアレですが「探求バカ」のような人は見たことがないです。そして、こういうとなんですが、わたしは探求バカでしたよ。

わたしの場合は探求バカすぎて南の島に🍄を探しに行ったりするほどでしたが、もちろんそんなことばかりではなくホーキンズ博士の本を何度も熟読したり、そのうえで熟考に熟考を重ねたりを日々繰り返しました。わたしがバカと言えるほど探求に没頭したのは、すでに目覚めがはじまってからのことでしたが、それでも、当時のあれだけの学びがなければ、いまこうしてみなさんの質問に答えることは出来なかったと思います。

あたりまえですが、わたしは予言者でも預言者でもありませんから、その当時の自分にはいまの自分の姿は想像もできませんでした。ただ、とにかく知りたい、とにかく真理とやらを直接経験(=知覚)したい、そのためならなんでもやってやる、という思いで日々を生きていました。

その当時のわたしがこの記事を読んだとしても「運命? 知るかそんなもん!」とかっこよく言い捨てて学びを続けたことでしょう。ごめんなさい、かっこよくは余計でした。言いたかったのは、それがカルマ(=運命)だということです。学ぶことの意味を知ることも大切ではありますが、学ぶことになっているのなら学べばよいだけ、と理解することはもっと大切です。

自由意志がないことは受け入れられない人でも、カルマの存在は信じていることが多いです。でもよく考えてみてください。カルマは運命とイコールです。そして運命を信じるということは、自由意志がないことを信じているのと同じことなのです。余談ですが、バクティ(明け渡し)の核心はなにかというとそれは「自由意志の放棄」です。自由意志を明け渡すのがバクティです。実際には、自由意志を持っているというのは幻想であったということを認め、そのていで生きるのがバクティです。

学びについてもそうですが、わたしの人生のほかのことも含めて言えるのは、カルマを突破するには「突き抜ける」「やり切る」しかないということです。すくなくとも、探求者と呼ばれる人々が現代の日本には相当数いますが、その人たちが今後もずっと探求者である可能性は非常に高いです。なぜなら、覚者(意識レベル600)と言わず、500の上部にまで到達できる人でさえ非常に稀で、数万人から数百万人に一人しかいないからです。

これが意味しているのは、学びで可能性を用意するとはいっても、並の努力程度では「学んだけどだめだった」という可能性の方を上げることにしかならないということです。もちろん、運命はいずれかすでに決まってはいますが、結果的に「学んで覚醒した」となる運命の人はおそらくそんな平凡な努力はしないでしょう。そうでなければ、その人は雷に打たれます⚡️。もちろん、雷ルート以外にも例えばヒマラヤの聖者と出会って霊的ななにかを授かるとかいったストーリーもあるかもしれませんが、そんなことを期待するよりは非常識なくらい学びに没頭したほうがよいです。

そして、学ぶうえで最も大切なことは「謙虚に」学ぶことです。学ぶべき教えを選ぶことは慎重になされるべきですが、これと決まったなら書いてあることを疑ったり、いちいち反論してはいけません。なぜそうなのか分からなくても、そういうものなのだといったん受け入れて、分からないまま次に進んでいってください。なんなら、分かっても分からなくても構いませんので、ひたすら音読してみてください。音読だけで通して何度も読んでみてください。そのあとで熟読すればよいと思います。

最後になりますが「何かを練習して、できるようになるとはどういうことでしょうか? 」ということについては、学びの種類によって結果としてくっついてくることですので、それ自体にとくに意味があるわけではありません。

料理について学べば料理できるようになりますね。ここでは学んだ結果、料理ができる可能性が用意されると同時に、実際に料理できるわけです。そして、料理ができるようになることは、料理人として成功するという運命を実現させるための可能性を用意することと言えるかもしれません。

スピリチュアルな学びでは、学んだ結果、学んだことを人前で話したり書いたりすることができるようになるかもしれません。それが目的であったなら、その場合は料理のケースとおなじです。でも基本的にはそうではなく、学んだ本人が真理を知覚できるようになる可能性、あるいは意識レベルを高める可能性のほうを変化させるために学ぶのだと思いますから、この場合は話せるようになること、書けるようになることはただの副産物です。

もしその人が真理を知覚できるようになったとしたら(あるいは意識レベルが上昇したなら)、それは用意された可能性が実を結んだということですね。

回答はこれで以上になります。お読み下さってありがとうございました。


【おまけ】

a子もめっちゃいいぞ。

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