クラゲの毒から恋焦がれ。 (創作大賞応募作)
クラゲには色んな漢字がある。
海月や水母、蚱、その他にも沢山存在している。
そんなクラゲにまつわる病気、クラゲ症候群を知っているだろうか
これから話すのはヒト身体軟化無痛水恐怖症症候群---通称、クラゲ症候群と呼ばれる難病に罹った1人の少女と主治医がこの難病に名前をつけるまでの物語だ。
「クラゲはプランクトンです。プランクトンなので骨もないし、感覚神経も、心臓や脳みそだってひとつもないです。
クラゲは何も考えずにただただ海の波に流され続け、メスと出会うと交尾をし子孫を残すと殆どのクラゲは1年経たずに死んでしまいます。ただ、ベニクラゲなど一部、寿命で死ぬことのないクラゲもいます。
ベニクラゲの若返りの原理はまだ解明されていませんが、もしかしたらこのベニクラゲの若返りの原理がわかれば昔の体に戻れる時代、つまり不老不死になれる時代も来るかもしれませんね。」
キーンコーンカーンコーン、とチャイムが鳴った
今日はここまで、と僕は生徒に向かって言うと大教室を後にし、急ぎ足で研究室に向かった。今日は珍しいことに一般の客人が来ている。なんでも現代科学では分からない奇病にかかった患者を連れてきたと研究員に聞かされた。
一体どんな患者なのか…少しワクワクする。
僕はガララ、と研究室のドアを開けた。
直ぐにテーブルに目をやると1人の男が座っていた。
少しだけ生えてる白髪にシワの入った顔、垂れ下がった頬、凸レンズをかけ目が小さく見えているのを見るに恐らく70歳ぐらいの男だろう。
「こんにちは」
僕は研究室で待ってもらっていた客人に貼り付けたような笑顔と軽い会釈をして対面に座った。
男は私に気がつくと立ち上がり深くお辞儀をした。
「今日は時間をとってもらい誠にありがとうございます。
まさか本当に広町先生に聞いてもらえるとは思ってなかったです。」
「いえいえ、僕はそんな大層な存在じゃないですよ、、、」
と軽い会話を済ましたのち、僕は真剣な顔で言った。
「では早速ですが本題に入りましょう。」
男は背筋を伸ばし、顔を強ばらせながら話し出した。
「私の孫が今回紹介させて貰う患者になるのですが、最近どうも身体の調子がおかしいと言うのです。
かかりつけ医に行っても見たことのない症状だ、と。それで大学病院に行くと、その時孫が急に「私はきっとこのまま海月になるんだわ」と言い出しまして、「検査の結果が出るのに少し時間がかかるので広町先生に相談してみては?」とその時担当してくれた大道寺先生に紹介してもらい、今広町先生にお会いしているといった感じです」
その話を聞いてなるほど、と少し合点が行った。大道寺先生が僕を紹介したのはきっと患者のクラゲの件があったからだろう。
僕が大学で初めて学んだ学問は農学だった。
そこで海月の面白さに魅了され、ずっと研究を続けているのだが、研究をしていくにつれて僕の実現したいことにはどうしても医学の知識が欠かせなくなってしまった。
そこで僕はもう一度大学受験をして医学生になり、今も大学病院に研修医として大道寺先生の下で勤務している。まぁだが大道寺先生には事情を話しているから知識を付けた今はほとんど病院に顔を出していないのだが。
恐らく大道寺先生は医学の知識、そして海月の知識の両方ある僕がこの患者にとって最適だと判断したのだろう。
僕は1人で頷きながら男に尋ねる。
「なるほど、そのお孫さんはどちらに?」
「孫は「日に当たるのが怖い」と言うので車で待たせています。連れてきましょうか?」
「いえ、僕が車に行きますよ。」
そう言って僕は客人に連れられて車に向かった。
外は酷いぐらいに蒸し暑く、息をするのが嫌になるような快晴だった。
車に着くと僕は客人に促されるまま車の助手席側をドアを開けて、助手席に座った。
後ろを覗くと一人の少女がいた。
シュッとした骨格につり目をしており肌は白く、口は小さい。まるで生きた人形のようだ。座高から推測するに150cmってとこだろう。
ファーストピアスらしい銀色の丸い物を耳につけ、髪は肩ぐらいまで伸びていた。夏だと言うのに少女は長袖のカッターシャツに紺の長ズボン、長い靴下にローファーを履いていた。
彼女は暑くないのか?と思いながら僕は額の汗を袖で拭った。
僕は彼女の方に体を向けて声をかけた。
「初めまして」
そう言っても彼女が反応を示すことはなく、終始黙っていた。車のエアコンの音が嫌に頭に響く。
「いや…あの〜…」
困り果てた僕を彼女はじっと見ていた。
そしてようやく言葉を発する。
「…綺麗ね」
予期しない言葉になんのことだ?と頭を巡らせていると彼女が
「それ、ピアス」と言ってくれた。
僕はやっと話してくれたとほっとしてピアスを触りながら話した。
「ん…?あぁ、これ?イルカンジクルゲって種類のクラゲでね。世界で1番ちっちゃいクラゲでこのクラゲの名前を取った病名もあるんだ。」
「イルカンジ症候群。見た目が小さすぎてダイバーが知らないうちに刺されると不整脈とか引き起こして死んじゃう。でしょ?」
僕は目を丸くした。有名じゃないイルカンジクラゲの病名と症状をただの少女が知っているなんて。
「す…すごいね、正解だよ」
彼女は鼻で笑った。
「常識よ。よくそんな海月を耳に刺すわね。」
少しイラッときた。どうしようが僕の勝手だ。
「なんで知ってるの?」
「昔、クラゲのことが好きだったから」
それからまた彼女は黙った。どこか悲しそうな顔を浮かべていて、何か地雷を踏んでしまったのか?と思い焦って咄嗟に話を変えた。
「そ、その制服、聖女だよね?」
「なんで知ってるんですか?女子高生眺めるのが趣味の変態なんですか?」
と返してきた。なんかキレてる〜…。
「その高校、僕が落ちた高校で、あっ、昔は共学で、制服変わってないんだね。」
「そう、聖女落ちるぐらいならあなた相当な馬鹿ね」
何が地雷だったのかなぁ…と僕が狼狽えていると、横に座っていたさっきの男が静かに彼女に言った。
「水月、いい加減にしなさい。広町先生に失礼だろ。」
「別に大丈夫です」と僕は言ったが何が地雷だったのか本当に分からない。
少女は不貞腐れたように僕から目を逸らした。
「とりあえず、自己紹介しない」と僕は提案した。
「えーと、僕は広町海です。年齢31歳でこの大学で海洋学者とこの大学病院の研修医をしてて、えーと、呼び方はなんでもいいや。広町でも先生でもなんでも。
あと、専攻は海月で好きなものも海月。」
言い終えたので目で少女にサインを送った。
少しの沈黙の後、彼女は僕を睨み、口を開いた。
「貴方に名乗る名前はないわ」
怖ぁ…と思っていると隣の男が彼女を怒鳴った。
「水月!全く…こいつの名前は高坂水月です。年齢は17歳、聖華女学院高校の二階生です。
そして私は高坂菫。血縁上水月の祖父に当たります。
水月、あとは自分で話しなさい。」
彼女はチッ…と舌打ちをして話し出した。
「そこのおじさんが言ったのが全て。
呼び方は水月以外ならなんでもいい。よく知らない人に呼ばれると鳥肌が立つ。」
怖い以外の感情が出てこなかった。
「はぁ…」と菫さんは疲れ切ったようなため息をした。なんて気まずい空間なんだ…
この空間から早く逃げるためにとっとと終わらせようと思い僕は高坂さんに話しかけた。
「…まぁよろしくお願いします。
そ、それじゃあ早速になるんだけれど、高坂さんの今の症状について教えてもらえないかな?」
高坂さんは少し俯き話し出した。
「症状が出始めたのは丁度1年ぐらい前で私の体はそこから、まるで触手のようになってる。
なにがなんだか分からないけど、手首がタコとかクラゲの触手みたいにうねうね出来るようになってて、外に出ると体がヒリヒリする。日焼けの感覚に近い気がするわ。それと水が飲めない。体に水がかかると気分が悪くなる。生理食塩水なら大丈夫。食事に使う分には水は大丈夫。感覚が疎くなっている気もする。あまりに痛みも感じない。そんな感じかしら。」
頷きながら僕は聞く。
「なんで「私は海月になる」って思ったの?」
「私にもわからないわ。勝手に口が動いたって言えばいいのかしらね。」
「なるほど、本当に初めて聞く症状だ。」
僕がそう言うと少しの沈黙が生まれた。
高坂さんが口を開く。
「これから私はどうなるの?」
僕は少し考え答えた。
「そうですね〜、今は身体検査の結果を待つとして、どんな結果であれ、とりあいず大道寺先生のところで入院生活になると思います。聞いたことない症例だし。僕は研究者集めて一緒に、えーと…高坂さんの病気のこと調べるよ」
そう…と直ぐに消えてしまいそうなほどの小さな声で返事すると高坂さんはすぐに黙った。
僕は彼女が目を落とすのを確認して菫さんに言った。
「今日できることは話を聞くぐらいですのでもう帰ってもらっても大丈夫です。恐らく3、4日後には検査の結果が届きますので、その検査結果を見てどうするか決めましょう。大学病院から連絡がありましたらすぐに行ってください。」
僕が「それでは、お大事に。」と言い車を降りるとすぐに菫さんも車を降り
「ありがとうございました。」と深々とお辞儀をすると高坂さんを乗せた車で去っていった。
結局あの子の地雷は何だったのだろうか。謎のままである。
いや、そんなことよりもあの症状だ。本当に、どこか海月のような…。
僕は左耳のピアスを触りながらそんなことを考えていた。
それから2日経ち、僕は研究室に引きこもっては医学本を読み漁り高坂さんの症状のことを考えていた。どの本を読んでもやはり彼女のような症例は見当たらない。
そしてまたいつものように医学本を読んでいると電話が鳴った。僕は誰からの電話かも確認せず本を見ながら電話を取った。
「はい。広町ですが。」
「おぉ、久しぶりだな。研究は捗っとるか?」
「大道寺先生!?」
聞こえてきた声は大道寺先生だった。ここ3ヶ月は全く連絡を貰えずに高坂さんの件も僕の研究室の研究員の1人に連絡しただけだったのに。
「なんだ、誰からの電話かも確認せずに電話を取ったのか。」
「あっ、すいません。」
「問題ないよ。どうせ高坂水月の症状のことでも考えていたのだろう。熱中するのはいいが、君は熱中しすぎると私生活が疎かになる。そこは治しなさい。」
耳が痛い。その通りすぎる。
「…はい。」
「それで、今日はなんの電話ですか?」
「あぁ、君もお察しの通り高坂水月の件だよ。
彼女は入院させることにした。」
「まぁそうなりますよね。」
「見たことの無い症例だしな。
あと彼女のカルテを最新のものにした。今さっき君にそのカルテを送ったから目を通しておいてくれ。」
「分かりました。」
「あぁそれと、私の権限で高坂水月の担当医を君に、主治医を私にしたから後のことは君に任せるよ。」
少しの沈黙が流れた。
「…は?」
「それじゃ、早く病院に帰ってこいよ〜。」
「えっ?ちょっ…」
異論を唱える前に電話を切られてしまった。まず研修医が担当医ってなんだよ…。おかしいだろ…。あぁーあの子怖いなぁ…。
僕は1人心の中で愚痴を垂らし、左耳のピアスをいじりながら高坂さんのカルテに目を通した。
僕が確認した彼女のカルテには1つを除いて特に必須するべき点は無かった。
そのひとつとは、彼女の骨が脆化しているというものだ。もっと踏み込んで言えば、現在進行形で溶けだしている。まるで酸にでも入れたようにゆっくり、じわじわと溶かされていた。そしてその骨の周りには異様な程に筋肉が発達している。
「なんだこれ…」
僕はそれを見て絶句し、大学病院に戻ろうと決めた。
大道寺先生に大学病院に行く旨を伝え、僕は正式にまた大学病院に戻ってきた。
「高坂水月の部屋はあそこだから」
と大道寺先生にある程度今の病院の状況を教えてもらった。
僕が休憩をしていると突然大道寺先生が話しかけてきた。
「お前、高坂水月の話し相手になってやれ」
「嫌ですよ。彼女ちょー怖いんです。」
「はぁ?何が怖いだよ早く行け。これは上官命令だ。」
大道寺先生は僕にそう言うとオペがあるから、といいその場を逃げるように去っていった。
僕は深いため息をついて、半ば諦めたように彼女の病室に向かった。
彼女の病室からは海が見えるだけで他は一面真っ白で棚に置かれたテレビがベッドの前にあるだけの閑散とした無機質な部屋だった。
高坂さんはじーっと太陽が海に沈んでいくのを見ていた。
彼女は今何を思っているのだろう。将来の不安?大切な人のこと?それとも、安堵…。
後ろから少しだけ見える顔は、そのどれもを連想できる幼い子供の顔をしていた。
「調子はどうです?」と聞くと高坂さんはこっちに顔を向け、僕と目が合うと目を細くして僕に言い放った。
「いいわけないでしょ考えなさいよ」
やっぱ怖いよこの子…。人は見た目に寄らないんだなぁと思いながら僕は高坂さんのベットの横にある椅子に腰掛けた。
「なんで座るの?貴方、研究員じゃないの?」
高坂さんは嫌味では無い、本当に不思議に思ってそうな顔で僕に尋ねた。
「えっと…僕、大道寺先生の下で働いてるから先生に高坂さんの話し相手になってやれって言われて。」
「そう。」
彼女はそれだけ言うと海の方を向いて、少し震えたような声で聞いた。
「…ねぇ、なんで私の骨は溶けているの?」
「うーん…まだ確実にそうとは言えないけど、破骨細胞じゃないかなと僕は思ってるな。血中カルシウム濃度も上がってるし。大道寺先生とも話してみようと思ってる。」
それに聞いて、彼女は僕の方に鋭い眼光を向けて聞く。
「…最終的には、どうなるの?」
僕は彼女の目に対抗するかのように真っ直ぐな視線で答えた。
「それはまだ誰にも分からない。世界で初の症例だもん。前例がない。」
その末、彼女は目を窓の方にやり
「そう、優しいのね。」
とまるで独り言のように呟いた。
「本当に分からないからね。」
そう言っても彼女からの返答はなかった。
「あと、これ大道寺先生から飲んでくださいって言われた薬。ここに置いときますから。」
薬を机に置くと僕は逃げるようにその場を去った。
「どうだった?高坂水月は」
先生が疲れ果てた僕を見て笑いながら聞いてくる。
「いややっぱ怖いですよあの子。」
「まぁこれからずっと面倒みるのお前なんだから、頑張れよ。」
ため息をついて先生を睨むと、引っぱたかれた。本当に医者なのかこの人は。
「それと、高坂水月の病状についてだ。」
先生はさっきとは打って変わって神妙な顔つきで話し始めた。
「まず知っての通り、彼女の骨が溶け始めている。理由は定かではないが、私は破骨細胞の異常な増加、もしくはそれの予期せぬ活性化が原因と考えている。
それと、溶けだした部位周辺の筋細胞の異常な増加だが、これがよく分からん。これが原因で手首を触手みたいに操れることだけ分かっている。それに水恐怖症、日に当たると痛い、感覚麻痺等々の症状も未だ謎だ。」
「やはり、このまま骨が溶けてしまったら…」
先生は少し間をおいて答える
「頭蓋骨や脊椎が筋肉に押しつぶされて確実に死ぬだろうな…。」
分かってはいた。このままではきっと高坂さんは死ぬ。
「これから研究チームにも説明してくる。」
「了解しました。それと、この病気の病名はどうしましょう。」
「ヒト身体軟化無痛水恐怖症症候群とする。」
「了解しました。」
本当にこの病気は、まるで人がクラゲに変態するだなと先生と話して改めて思った。
先生は話終えると近くの椅子に腰掛け、僕の方を見上げた。
「…まだそれを付けているのか。」
僕は少し黙って左耳に付いたピアスを触りながら答えた。
「…これは、私にとって形見ですのでね。」
先生は少し笑った。
「もう、過去に縋るのはやめなさい。月夜もそんなことは望んでいない。」
「もしそうだとても、1度つけたこれを外すことは、私にはもう出来ないんです。」
「やはり人は変わらないね。」
先生は少しため息をついて研究所に向かった。
その日から僕は大学の講義を終えると高坂さんの部屋に顔を出すようにした。理由は先生に言われたから。最初はそうだった。
そうして何度か部屋に出入りして気がついたことだが、高坂水月には友達がいないようだった。
高坂さんの見舞いに来た人は菫さん以外に一人も居ないようで、僕が来る頃には今にも自殺しそうな顔つきをしていた。嫌な顔つきだ。いつもは飄々としていて華麗なのに、その顔だけはどんな醜い顔よりも気味が悪く、心の中で得体の知れないものが蠢く感覚が襲ってきては動悸に吐き気がした。
いつからか僕は、彼女にそんな顔をさせない為に躍起になってしまった。
彼女の部屋に毎日毎日押しかけてベットの隣の椅子に腰掛けては、今日の講義でやったこと、レポート課題を提出期限の3日後に持ってくる怠惰な大学生がいること、大学生の皆が楽しんで学校にいること。そんな日常を彼女にずーっと話した。そして話を終えると帰ってすぐに研究を開始する。そんな日々を続けた。
いつしか彼女は、僕の話をちゃんと聞いてくれるようになった。そして僕の話を聞いては適当にあしらったり、揶揄ったり、時に笑ったり…。
話を聞く彼女の顔はこの世の物とは思えないほど煌びやかだった。月よりも光る花火のような、彼女はそんな光を放っていた。
きっと彼女に学校では誰も話しかけなかったのだろう。話してみたら面白い、ただの可愛い女の子だ。
僕が部屋に入って一番最初に目に入ったのは海を見ていた彼女だった。
僕が椅子に腰かけると彼女は口を開いた。
「私、死ぬのってそんなに怖くないのよね。」
「え?」
「だって人は遅かれ早かれ死ぬんだよ?別に死んだらそこまでだったんだって思うし。」
「なんでそんなこと言うのさ。それに僕が居るからには絶対高坂さんは死なせないよ。」
高坂さんは少しニマニマした顔で言う
「広町が?研究員でまだ研修医なのに?」
「…うるさいよ。」
高坂さんはそれに笑って反応した。
「じゃーさ?別にこれは私のことじゃないけど、もし仮に死にたくても死ねなくて、一生苦しんで永遠に生きるか、死のうと思えばすぐに死んで楽になれるかだったら広町はどっちの生き方を選ぶ?」
僕は左耳のピアスを触りながら悩んだ。
「それは!…ずるいじゃん。」
高坂さんはニヤニヤしながら囁く
「広町はどっち派?」
僕が黙っていると高坂さんは天井に顔を向けて言った。
「私が死なないうちに答え出してよね」
「だから僕が助けるって!!」
僕がそう言うと高坂さんは爆笑した。
「やっぱ、広町揶揄うの世界一楽しいね。」
その笑顔は太陽のような光を持ち合わせているのと同時に、常夜燈のない暗闇に差し込むか弱いが明るさをまだ保っている一等星のような光も持ち合わせていた。
「水月って呼んで」
「え?」
突然のことに戸惑いを隠せないでいると、彼女は少し顔を赤らめてもう一度言った。
「だから、水月って呼んで…。」
恥ずかしがる彼女は可愛くて、少し意地悪をしたくなった。なんだか小学生に戻った気分だ。
「えー…でも高坂さんが「知らない人に名前で呼ばれると鳥肌が立つ」って言ったじゃん」
彼女は顔を赤らめたまま結構な声量で
「真似しないで!!!」と怒鳴った。
「あー!わかったわかったから大声出さないで!!」
僕が必死に彼女を止めると不貞腐れた顔で言った。
「水月って呼んでくれたら許す。」
「わかったよ。ごめん水月。」
僕は頭を撫でると水月は目を瞑った。
きっと水月が猫だったらゴロゴロ喉鳴らしてるだろうなーと思った。
「なんで広町ってずーっとピアス付けてるの?そーゆーお年頃?」
少しだけドキッとした。
「僕を何歳だと思ってる。 そんなんじゃない。」
「じゃーなんでなの?」
「昔色々と、ね。」
僕が解答を濁すと水月はつまんないと言いたげな顔で天井を見た。
「ねぇ、この前看護師さんが話してたの聞いたんだけど、もしどっちかを絶対に食べないといけない状態になったとして、1円も貰えないけど100%安全な方を食べるか、100万円貰えてかつ毒の量を計算しつくして死ぬ確率が限りなく0に近いけど一応毒が入っている方を食べるか、広町ならどっちを食べる?」
僕は少し考える振りをして、ピアスを触りながら答えた。
「毒のある方かな。」
「なんで?もしかしたら死ぬかもしれないじゃん。」
僕は少し笑って言った。
「有名な話で、毒は時に薬にもなるんだよ。
例えば一酸化炭素。一酸化炭素は本来吸い込んだら血中のヘモグロビンと結合して血中酸素濃度を下げて死に至らしめる。だけど医療現場ではオペで役に立っている。敢えてヘモグロビンを投与して血中酸素濃度を一定に保つことが出来るんだ。これでオペが出来るようになるという事例があったりする。」
「へぇー。ドヤ顔で語られると、なんかムカつくね。」
水月にそう言われて少し凹んだ。
毎日水月に会いにいっていた僕から見ても水月は日に日に衰弱していっているのがよく分かった。
まず、外面的な所では明らかに元気がなくなって行った。そして徐々に髪も抜け始めた。手首だけだった骨が溶ける症状も、今では腕全体にまで広がっていて、今ではもう腕はタコのようにあやつれるらしい。それに、水恐怖症が悪化した。今までは気持ちが悪いといいながら飲めていたが、今では飲むと吐き出すようになってしまった。今は点滴で対応している。
そして検査の結果から分かったことは、入院から1ヶ月経った頃から骨の溶ける速度が早くなったことだ。今では一日に数センチも溶けているという。それに骨が溶けた所は空気に直接触れるとピリピリするといい、生理食塩水で濡らしたタオルで覆わなくてはいけなくなった。
「水月」
僕がそう呼びかけると視線を窓から僕の方に向けてくれた。
僕が定位置に座ると水月は小さな声で話し始めた。
「死が近づいてくると案外怖いもんなんだね。」
水月の顔は怯えていた。それは間違いない。ただどこか違和感があった。なんだかとても安堵しているような…。
僕は嫌な予感がして咄嗟にいつものような口調で言った。
「いやだから、死なないって。僕がいるんだから。」
「そっか。そうだよね!」
水月は笑っていたが、目の横から少しだけ涙が零れていた。
僕が頭を撫でると水月はそのまま寝てしまった。
僕はそれを確認すると部屋を後にしようとする。
「広町…ピア…ス…」
後ろから寝言が聞こえた。
「…ごめん。」
僕はそれ以上何も言わず、振り返らずに部屋を出た。
「広町。ちょっといいか。」
水月の見舞いを終えて部屋に帰ろうと廊下を歩いていると背後から先生に声をかけられらた。
「はい?なんですか?」
「お前にひとつ、話したいことがある。」
先生はいつになく真剣な顔つきで僕に言った。
「もうこれ以上、高坂水月と関わるな。」
面を食らって言葉が出なかった。僕は何か水月に対して粗相をしたか?なんで急に…?
それから先生は急に涼しい顔になるとすぐにその場を離れようとする。
「それだけだ。それじゃ」
「待ってください!」
先生の腕を掴んで僕は叫んだ。
「なんでですか?」
先生は言葉を選ぶようにゆっくりと話した。
「これ以上、高坂水月に関わると君が本当に壊れることになるからだ。自分でもわかっているのだろう?彼女がもう助からないことぐらい。」
「だからって、水月を見捨てるって言うんですか?」
怒りで声を荒らくなる。
「僕は目の前にある命からは逃げない。」
先生も声を荒らげた。
「違う!私が言っているのはそう言うことでは無い!!これ以上彼女に関わって親密な関係になればなるほど、以前の君が体験した絶望がまた起こるかもしれないんだぞ?私は今の君では、それに耐えきれず壊れると思う。いや、断言する。君は壊れる。」
言葉にならない感情が湧き出てきた。
怒り、悲観、絶望、なんとも言い難い感情が浮いては沈む。沸騰した水のように様々な感情がポコポコと出現しては消えていった。
「…だとしても僕は、彼女の主治医です。どうするかは私が決めます。」
僕はそれだけ言い、そのまま部屋に戻って行った。
「…わかった、ならこれだけは約束しろ。これ以上踏み込むな。」
背後から聞こえた先生の声を僕は無視して僕は廊下を歩いた。
それから数日が経った。
最新の検査で異様なものが発見された。
タンパク毒素。海月毒の1種だ。
水月の体内にはこの海月毒が混じっていた。それに、普通の人間なら明らかに死ぬ量が、だ。
それに前までは感覚麻痺程度だった場所が、今では完全に何も感じなくなったらしい。
そして、水月の外見にも変化があった。
毛根が死に、髪が全て抜けた。そして1部からは「刺胞細胞」が生えていた。いわゆる、クラゲの触ると毒針が発射される触手のようなビラビラだ。
先生から言われてわかってはいた。このままでは高坂水月が助からないことぐらい。
刺胞細胞が現れてからは、僕は研究に没頭して、水月の部屋にいくことが少なくなった。
どうすれば彼女を助けられるのか…そんなことを考えてる暇なんてなく、とにかく自分に出来ることを全部した。トライアンドエラー、当たって砕けろの精神で研究をした。
1年ほどの研究を総合してわかったこと。それは水月を助ける術はないということだけだった。
何をどうしても、水月を助ける方法が見当たらなかった。
「水月?」
僕がそう呼びかけても返事は無い。水月は布団にうずくまって横になっていた。
水月はニット帽を被っていた。年頃の女の子の髪の毛を奪ってしまった。自分の無力さに嫌になる。
僕が定位置に座ると水月は話し出した。
「先生と叔父から自分の体のことは聞いたわ。
私、本当にクラゲになるのかな?」
その言葉は絶望にも、期待にも、どちらにも聞こえた。
「大丈夫だよ。僕が治すから。」
「そればっか…。ほんと変わらないね。」
水月はやっとベットから起き上がって、窓の方を見た。
外は快晴で、冬だと言うのに嫌なほど眩しい光が海に反射されて病棟に届いていた。
「遊んでみたかったなぁ…」
水月は独り言のように呟いた。
その言葉で胸が痛くなった。僕にもっと才能があれば水月を治せたかもしれないのに。
今の僕に出来ることを必死に考えた。何度も何度も挑戦した。その結果がこれ。本当に嫌になる。でもきっと僕のこの気持ちなんて今の水月にとったら些細なことになるのだろう。それほどまでに彼女の抱えてるものは大きい。
だから最低限、水月のこの願いだけは叶えてやらなくては…。
「どこか行きたい所ある?」
水月は顔をこっちに向けて少し期待したような眼差しで僕を見た。が、すぐに絶望に似た顔をした。
「この体じゃ、どこにも行けないよ。」
「大丈夫、僕が連れ出してあげるからさ。」
「…え?」
「で、どこ行きたい?」
水月は少し考えてから言う。
「水族館。水族館に行ってみたい。」
「わかった。今から行ける?」
水月は終始びっくりした顔をしている。きっとこれも冗談か何かだと思ってたのだろう。
「外出していいの?」
「主治医は僕だからね。僕が病院側に彼女は少し出た方がいいと判断したと言えばいいさ。」
「そっか。」
「じゃ、決まりね。僕も準備してくるから僕がもっかい来るまでにある程度準備しといて。」
僕はそれだけ言い、自室に向かった。
僕が支度を終え、水月の部屋に戻ってきた時にはもう水月は支度を終えていた。
水月はまだ寒くないのに手袋とニット帽をして、白の長スカートに紺のコートを着ていた。耳にはピアスをつけている。
なんだかどこか大人びていた。誰がどう見ても普通の女の子だ。
「…どう?」
水月は顔を赤らめて僕に尋ねる。
「可愛いよ。めっちゃ。」
僕がそう言うと水月は口角を上げて分かりやすく喜んだ。
水月は僕の手を取り、「早く行こ!!」と急かし、僕は手を引かれるまま、外に出た。
外は昨日降った雪が少し積もっていて、斑らに白く光っていた。
水月はその雪を見るなり雪に走り出して雪玉を作り出した。僕は日傘で水月に日を当てないようにしていた。
水月は作った雪玉を僕に当てては爆笑していた。
その喜ぶ顔はちゃんと子供のもので、彼女も1人の子供なんだと改めて思った。
そんなこんなで駅に着く頃には僕の服は水浸しになっていた。
「広町、びっちょびちょじゃない!」
そう言って爆笑する水月。僕には悪魔のように見えた。
「水月が雪玉投げつけてきたせいなんだけど」
「え?なんの事?」
水月はそう言うとICカードで駅に入っていった。
僕もそれに続くように駅に入った。
「次は和倉温泉〜和倉温泉〜のとじま水族館にお越しの方はこちらでお乗り換え下さい。」
無機質な声が電車内に響く。ガタンゴトンと揺られ水月は疲れていたのか、ぐっすり眠っている。
僕は水月を起こすと和倉温泉駅で降りて、のとじま水族館行きのバスに乗った。
「水月、眠い?」
「うん。めっちゃ眠い。けど楽しみ。」
「それはよかった。」
そうこうしてるうちにバスが出発した。
また寝るのかなと思っていたが寝ずに外の景色を見ている。
「1年とちょっとでこんなに風景って変わるんだね。」
水月は窓から外を見ながら呟いた。
「あぁ、水月の実家この辺りだったっけ。」
「うん。知らない建物がたまに出てくる。」
「時代の流れって案外残酷だよね。」
「確かに。」
水月とたわいない話をしていると、のとじま水族館が見えてきた。
「懐かしいなぁ…。」
水月は水族館を見るなり言葉を漏らした。
「行ったことあるの?」
「そりゃ勿論。家近くだもん。」
「まぁ確かにそうか。」
「まぁ1回だけなんだけどね。ほんと昔に。」
水族館が近づくにつれて水月は僕の手を強く握りだした。水月の手は弾力のある蒟蒻のように柔らかかった。きっと骨がほとんどないからだろう。こうして見ると本当に、ただの女子高生にしか見えない。
どうして彼女のような普通の高校生が、あんな奇病にかかってしまうんだ…。
それから程なくしてバスはのとじま水族館に到着した。
あたりは病院を出た時とは違い気温もある程度暖かくなって雪はひとつも残っていなかった。
「はい。」と僕は水月に日傘を差す。
水月はありがとうとにっこり笑った。
神様は何故彼女を奇病に選んだのだろうか、と神を少し恨んだ。
そんなことを僕が考えているなんて水月は思っても無いのだろう。水月は僕の手を取り
「じゃ早く行こ〜」
と足早に水族館に歩いていった。
「のとじま水族館へようこそ!」
受付口で従業員が元気いっぱいの声で言う。
「おふたり様でよろしいでしょうか?お会計おふたり合わせて3780円頂戴致します!」
僕は話に割って入って言う。
「あ、いや年間パスポート2人分でいいですか?」
水月は狐につままれたような顔をしていた。
「わかりました!年間パスポートおふたり様で合計8380円になります!」
「それではのとじま水族館をお楽しみくださいませ!」
と案内された道順通りに僕らは歩いていった。
「なんで年間パスポートにしたの?」
水月は魚のアーチを見ながら僕に尋ねた。
「また、来ようね。」
水月の目を見ずにそう言った。
僕らはそれ以上何も言わずにそのブースを抜けた。
ブースを抜けると目に入ってきたのは薄暗い部屋の中の水色に光る巨大な水槽と、そこに入っているジンベイザメだった。
水月はその巨大な水槽に吸い込まれていくかのようにジンベイザメの下に立った。
僕も水月についていき、同じ場所に立つ。
「ジンベイザメって大きいのね。初めて見たわ。」
「そりゃ世界最大の魚類だからね」
水月は少し笑って言った。
「それぐらい知ってるわよ。他になにか豆知識無いの?」
僕は少し悩んで言った。
「ジンベイザメの死骸の周りから新しい生態系が形成される、とか?」
「そうなの?」
「さあ、あんまり記憶ないや」
「海洋学者がそれって、どうなの。」
「まぁ僕は海月以外ろくに研究してこなかったからね。」
「じゃあ私の方が詳しいかも?」
水月は首を傾げていたずらに笑った。
「意外とそうかもね」
「そんなわけないじゃん、ばか」
2人でふふっと少し笑った。一生この時間が続けばいいのに、とそう思った。
他の色んなブースを見て回って、最後にクラゲのブースに着いた。
クラゲの展示場所はとても薄暗くて、1番最初に目に入るドーム状の水槽はライトがクラゲを照らして、クラゲは赤や青、紫など多種多様な色へと変化していた。
入ってすぐの右側には柱状の水槽があり、その中に入ったクラゲは傘をひらひらさせて水中を漂っている。溺れているように見えるが泳いでるようにも見える。不思議な感覚だ。
「綺麗…」と水月は声を漏らす。
「綺麗だよね。海月。」
僕はそう言うと水月を連れてドーム状の水槽の中に入った。
水月はドームの中に入ると水槽に手を当てると覗き込むようにクラゲをずっと見続けた。
「まるで宇宙のようね」
「それ、僕が初めてクラゲ見た時の感想だ。」
僕は水月にそう言い笑った。
水月も僕が笑うと、口に手の甲を当て口角を上げた。
それから水月は水槽に目を移し、1匹のクラゲを指さした。
「ねぇ広町、このクラゲ、キタミズクラゲ?」
「うん。キタミズクラゲだね。
ミズクラゲよりおっきく成長するんだ。ミズクラゲとの見分け方は触手が茶色っぽくて、傘が緑がかってたらキタミズクラゲ。よくわかったね?」
「昔、クラゲ好きだったから。」
水月は少し悲しそうな顔をし、水に漂うクラゲをじっと見る。
「海月って、どうやって生きてるの?
私たちみたいに脳とか、心臓とか見た感じないよね?」
「海月に脳とか心臓とか、骨はないんだ。
全部が感覚神経でね、クラゲの行動の全ては反射で起こってるんだよ。
人間で言う「食べ物を食べたら唾液が出る」とか「赤い玉を見たら唾液が出る」みたいな反射で生きている。
プランクトンを食べるのも反射だし、人間に毒を刺すのもただの反射。
クラゲは考えたりしないんだ。ただただ海に浮かんで子孫を残したら1年経たずに死ぬ。
心臓の部分をクラゲは傘で代用してて、浮かんでる時傘の部分が動いているでしょ?あれが心臓のポンプの役割をしてるんだ。
血管はなくて、血管の代わりに水管っていうのを体全体に張り巡らせて海水を体全体に届ける役割を持ってる。」
水月は終始悲しそうな顔をしている。理由は分からないけど、僕が嫌いな、自殺しそうな顔つきをしていた。なんだか嫌な予感がする。
「ねぇ広町。」
水月は水槽に目をやったまま僕に話しかける。
「何?」
動悸が止まらない。
「私、昔海月が好きだったって言ったじゃない?」
「うん」
「あれ、理由があって。聞いてくれる?」
声が出せない。汗が滝のように出る。これを聞いたら、もう後戻り出来なくなる気がして…。
「私のお父さん、ダイバーしてたんだ。お父さんダイバーだったから魚とかの海の生物にめっちゃ詳しくてね。
それで一番お父さんが好きだったのがクラゲでね、お父さんが家に帰ってくる度に私はお父さんにクラゲの写真見してもらってたんだ。だからクラゲのこと詳しいの。
それで私が12歳の時、お父さんと喧嘩してさ。本当くだらないことだったんだけど、それで喧嘩したままお父さんダイバーの仕事でオーストラリア行ったんだ。後々考えたら私が100%悪かったから帰ってきたら謝ろうって考えてた矢先、」
僕はぼそっと独り言を呟いた。
「…イルカンジクラゲ」
「そう。お父さんイルカンジクラゲに刺されて死んじゃったんだ。
元々家族全員仲良かったからお父さんの死は結構みんな響いてさ、お母さんはそれで病んで育児放棄して、毎日遊び歩くようになった。
学校から帰ってきたらテーブルの上に1000円が置かれてるだけ。
このままこの生活がずっと続くのかなって思ったら、2年もしない内にお母さん自殺しちゃって。
言われたら心中したのにさ、本当自分勝手な人だよ。自分だけ楽になろうなんて、ね。
それで叔父に引き取られて今生活してるの
だから、昔はクラゲは好きだった。」
そこまで話終えると水月は泣き出した。
彼女の嗚咽の音がドームの中を乱反射して僕の耳に入ってくる。ライトによって何色にも光っていたクラゲ達は、じきに光を失い、死んでしまったように傘を動かさずドームの奥底まで沈んでいった。そして僕らは真っ暗に包まれた。
真っ暗闇に、水月の嗚咽だけが響いていた。
相当辛かったのだろう。誰にも言えず、1人で溜め込んで。
「次は、広町の番ね。」
ライトが再度点滅した途端に水月は涙袋が膨れた顔で僕の方を向いた。
「…?」
僕が困惑しているとそれを察して水月が言う。
「それ、ピアスのこと。何か一日たりとも外さずにずっと付けてる理由。あるんでしょ?」
「なんで知りたいの?」
「広町海という人間について、もっとちゃんと知りたいから。」
''これ以上踏み込むな''
先生の言葉の意味がやっとわかった。これ以上踏み込んだら、きっと僕は壊れる。また取り返しのつかないことになる。頭が痛くなり、ピアスを触る。
「いつか…ね。」
僕はそれだけ言い視線を下に落とした。水月の顔を直視出来なかった。ドームが青い光で覆われる。
「私、広町のことが好き」
震える声で水月は言った。
「広町の好きな物も、喜びも、悲しみも、絶望も、全部ひっくるめて分かち合いたい。それで、互いに分かり合いたい。
海月の事も好きになりたい。好きになって、それで広町と海月の研究がしたい。だから勉強した。病院に入ってからずっと勉強してた。
でも、やっぱり私じゃダメなの…?」
その言葉を皮切りに静寂が僕らを包む。海月はライトによって青い光を放ち、床をも青く染めていた。
僕の耳には水槽ポンプの供給の音だけが聞こえてくる。その音はまるで僕に答えを急かす給湯器の音のように聞こえた。
「ごめん。」
ただ一言。僕はそう言った。
水月がどんな顔をしていたのか、僕にはよく分からない。でもきっと酷い孤独で死にそうな顔をしていたのだろう。僕が嫌いな、あの顔を。
僕と彼女の間には、どうしようも出来ないほどの大きな溝が出来てしまった。
それから何をしていたのか、いつ帰ったのかも覚えていない。
気がついたら自宅だった。
「僕はどうするべきだった?教えてくれ…」
左耳のピアスを触りながら独り言を呟く。
ポケットの中には水族館で買った、水月に渡そうと思っていたものが残っていた。それ以外、僕の中には何も残ってはいなかった。
「大丈夫か?お前。最近全く見舞いに行ってないらしいじゃないか。何があったのかは知らんが、とりあいず病院には来い。上官命令だ。」
不在電話に先生からの電話が入っていた。
あれから1ヶ月程経ったが僕は見舞いにはおろか大学病院にさえ行けていない。何をしてもあの日のことを思い出してやる気が起きなかった。研究するから休む、とは一応先生には言っておいたが、恐らくろくに研究室に行ってないのがバレたのだろう。
とりあいず今日は病院に行こう、そう決めた。
病院について早々、僕は先生に呼び出された。
「広町、理由を説明しろ。」
先生は僕に休んでいた理由を説明するように要求した。当たり前だ。
僕が事の顛末を先生に全て話すと先生は深くため息をついた。
「だから私はこれ以上踏み込むなと言ったのだ。」
「本当に、申し訳ございません。」
「最近、君と高坂水月が病室で話してるのを見ると思うようになったんだ。まるで昔の二人を見ているようだと。
彼女は月夜に似ている。君は気が付かなかったのか?」
「いえ…きっと気づいてはいました。でも、知らないうちに気付かないふりをしてました。」
先生は深くため息をついて窓の方に目をやった。
「私は、君にもう同じような絶望を味わって欲しくないんだ。」
「…」
僕は黙って頭を下げることしか出来なかった。
先生は何かと葛藤をしているように見えた。そして遂に先生が口を開く。
「広町、これを」
僕が渡されたのは少し色落ちした1枚の紙だった。
「家に帰ったらそれを読みなさい。今日はもう帰っていい。」
「…これは?」
「見たらわかる。」
先生は椅子から立ち上がってドアに向かって歩きながら言った。
「それと、高坂水月だが、容態が急激に悪化している。私の概算では、長く見積って1週間だ。」
「え?」
「後は、君次第だよ。」
先生は僕の肩に手を置くと部屋を出ていった。
その後を追うようにボクは左耳のピアスを触りながら家に帰った。
僕はその日の晩に水月の部屋に訪れた。
水月は衰弱しきっていた。髪はほとんどが抜け落ち、抜け落ちた部分からは刺胞細胞が生えてきていた。海月の触手が頭の上に乗っているような姿をしている。
水月はベットで横になり、窓から海を見ていた。
「水月」
僕が声をかけると水月はこっちを向いた。
「広町…?」
水月のか細い声が聞こえた。
先生の言う通り、水月は今までにないほどに衰弱している。もって1週間という言葉が僕の幻想から現実になった。
いつもの定位置に腰掛けると水月が話す。
「死ぬ前に、また会えてよかった。」
その言葉は嫌味から出る言葉ではなく、ただ本当に安堵から出る言葉のようだった。
「だから、僕が治すって。」
泣きそうになりながら僕は答えた。
「広町…なんの用?」
「水月に、話さなくちゃ行けない話がある。」
「何?」
「僕の、ピアスの話。」
水月は少し笑って言う。
「どーゆー風の吹き回し?」
彼女の目を見てしっかりと言う。
「言わずに後悔するよりも、言って後悔したい。」
「そう。」水月は微笑みながら言った。
「僕には昔、人生で1度しかできたことの無い恋人がいた。
その人は同じサークルで農学を学んでた人なんだけど、その人何故か僕と同じでクラゲが好きだったんだ。
だから意気投合して基本どこに行くにもその人と行った。
それで向こうから告白されてそのまま付き合った。
毎日が楽しくてさ、彼女と一緒に勉強したりとか。将来のことを考えて2人で笑いあったり、結婚のことを考えて、両方の親御さんに会いに行ったりとかね。人生の絶頂だった。
でも、自殺しちゃったんだ。元々メンタルが弱い子でね、それで小中学校で虐められてたみたいなんだ。高校大学は地元から抜け出して遠い所にしたから大丈夫だと思ってたら大学で同じ中学校だった人に会ったらしくて。それであらぬことを大学内で言いふらされて精神的にキツくなってそのまま飛び降りて。
その時僕は丁度卒論を書いてたんだ。うちのゼミは結構卒論が厳しくて、他に時間割いてる余裕がなかった。それに僕は教授になりたかったから、余計にね。
それで事を後回しにしちゃった。そしたら取り返しのつかない事になっちゃっててね。
僕が悪いんだよ。彼女が死んだのは。言い訳するつもりも無い。僕がそばにいてあげたら死んでなかったかも知れない。
そう思って僕は、自殺しようとした。彼女が死んだところで一緒の時間に。
それで、死ぬ前に彼女の部屋に行ったんだ。
そしたら『海くんへ』って書かれた手紙があって、横にイルカンジクラゲのピアスが置いてあった。
『私が死ぬのは海くんのせいじゃない。私が死のうと思ったから死ぬ。それだけだよ。だから海くんが気に病むことはない。これからも勉強頑張って。
最後、私からの最後のプレゼントとしてピアスあげるね。海くんピアス開けてなかったよね、だったら最初はファスピはこれで決定ね!イルカンジクラゲを選んだのは私みたいに死んで欲しくないからだよ。毒を以て毒を制す!ってことね。ファイト大学教授!!』
ってね。それで死ぬのやめて大学教授に向けて頑張った。
そこからはもうずっと付けてるよ。だって毒の抗体ってずっと毒を与え続けないと勝手には産み出されないからね。」
全てを話終えると自然に涙が零れそうになった。
あぁ、あの時の水月はこんな気持ちだったのか。辛くて、どうしようもないのを他人に打ち明けたのにそれを受け入れてもらえるかも分からない不安に押しつぶされそうな、そんな気持ち。あぁ、死んでしまいそうだ。
頭に何かが乗った感触がした。
「よく頑張ったね。」
その瞬間、涙が滝のように押し寄せてきた。
あぁこの感じ、やっぱり月夜と同じだ。僕はずっと水月が好きだった。自殺しそうな顔が嫌だったのは、月夜と重ねていたからだ。
今日は星月夜だった。
無数の星が月のように光り輝き、海に反射して病棟にいる水月と僕を照らした。
水月の頬が少し光って見えた。僕自身の頬はわからないけど、きっと水月よりももっと光っているのだろう。
頬を伝って落ちた涙は、床を光らせる。そしてまた、僕らを光らせた。
「今まで、話せなくてごめん。」
「話してくれて、私は嬉しいよ」と水月は微笑んだ。
僕は涙を拭い落ち着いてから水月に言う。
「顔、こっちに出して」
水月は困惑しながらも体をこっちに寄越して顔をこっちに寄せる。
僕は水月の髪、刺胞細胞を手で掬うと右耳の後ろに掛けた。
水月は声を上げる。
「広町!危ない!!」
水月の刺胞細胞が僕の手の甲に刺さる。
「ごめん!制御出来なくて…」
ドク、ドク、と毒が流れてくる感覚がヒリヒリと伝わってくる。まるで感電したような感覚だ。
「良いよ。これぐらい」
僕は刺さった刺胞細胞を抜くと水月に問いかける。
「前にさ、水月が僕に質問した生死のやつ覚えてる?」
水月は少し考える素振りを見せる。
「永遠に生きるか、楽に死ぬかってやつ?」
「そう」
「それがどうしたの?」
水月は不思議そうに言った。
「これが僕の答えだよ」
僕は水月の右耳に「ベニクラゲ」のピアスを着けた。
「これって…」
僕は自分の左耳に着いたイルカンジクラゲのピアスを取り、それをポケットに入れると代わりに右耳にベニクラゲを着けた。
「僕は水月と生きていきたい。
死ななくても、水月が居たらそんなことどうって事ない。そんな気がするんだ」
僕は水月の頬に手を当てそう言った
「私も広町となら生きていける。」
水月はそういうと目をつぶり僕の額と水月の額を当てた。僕も合わせて目をつぶった。
水月の刺胞細胞がまた僕を襲う。が僕はそれを気にせずそのまま額を合わせたままにする。
病室にコツン、と音がなり響き静寂が2人を包む。
ドク、ドクとまた毒が体に流れてくる感覚が襲う。
それから数秒して、水月と僕は目を開け額を離した。
水月は額を離すと視線を下に向け淡々と話し出す
「私ね、自分自身のことが嫌いだった。広町を最初見た時強く当たったのは多分お父さんと重ね合わせたから。私のしたことが間違っていたことは分かってるけど、心のどこかで悪いのは私じゃないって思ってた。
海月は透明で、影の部分があったら自分で分かるのに、私は透明じゃないからわからない。だから私はクラゲになりたいって思った。お父さんに愛されたいって思った。だから「クラゲになる」って言った。自分が嫌いなものなのに、なりたいと願ってしまった。クラゲのことを好きになりたかった。私は自分のことを、好きになりたかった。」
水月は視線を僕に合わせ優しい声で言う。
「でも、もう大丈夫みたい。ちゃんと自分のこと、好きになれたよ。」
水月は衰弱しきった顔で笑った。
水月は僕の手を握った。
「広町は私が死んだら、また救えなかったって嘆くかも、後悔するかもしれないけど、私はもう十分救われたよ。」
泣きそうなのを悟られないよう、強がるように言葉を発する。
「救うって、何なんだろうね。」
水月は僕の手をさらに強く握って言った。
「救うっていうのは多分、相手を思う気持ちの現れの言葉だと思う。
誰かを助ける時も、相手のことを思ってその人を助けようとする。
私は広町に救われた。
私、お父さんが死んでから早く死にたいってずっと願ってた。早く死んでお父さんに会いたいなって。だからこの病気にかかった時、嬉しかった。私ここで死ねるんだって。またお父さんに会えるんだって。お父さんが死んだ日から私の心はもうとっくに死んだの。
でも、広町が私の死んだ心を救ってくれた。
久しぶりに生きたいって思えた。それだけで私は十分救われたよ。
たとえこの命が尽きても、私は広町に救われたって思う。
広町が救ったのは命じゃない。私のもっと大切なものだよ。」
水月は握っていた僕の手を離し自分の太ももに置く。
「広町が昔付き合っていた彼女も、命は救えなかったけど、本人は救われたって思ってるんじゃないかな…」
僕は笑って
「そうだといいな」と言った
そうこうしていると外は完全に暗くなっていた。
海には月が浮かんでいた。
僕はそれを見て水月に
「水月知ってる?海月の漢字の由来」と聞いた。
「確か、海に月が浮かんでるように見えるから、海に月でクラゲよね?」と外の海に浮かぶ月を見ながら水月は答える。
「そう。でも海月って他に水に母とか、虫に作るの右側の部分の漢字、鏡に虫って書いたりとか今上げたの以外にも色んなのがあるんだ。それぞれ由来は様々だけどね」
僕は水月の方を見てそう言う。
「そうなの?それ以外の漢字はどんなのなの?」
「…水月」
「私?それってどーゆー…」
僕は水月の言葉に被せるように言った。
「…さぁ、忘れちゃった」
水月は窓からこっちに視線を向けると何それとちょっと頬を膨らませる。
「そうだな…水月の病名、クラゲ症候群にしよっか」と僕は提案した。
「はぁ?なんで急に」
「水月はもう十分、クラゲだからね。」といい僕は笑う。
水月は
「何それ、訳わかんない」と笑った。
その日から4日経った頃、水月は倒れた。
ここでわかった事だが、水月は刺胞細胞が現れてきてから、体が透過して行っていた。水月が倒れた頃には体の8割はもう既に透過していた。まるで本当の海月のように。
水月は長袖長ズボンしか着なかったから誰も気が付かなかった。多分水月は自分はどうやったって死ぬって分かってたから言わなかったんだろう。水月が生きてるうちは自分の綺麗な部分だけを、僕に見せるために。
頭蓋骨が溶け出し、脳の一部が筋肉によって押しつぶされた。
潰された部分は「海馬」
つまり記憶を司る部分だ。
水月が次に目を覚ます頃にはもう水月は思考することが出来なくなった。
僕が誰なのか、菫さんや看護師など殆どの記憶がなく、呂律が回らない。そんな状態だった。
菫さんはそんな水月を見てはお父さんの写真を見せていた。だが、そんなことも虚しく水月の記憶は戻らなかった。
水月は生きながらにして、その生を全うした。
そして、死んだ水月の体には別の魂が入った。海月としての、水月の魂が。
病室に入り
「水月」
と僕が呼びかけてもなんの応答もしない。自分が水月であることが分かってないのだろう。
定位置に座るが水月は興味を示さない。
もう、終わりだろう。そんなことを倒れたあとの水月と直で触れ合い感じて、涙が零れた。どれだけ泣いてももう水月にはバレない。
いつものように揶揄われたり、あしらわれたりもしない。ただただボーっと病室の天井を見上げる水月。
そんな水月に僕は
「好きだよ」といい右耳のピアスを触った。
刺胞細胞に刺されるだろう、と思っていたが刺されなかった。
急に笑いと同時に涙が込み上げてくる。
「海月は死んでも刺してくるんだけどな…」
僕はそのまま水月にキスをした。
そのキスはどこか優しく、すぐにこの感触がなくなってしまいそうな程儚かった。
僕は十数秒唇を合わせると水月の唇から僕の唇を離した。
最後にもう一度、とキスをしようとしたが、直前で止めた。
「愛してるよ。水月」
僕はそう言い部屋を去る。
「広町」
廊下を歩いていると先生から呼び止められた。
「話せたのか?高坂水月と。」
「はい。お義父さんのお陰です。」
「おいやめろその呼び方。お前は前を向いて生きるって決めんたんだろ。」
「えぇ…ですからこれで最後です。それと一つ言っておきたいことがあります。」
「どうした?」
「水月はまだ死んでいません。水月の体内に流れていたクラゲ毒のお陰で脳周辺の筋細胞が活動停止して、ギリギリですが生きています。」
「…本当か?」
「はい。」
「なら、絶対にお前が助けろ。これは''お義父さん命令''だ。」
先生はそれだけいい笑って、これから対策考えると去っていった。
そうだ。水月はまだ死んでいないのだ。
ありがとう月夜。君のお陰で僕はまた一歩前に進めた。
これから、水月をどう助けるか考えなくては行けないな。今度こそ、僕の手で救ってみせる。
そう意気込んで僕は研究室へと歩き出した。右耳のピアスを触りながら。
「拝啓
いかがお過ごしですか?
これを読んでるということは恐らく私は死んでいるのだと思います。
お父さん、私を育ててくれてありがとうございました。
生まれてきたことで辛いことも沢山ありましたが、楽しいことも沢山ありました。男手1つで私をここまで育ててくれたこと、後生大事に抱えて生きていきます。
私が死ぬのは誰のせいでもありません。ですが、きっと海くんは自分のせいだと言うと思います。
私は彼宛にもう一通、遺書を遺しています。私は彼に言いたいことをその遺書で全て伝えたつもりです。言わずに後悔するより、言って後悔したいと思ったからです。
彼にそれが伝わらず、彼の自責の念が消えないというのなら、お父さん、彼を助けてあげてください。
『前を向いて生きろ。私は全て言ってスッキリして、前向きに死んだ。』
そう、彼に伝えてあげてください。
敬具
大道寺 月夜 」
敬具
大道寺 月夜 」