非スタンフォード式!その②『選ばない勇気』
近況
さっきお風呂屋さんに行ったついでに、併設している散髪屋さんで髪を切ってもらいました。この3年ほどはツーブロックで前髪が目にかかるくらいまで伸ばしていましたが、今日は思い立ってばっさり短くしました。ほぼ丸刈りの、いわゆるソフトモヒカンと言われるやつです。もともとはずっとこの髪型でしたんでまったく抵抗はありませんでしたが、切ってみたら頭がめちゃんこ寒いです。
なぜ思い立ったかというと、いままでずっと切ってもらっていた方がお店を辞められたからです。それで、もうそれならば髪を切ってもらってそのままお風呂で頭を洗えるし、このスーパー銭湯内の散髪屋さんで今後は切ってもらうことにしようとなったんですが、切ってもらう人が変わると今までと同じというわけにはいかないでしょうし、なにより同じようにしてもらうために説明をするのが面倒くさかったんですよね。それで、ソフトモヒカンなら細かい話はいらんやろというわけで、ばっさりやっちゃってもらいました。
わたしは髪を洗ってもドライヤーなんかしたことがないですし、出かけるときに整髪剤を使うこともありません。ほんのちょっとブラッシングして、あとは手でちょちょいと整えるだけです(ちゃんと整えられているとは言っていない)。基本的にかっこいいのでまあこれで十分というか、それ以上やるとかっこよくなりすぎて嫌味にしかならないので手加減が必要というのもあるんですが、単に面倒くさいという要素のほうが強いかもしれません。なので、ソフトモヒカンにしたから色々と楽チンになるということもありませんが、強いていえば頭を洗う時間は大幅に短くなりますね。
とまれ、久々に短くしてみると気分も違ってきます。ここのところずっと体調がよくないので、これでちょっと流れが変わればよいなと思います。
まさかのシリーズ化!?
というわけで、今回も非スタンフォード式のやつです。前回の記事ですが「非スタンフォード式って言いたかっただけやろ!」と思われた方もいたかもしれません。まあそうなんですが、言いたくて言ってみたらこれがなかなかいい塩梅な気がしたので、今後もこの非スタンフォード式のなんとかという話を時々書いてみようと思った次第です。今回は『選ばない勇気』についてです。先に言っておきますが、非スタンフォード式なので大した話ではありません。
われわれは選ばされている
これはわたしの実体験としてよくあることなのですが、例えばワークマンのお店に行くじゃないですか。ちなみにわたしの家から歩いて5分のところにワークマン女子 なんば CITY 店がありまして、これも同じ なんば CITY にあるスパイスキングダムでカレーを食べたあとに成城石井と KALDI とワークマン女子を覗いて帰るのがわたしと母のお決まりのコースです。
さて、ワークマンに行くとさまざまな服がおいてあります。わたしはアウトドア向けのシェルジャケットが好きなんですがワークマンはその手のジャケットが豊富でしかもくそ安いんですよね。とはいっても、すでにそういうジャケットは何着も持っているのでもちろん「見るだけ」です。見ながらわたしの心には次のような Chatter が沸き起こります。
ふーん、これなかなかええやん、いやでも色がイマイチやな、そんでこっちのやつは色はええけどシルエットが微妙やなあ、まあでもワークマンに多くを求めるのは愚か者の所業なり、と言いつつ、あ、ちょっと待ってこれは!? 変なロゴも入ってないし、形もええな……、色は? ふむ、5色あって黒、オリーブグリーン、グレージュ、白、ネイビーとな、幸いMサイズはどの色も在庫ありと……、まあ最終的に黒を選ぶ可能性は高いのでとりあえずそれはキープしつつ、白は気分ではないとして、オリーブグリーンとグレージュはありやな……、ただ最近よく使うバッグがいずれもグリーン系なのでオリーブグリーンは避けたほうがよいかもしれない、し、ネイビーは昔はよく選んだ色だが年とともに似合わなくなってきたような気がしなくもないゆえ、グレージュか黒か、黒かグレージュか、それが問題や……

そんなこんなで気がつくとワークマン女子の手提げ袋を持ってにこにこしながら帰路についている、というパターンを割と何回も繰り返しているわたしですが、本当に買うつもりなんてなかったんです。本当に本当です。これはなんとも不思議な現象だよなあと思っていたんですが、こうやって書いてみると、途中から「どれを買うか」という思考になってしまっていることがわかります(わかりました)。
買うわけじゃないけど選ぶとしたらこの商品かな、そしてもちろん買うつもりはないんだけど買うとしたらこの色かな? という具合に、「どれがいい?」という選択から「どれを買う?」になってしまっているんですよね。結局のところは商品を選んだというより、買うという行動を選択させられたというわけです。
まあこれはユニクロでもそうです。ユニクロは同じようなアイテムをいくつも出す(例えばフリースでもフルジップとハーフジップとプルオーバー、それからボアフリースといった具合に)のみならず、単一のアイテムのカラーバリエーションが豊富です。それだけたくさん揃っているのを見てしまうと、うっかり「この中には今の自分が買うべきものが必ずあるはずだ」という気になってしまって、そもそもユニクロのフリースなんか家に何枚あるんだよってことは完全に失念されてしまいます。
仮にもし家にあるフリースの枚数と色をはっきり覚えていたらいたで、今度は「この色のやつは持っていないよな」という新たな発見をしてしまいかねません。実際、定番アイテムは毎年カラバリが変わりますからね。その年しか売ってない色もあるので、うっかり買い逃したら大変なことになりますよ。
このようにして、必要でもなく、欲しいわけでもないのに買うという選択をしてしまったことはありませんか? わたしは何度もあります。
ところで、わたしは家ではスマホをほとんど触りません。代わりに、部屋にいるときはいつも机の上のパソコンの前に座っています。いまはパソコンを使うような仕事はしていないので、使うのはWeb ブラウザとテキストエディタくらいですが、ブラウザにはGメールや YouTube とともに Amazon が常に表示されています。
これも曲者で、なにも買うつもりはないはずなのに、気がつくと「なんかいいものないかな」と考えながら Amazonの大密林を渉猟していることしきりです。アイテムの種類やジャンルの豊富さでいえば、Amazon はワークマンやユニクロとは比較になりません。しかも、一度なにかをチェックしたら、以降はそれと類似した商品がしつこくおすすめに上がってきます。そうすると最初はただ比較検討していただけなのに、いつのまにかどれを買う? そしていつ買う? というノリになってくるわけです😱 まあ、そもそもなんで比較検討してるんだよって話なんですけどね。
なぜ人々は右と左で争わなければならないのか?
こういうことは、なにもモノを買うときばかりではないんですよね。政治的な立ち位置でよく右(右派、保守派、ナショナリスト)と左(左派、リベラル派、グローバリスト)と言うじゃないですか。でも実際にはどんな人の頭の中にも保守的な考えとリベラルな考えの両方が存在しているものです。わたしはずっとノンポリでしたが、いまの日本と世界を俯瞰していると不正やメディアコントロールによって自己中心的な振る舞いをしているのはどちらかというとリベラル側の人々で、そんな彼らの不正や不公正を暴いて彼らと戦おうとしている人は保守側に多いように、わたしの目には見えます(もちろんその限りではありません)。
それゆえどちらを応援するかというと保守のほうですが、昔のわたしのサイケデリックな思想やいまの霊的な真理に基づいたものの考え方は、どちらかに分類するのであればそれはリベラルです。すくなくとも保守的ではぜんぜんありません。
問題はというと、右派と左派という二元的な言葉が存在していることにあります。実際には政治的思想には保守やリベラルの他にリバタリアンなどもあって、はっきり右と左に二極化しているわけではありません。それに日本の保守派はなんだかんだいって自民党を支持していますが、自民党の英語での党名は LIBERAL DEMOCRATIC PARTY です。つまり、あくまで党名でいえば自民党はリベラルを標榜している党なわけです。
そもそも大多数の人は政治に関心はあっても、自らの政治思想についてはっきりとした自覚などないはずです。それなのに、目の前に「右と左」あるいは「保守かリベラルか」という選択肢が存在すると、「まあ自分はリベラルかな」といっていずれかを "うっかり" 選んでしまうのが人間なのです。しかも、いったんどちらかを選んでしまうと、以降その立場に拘泥してしまうんですよね。
人間の自我は一貫性を強く指向します。というより、自我とは一貫した観念の集合体であり、一貫性こそが自我の本質なのです。それゆえ人間にとって一度行った自分の選択を覆すことは容易ではなく、自分をリベラルとみなした以上、よほどのことがない限りその人はずっとリベラルでいるでしょう。そして、そのように自分の立ち位置はリベラルなんだと決めてしまうと、保守は敵でなくてはならないのです。明らかにカマラ・ハリスには能力が欠如していて政策も曖昧で人望もなかったにも関わらず、敗北した彼女や彼女を候補者にした民主党を批判せずにトランプを執拗に攻撃しているアメリカのリベラルの人たちがまさにそういう例です。
いずれにしても、人は本質的に保守でもリベラルでもなく、なおかつ保守でもリベラルでもある生き物です。ずっとうまくいってきたやり方を変える必要はありませんが(保守)、行き詰まっているものは一度ぶっ壊して作り変える(リベラル)必要があります。それは社会においても個人においても言えることです。ですから政治家でもない限り、自分の政治的立ち位置として右と左の二つに一つを選ぶ必要なんかないんです。
しかしながら現実には保守の政党とリベラルの政党があり、わたしたちは選挙でいずれかに投票します。保守政党に投票したからといって、その人が自分のことを保守派であるとみなす必要はないのですが、多くの人は「選挙で政党や政治家を選択するという行動によって、自分の政治的立ち位置まで選択してしまっている」のです。正確には、選択させられているのです。われわれは気づかないうちに、多くのことを選んだつもりで選ばされています。
選びたい人々と選びたくない人々
ところで「そんなことないで。ワイはそもそも保守とかリベラルとかよう分からんし、ぶっちゃけ自民党しか知らんから自民党に入れとるだけや」という人もいますよね。自民党に入れるのがよいかどうかはともかくとして、わたしはこういうスタンスは実はとても生きやすいのではないかと思うんですよね。
こういうスタンスがどこで生み出されるのかというと、「そもそも選ぶのとかめんどい」というところからなんじゃないでしょうか。
わたしの人生においても、どんなときでも「なんでもええ」「どっちでもええ」という人が何人かいました。選びたいけど選べない優柔不断なタイプではなく、そもそも選びたくないタイプです。選ぶことに消極的というよりは、あれこれ悩んで選ぶことを愚かしいと考えているようにわたしには思えます。まあそうは言っても人生における大事な局面ではさすがの彼らも選ぶとは思いますが、裏を返せば人生におけるほとんどの選択肢は、彼らにとってはどっちだっていいことなのでしょう。
選ぶか選ばないか――どちらがよいと決める(選ぶ)のは難しいですが、すくなくとも、選んだつもりが選ばされてしまっているよりは、そもそも選ばないほうがマシなのかもしれないという気はします。また、楽しんで選ぶのはよいですが、悩み迷いながら選ぶのは苦しいこともあります。それでも選びたい人は選ぼうとしますけどね……。
ともあれ、わたしのような(そしておそらくこれをお読みくださっている方の多くもそうに違いありませんが)「選ばなくてもいいのに選ぼうとしてしまう遺伝子」を持っている人間が見習うべきは、まさにこのタイプなのかもしれません。
選ばない勇気を持とう
「より優れた選択をしたい」というのは人間にとっては本能的な欲求だと思います。その本能のおかげで人間はどうにかこうにかここまで生き抜いて文明を発達させることができたわけですから、「選びたがり遺伝子」の持ち主である我等は人類の恩人の末裔といってもよいはずです。
しかしながら、食料やモノやサービスがあふれ命がけで生きる必要のなくなった現代においてはこの本能が無駄に暴走してしまうばかりです。いまやこの遺伝子は「いいお客さん遺伝子」と呼び替えるべきなのかもしれません。そう考えると「選びたくない人」は後の時代に現れた新しいタイプの遺伝子の持ち主なのかもしれません。あるいは「選びたがり遺伝子」の遺伝子スイッチとやらがオフになった人々なのかもしれません。
どうしたって選びたいわたしたちも彼らのように遺伝子をオフにすることができればよいのですが、わたしにはやり方は分かりません。スタンフォード式のほうの本を探せば、なにかヒントが見つかるんじゃないでしょうか。
わたしに言えるのは「選ばない勇気を持ちましょう」ということだけです。そもそも選びたいわたしたちがなぜ選びたいかというと、選ぶことそれ自体が快楽だからなんですよね。わたしもあなたも選ぶことが大好きです。そして、先ほども述べましたが、人間の自我にとっては一度選んだことには重い意味があります。それゆえ、楽しんで選んだ結果のアイテムを買わないわけにはいかなくなるのです。
なので、選んでしまったものを「買わない」とか、複数の選択肢から選んだ行動を「しない」という選択は、わたしたちには無理です。なんとか可能かもしれないと思えるのは「選ばざるを得なくなるような行動を選ばない」ことです。勇気を出せばできるはず。頑張りましょう😉✨️✨️
おまけ
こないだ「選んでしまった」のがこれです。動きやすくて、薄っすら中綿入りでいい感じに暖かくていい感じです。ポイントは襟の立ち方がよいところです。ブラックとマスタードブラック(仕事用)の二枚買いました😌
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